思い出すことなど [5]

10.

 7月17日、梅雨明け。
 爾後の彼は頗る調子がいい。数日前に行政書士事務所とちょっとしたバトルをしてから、さらに調子がいい。怒りは元気にしてくれるそうだ。腸閉塞の危機も脱し、無感覚だった爪先の感覚が戻ってきつつあった。

 新しい介護ベッドや車椅子、電動クレインも導入された。ベッドは以前のものよりフレイムの横幅が狭く、彼が両腕でサイドの手すりをつかみ自力で上体を起こすことができる。空気圧式のマットはプログラマブルで寝返りを促したりと複雑な動きを可能にした。
 新しい車椅子も細身で室内での動きに適しており、シルエットはリカンベントのように美しい。色は黒にも見えるメタリック・ダーク・ブルー。電動クレインは介護人がひとりでも病人を吊してベッドから車椅子へとラクに移動させることができるツールである。
 室内の移動で無理のない導線が描けるよう机の配置なども変更され、どのマシンからでも容易にデータにアクセスできるようNAS(ネットワーク接続ストレージ)サーバをセッティング。仕事場としての室内環境は、積極的に「活動」できる仕様へとヴァージョン・アップされた。
 さらには iPad も入手。これまではラップトップPCをベッドにわたすテーブルや膝の上に置いて使っていたのだが、大きく重たく感じたのだろう。ベッドで使うにはこのアップル製のスレイトPCがちょうどよかろうと彼が所望したのである。

 環境整備ということでモノよりさらに大きかったのは、京子さんを中心とする看護・介護の体制の変化だった。
 これまでの体制においてもっとも反省すべきは、病人自身をリーダーにしてしまったことだ。病人のために尽くす周囲の人間は、病人の意志を尊重し、病人の望むことをしてあげるのが最善のように思っていた。特に「今 敏」という人間はその仕事柄もあって常に指示を出す立場として振る舞ってきたし、闘病においても周囲は彼が主役であると同時にリーダーであることを求めてきた。
 しかし、病状というのは日々変化するものであり、病人の心持ちというのは体調によって大きく左右される。身体が辛いと悲観するし、調子がよいと気分も高揚する。死にたくもなれば生きたくもなる。そうした揺れ動く波は波として受け止め、生きるために確固たる意志で最善を尽くす牽引役が周囲に必要なのである。

「七夕の大患」から数日が経ち、問題点に気づき始めたころ、それをはっきりと言葉にしてわれわれを強く促してくれたのは、平沢進だった。
 ミュージシャンである平沢さんは「今敏闘病支援チーム」を「バンマス(バンド・マスター)不在のバンド」に譬えて語った。
「苦痛が続けば魔境に陥ることもある」
「揺らがず導くバンマスが必要」
「バンマスができるのは京子さんです」
 自分にできることはなんでもしたいけれども、それには京子さんが自分の前にいてくれなければならない、と。
「ただし、方向性は“全快”ですよ」

 今敏はフロント・マン兼リーダーだった。しかし、いま彼はフロント・マンではあるけれども、リーダーではない。
 彼女は覚悟を決めた。
 このまま消えゆきたいという彼の望みに応えようとホスピスを訪れた時、彼女は自分が彼にしてあげたいこと、彼がほんとうに望んでいるはずのものはここにはないと感じた。
 ホスピスの中庭から CALL HIRASAWA!!
「あたし、バンマスになります」

 以前から彼女は「今敏闘病支援チーム」の中心ではあったが、彼との関係においては当然のことパートナーという意識のほうが強かっただろう。パートナーから、フロントマンである彼を導くバンマスへ。
 自分自身で介護技術を習得しながら日々のケアにあたり、家事をするだけでも重労働なのに、医療・看護・介護スタッフのマネジメント、医療・介護機器の手配、わたしや原さんのスケジューリング、さらには新会社の仕事もこなす。日々忙殺されながらもいつも笑顔。
 体力には自信があるからと言っていたけれども、新生児の母親並みの細切れ短時間睡眠で、ほんとうに信じられないほどに働く。周囲は彼女が倒れないか心配していた。

「さすがに京子も車椅子のこととパソコンのことはいっぺんには考えられないからさ、サポートよろしく頼むな」
 もちろん彼は常に京子さんを気遣っていたが、驚いたことに、病に倒れてからも彼女に八つ当たりしたり、我儘を言って困らせたりしたことはなかったという。
 病人、特に身体の自由がきかなくなった病人というのは、家族などいちばん身近で世話をする人間に向かってやるかたない思いをた叩きつけたり、理不尽な要求をしたりするものだ。それは仕方がないことだも言える。いかに彼であっても、ふたりきりの時にはそうした態度に出ることもあろうとわたしは思っていた。しかし、一度たりともなかったのである。

 彼と彼女のことを知る者は、今敏のマンガや映画の女性キャラクタが、どれも京子さんによく似ていることを知っている。

11.

 連日の真夏日、連日の熱帯夜。
 わたしはというと、引っ越して住環境が変わり、連日の寝苦しさも手伝って5時台の起床が習慣づいてしまった。

 酷い暑さではあるが、復活後の彼は仕事に邁進している。
 新作『夢みる機械』について語るトーク・セッションを週2回のペースで開始。脚本やコンテだけでは伝わらない演出プランや表現のディテイルなどをスタッフ相手に解説するというものだ。さらには、プロットのみの未発表作品に肉付けをするトーク。いっときは「せっかく用意してもらったけど、使うこともないなあ。おまえにやるよ」と御役御免となるかに思われた上等なヴォイス・レコーダも役目を果たすことができた。
 ウェブログも5か月ぶりに再開して毎日のように更新。スレイトPCで画像を繰りながら「こういうコンテンツはどうだろうか」などと新会社の商品に関するアイディアを披露したりもする。数日前、平沢さんの置いていったメッセージ付の写真が「応援」しているおかげか。

「七夕の大患」後、わたしは毎日のように今宅を訪れていたが、海の記念日を過ぎてからは容態も落ち着き、週に3回程度の訪問になった。家に着く前に電車内から要り用なものはあるかとメイルで御用聞きするのが習慣になっていて、駅前で彼がつまみやすい小さなサンドウィッチだのゼリー様の栄養補助食品だのを買っていくのだった。
 自分自身が彼の介護をできるわけではないので、京子さんが外出中の安心材料として滞在し、新会社の仕事や自分の仕事を片付けながら彼の話し相手になるくらいである。
 毎日通っていたころは、こういう日々がいつまで続くのだろうとさすがに不安を感じないではなかったが、週に2日〜3日程度ならなんとなるし、リズムもできてきていた。

 そういう心持ちを察してか、病床にあっても彼は気を配る。
「ほんとすまんな。これじゃあ仕事にならないよな。LAN構築とかサイト制作とか、仕事として扱えるようなことはちゃんとギャラは出すようにするからさ」
「なに言ってんだよ、お互いさまじゃないか」
 自分でも驚くほど凡庸な返事をする。
「早く元気になって倍返ししてよ」
「来年の平沢さんのコンサート、こんな大きなベッドは客席に入れられないからさ、車椅子ででも観られるようにならないとな。ま、舞台の袖で寝ながら観てるってのもいいかもしれないけど」
 励ましなのかなんのか笑えないことしか言えない。

 祭りはいつかは終わる。闘病生活は非日常という意味においては祭りに通じる。きっとこうした日々も終わり、懐かしく思い返す日が来るだろう。そう思っていた。しかし、どうしても不幸な結末を想像することはできなかった。
 また正月を迎えて楽しく食事を囲んでいる光景しか浮かばなかった。これまでの正月と違って彼はベッドのなかかもしれないし、原さんも加わっているかもしれない。ただ、彼がいないシーンだけは描けなかった。
 それは逃げだったかもしれないが、われわれだけでもそう信じなければ病魔は退散してくれそうにない。

 7月の終わりには『夢みる機械』のコンテを撮影して動画にした「コンテ撮」があがってきた。
 仕上がりはたいへん素晴らしく、このまま予告篇にしてもよいくらい見事に映画全体の世界観を2分21秒で表現していた。動画には彼のお気に入りの平沢ナンバーが乗せてあり、彼自身が弁士さながらに台詞を読み上げる。
 さまざまなスタッフの手が入った完成品と違って、すべて彼の絵で構成された世界は、純粋に彼そのものだった。
 彼自身も満足できる出来だったらしく、非常に上機嫌。数日前から痰がたまったりとまた体調を崩していたが、この日併せて上がってきた短いラッシュの修正が済んだら平沢さんにも見てもらおうと意気込んでいた。どこでどういう勘が働くのか、知らせたわけでもないのに平沢さんも彼の体調悪化を懸念し来宅を希望していたのだ。
 この日、第2回『夢みる機械』トーク・セッションは3時間にわたって繰り広げられた。

 なんとかこの夏を乗り切れそうな予感。
 しかし、まだまだ涼しくなるまで先は長い。きっと9月になっても「残酷暑」は続くだろう。
 京子さんはヘア・カットでリフレッシュしてきた。
 わたしは7月最後の週末、早めの夏休みをとって海へ行った。

Kon's collection 03 - Butterfly Paprika

加弦知らず

音源があがってから3週間。
わけあって封印していた平沢進のニュー・アルバム『変弦自在』だが、発売日も迫ってきてそうも言ってられなくなったので開封することとする。
これも仕事だ。

変弦自在 / 平沢進
変弦自在
2010年11月10日発売
ケイオスユニオン(TESLAKITE)
CHTE-0051

バンディリア旅行団

一聴したところの第一印象を列挙してみる。

01: 夢みる機械
ナイロン弦からスカラ・プールへ。アースを取ってスパークで奏でる。優雅な調べでヒエロニムスの回路を通る。大太鼓打ちすぎ。

02: サイレン*Siren*
一団が棺を掲げて角を曲がってくる。小太鼓打ちすぎ。警報鳴りすぎ。神田川の増水じゃないっつーの。泣くっつーの。

03: MOTHER
母になった千代子がどこまでもいつまでも疾走していく。タイ語の経文に乗って。

04: 金星
雷雨の去ったアンデスの空に輝く宵の明星。

05: バンディリア旅行団
低解像度アナログから高解像デジタルHDへ。進化したペルーの草原の中継映像。ティンパニ鳴らしすぎ。

06: トビラ島(パラネシアン・サークル)
ナイロン弦で祝うポリネシアの火祭り。倍量の薪で燃える。地表を埋め尽くす暗雲のごときありえぬ低音。ストレス・ボンドのごとく襲来す。

07: 環太平洋擬装網
暗黒のAPECを呪詛するがごときシンバルにからむデストロイ・ギター。ピアノだって内部は弦楽器。音数多すぎ重厚すぎ。どこが還弦かわからぬほど台無しにする劇的な素晴らしき終焉。

合い言葉は過剰。
オリジナルとの差別化もあるだろう。
やりすぎと言っていいほどやりすぎている。
けれど「もっとやれ」と言いたくなるほど心地よき豊穣な過剰。
溢れだしてキミへと届くように。

このアルバムは「今敏追悼アルバム」と銘打っているわけではないし、全体がそのように設計されているわけではないだろう。
しかし、少なくとも「サイレン」は追悼曲として作っているし、マスタリング後には仏前試聴会も開かれたくらいだ。
M02〜M06の流れは『SWITCHED-ON LOTUS II』と呼びたくなるくらいである。
その流れを笑いを醸すM01とM07で挟み込んでいるのだから恐るべき調和。

というわけで、やはりこのアルバムはしばらくの間は聴き込むことができそうにない。
よって再封印。
どうせライヴのころのはまた聴くことになるだろう。

SWITCHED-ON LOTUS

思い出すことなど [4]

08.

 朝一番で京子さんは薬局まで鎮痛剤など取りに行かねばならいとのことで、わたしは8時半に今宅を訪れた。
 峠は越え、呼吸も落ち着いたとはいえ、少しの間でもひとりになることを彼が恐れたからである。死を恐れながらも彼は「早く楽になりたい、早く死にたい」と漏らした。
「きのうは平沢さんに、頑張る、と約束したじゃないか」と質す。
「病人らしく振る舞っただけだよ。たとえ峠を越えたって先は長くないさ」「自分にできるのは周囲に迷惑をかけないよう早く終焉を迎えること」と返す。
 自暴自棄とも違う虚脱状態。まるで死にそこなったことが信じられないかのようで、生気がない。しかし、顔から死相は完全に消えていた。本人も「ウソだろ、生き延びちゃったよ」という気持ちだったようだ。
 昨夜もあまり眠れず、寝たり起きたりが続いたためか、午前中は話していても半覚醒状態のこともあったが、少し長く眠り、昼過ぎになると顔色も戻ってきた。わたしはひと安心して、できたばかりの会社の書類を持って税務署だの銀行だの法務局だのへと向かった。

 外から戻ると彼は坊主頭になっていた。五分刈りというやつだ。毎日入浴できるわけではないので、長髪では汗をかいて鬱陶しいことこの上ないため、本人たっての希望で器用な京子さんが買ってきたばかりの電気バリカンで刈ったのである。痩せて眼光が鋭くなったせいもあり、不思議なくらい似合っている。男前だ。顔色はいっそうよくなり、非常に多弁になった。話していると元気が出てくるといったふうだ。
 19時には彼が「仕事における親」と呼ぶ、アニメーション制作会社マッドハウスの丸山社長が来訪。本来であれば、真っ先に病気を知らせなければならないのは実の両親と丸山さんだが、親という存在だからこそ、どうしても言えないで来たのである。しかし、搬送先の病院で死に直面し、もう残された時間はないと、ようやく病を告げたのだ。

「もう少しよくなってから言おうなんてカッコつけているうちに、こんな姿になってしまいました」
 丸山さんが入ってくるなり、嗚咽しながら彼は詫びた。手を握り返す丸山さん。そして半生を振り返る長い長い述懐。手塚治虫に憧れた少年時代、マンガ家となって大友克洋と一緒に仕事をした蜜月時代、丸山さんと出会いアニメーション監督としてデビューしてからのこと。
「丸山さんがいたから“今 敏”になれたんです。丸山さんが“今 敏”にしてくれたんです」
 3時間以上は話しただろうか。疲れるどころか、話し終えるころ彼は気力を取り戻していた。もっとも大きかったのはやはり、制作中止を覚悟していた新作『夢みる機械』について「なんとでもするから」と丸山さんが請け合ってくれたことだろう。

 翌10日。彼は酸素吸入器なしでも酸素濃度が標準値を保てるようになり、煙草が美味いとまで言うようになった。前日の丸山さんとの長い語らいがカタルシスとなったのか、憑きものが落ちたかのように再生し、また病と向き合う気力が出てきたようだ。

 話を聞きつけた平沢さんは喜びの余り夕方には再び「応援」に来訪。首から折れたハイビスカスの蕾が花を咲かせた話をしては「幸先いい」と繰り返していた。
 実はこの日、彼は時折悲鳴を上げたくなるほどの痛みに襲われいたため、いつもより口数は少なかったのだけど、上機嫌だった。
「我が家にヒラサワのいる超現実」
 日常の象徴の空間たる我が家のダイニングで非日常の象徴のような平沢進がお茶を飲んでいるのだ。なんというあり得ぬ光景。

09.

 病室兼仕事部屋兼応接室となった居間で場所塞ぎとなっていた巨大なマッサージ・チェアは引っ越し屋によって運び出されていった。丸山さんが貰い受けてくれたため、早々に搬送の手配をしたのである。これで室内を車椅子で動き回るにもよい環境となった。
 搬送したのはわたしが自宅の引っ越しを頼んだ業者で、格安で引き受けてくれた。このころなぜだか「ちょっと前の経験があとで役に立つ」という幸いなシンクロニシティ(と言うのは大袈裟か)に見舞われることが多かった気がする。

 広くなった室内に札幌から彼の両親が着いたのは、7月12日の16時近く。羽田からの道は混んでいて、迎えに行ったマッドハウスのOさんと車中ずっと話しながら来たそうだ。
 げっそりと痩せ細った病床の我が子を想像していたにもかかわらず、意外にも元気そうで驚いたと彼の母は繰り返し言う。なるほど上半身だけ見る分には病人らしくなく、痩せたとはいえむしろ精悍に見えてよい顔になったくらいだ。10代からの彼を知っている身としては、近年のふっくら顔よりもこうした鋭い顔つきのほうが馴染みがあるし、両親ならなおさらそうだろう。

 これまで両親のことは大きな懸案事項だった。病気のことを電話で伝えるわけにはいかない。札幌へ行って自分の口から直接に言う。9月に札幌でクラス会があるからそれがよい機会ではないか。5月や6月には彼はそんなふうに考えていた。しかし、病の進行は加速し、ついには下肢が痲痺したため札幌行きもかなわなくなった。結局、危篤となった際に「先に行ってるから」と電話することになってしまい、悩んだ末ようやく80歳を超えた両親に来てもらう決心がついたのだった。

「丈夫な身体に生んでやれなくてごめんね」
「いや、丈夫な身体を粗末に扱った自分が悪いんだ」

 努めて明るく振る舞おうとしていた母だったが、抑えきれない気持ちがこみあげてきたようだった。それでも愁嘆場は5分ほどであり、あとは励ますように語る。入院せずに自宅で過ごすと決めたこと、西洋医学だけに頼らないこと。世間では「一般的」とは思われない彼の闘病スタイルも「敏の考えだから」と受け入れている。さすがは自らの意志と才能で生きようとするふたりの息子のため、鋳型に入れたがる学校や教師とわたりあってきた母である。

 看護スタッフが来て身体ケアの時間となったため、いったん両親をホテルまで送っていく。彼の母には高校時代に数回会ったことがあるが、30年ぶりであり、向こうは覚えていないようだった。それでも、話し好きで社交的な人柄なので、2時間ほどを楽しく過ごした。父はふだん無口で威厳があるのだが、酒を飲むと気の利いた洒落が出る。さすが、今敏のルーツである。外見も両親ともにすらりとした長身だ。

 今宅へ戻り、手土産の鮭や鰻をいただき舌鼓。時知らずの鮭は言わずと知れた北海道名産品であり、なぜか浜松名産の鰻もまた彼の好物なのである。彼も少量を食べ、飲み、美味しそうに煙草をふかす。
 これまでの彼には死ぬことと生きること、両面へのアプローチが必要だった。生きる準備だけでは死ぬ時に困るし、死ぬ準備だけでは生きられない。
 だが、両親に会ったことで彼の死ぬ準備は完了した。きょうからはもう生きることだけ考えていい。そんな祝杯のようだった。

Pyramid
Kon's collection 02 - Pyramid stone (Egypt)

思い出すことなど [3]

06.

 7月3日の土曜未明に発生したサーバの不具合によって、今敏の公式サイト「KON’S TONE」がダウン。Web, FTP, メイル、データベースといった全機能がストップしていたが、日曜の朝にはようやく復旧したかに見えた。しかし、Webサーバ上のファイルも、データベース上のデータも、すべて消えている。どうやらバックアップも吹っ飛んでしまったらしく、ホスティング・サーヴィス会社では復旧後も書き戻すことができなかったと見える。ひどい話だ。
 別のサーバにローカルのバックアップからレストアしてサイトを再構築しつつ、頼まれていたサウンド・レコーダやらブルートゥース・マウスやらを注文し、新会社の名刺や挨拶状の文面を考える。日曜から月曜にかけてはそんなこんなで慌ただしく過ごしていたが、彼の身体の異変のほうはずっと慌ただしかったらしい。

 土曜に排尿があって安心したものの日曜にはまったく排泄がなく腹部が膨張し、月曜の朝には救急車で病院へ搬送。尿道カテーテルの施術を受けて帰ってきたという。
 メイルの返事がないのでおかしいとは思っていたのだが、夜になってようやくことの次第を知った。それでも、本人から挨拶状の文案修正のメイルが届き、術後の身体を「おお、サイバー」などと表する文章に安心することができた。

 七夕の水曜。降りそうで降らない蒸し暑い梅雨空が続いていたが、少し涼しい雨が降る。サーバの移設ついでにコンテンツの文字コードも変更し、文字化けとの闘い。夜にはようやく解決。サイトの主にもサーバ復旧の旨を知らせるが返事はなし。そのかわり、22:08に架電。
「いよいよダメみたいだ。おれもうすぐ死ぬから」
 息が荒い。一瞬、自殺でもしようとしているのかと思ったが、どうやら病院にいるようだ。
 どうしたというのだ、すぐに行くから、と返すのが精一杯。
「おまえと友達でよかった。あとのことは頼む。京子のことよろしく。あまり電池がないんだ。ほかにも電話しなくちゃならないから、切るよ。じゃあな」

 携帯電話を見ると1分おきに3度電話があったようだった。別室にいたため気づかなかったが、さぞいらいらしたことだろう。
 京子さんに連絡して状況をきこうとするが、どうもそれどころではないようで、23時半には家に戻ってるからそのころに来て欲しいとだけ言われる。なにがあったというのだ。仔細はわからないが、危篤であることだけは確かだった。
 自分自身もそうとうにうろが来ていたらしく、激しい動悸と手の震えを覚えながら、とにかく向かおうとぼんやり電車の乗り継ぎ時刻を検索する。
 誰かほかに彼の危篤を知らせ、死の前に会わせるべき人物はいないか。新会社のロゴから挨拶状、名刺などデザイン全般もお願いしているデザイナーのIさんが彼の家と同じ沿線上にいることを思いだし、電話する。ほんとうは危篤の彼にひとりで対面するのがいやだったからだと思う。情けない。慌てていたため、2回も自分宛に電話をする。
 平沢さんへ連絡し、状況が分かったら再び連絡することにする。
 原さんも詳しい状況は知らないようで、どう動きましょうかと言う。危篤という認識ではなかったのかもしれない。とにかく向かいましょうと言って電話を切る。
 シャンパンで会社設立を祝ってからたった4日じゃないか。この急変はなんなのだ。確かに癌は病状が安定しているようでも急激に悪化することがあるとは聞いてはいたが。

 最寄り駅でIさんと待ち合わせし、傘をさしながら今宅へと向かう。
 催涙雨。
 Iさんには病気のことを知らせてなかったので、道々話す。
 23時半過ぎに着くともう灯りがともっていた。いつものように京子さんが迎え入れてくれるが、もちろん笑顔はない。
 ベッドに横たわった彼は荒い息で鼻腔カニューレから酸素吸入を受けていたが、意識はある。危篤とはいえ一刻を争うような状況には見えない。
 肺炎を起こし、胸水が溜まり、酸素濃度が低下、意識が混濁して再び救急車で病院へ搬送。今日明日がヤマで、医師には病室から出るなんて論外と言われたが、家で死ぬために無理に無理を重ねて押し通しようやく帰ってきたのだという。京子さんは、不測の事態が起こっても病院に責任を問わないという承諾書を書き、酸素吸入装置や搬送車の手配をしてと彼のために動いた。思うことは「我が家が一番」。
「もうダメだよ」という彼に「病状なんて一進一退するもの。これは最初の峠だし、これからなんども峠を越えなくちゃならないかもしれない。そう簡単には死なないよ」などと通り一遍の励ましをするしかない。
 しかし、こうした時でも「こんなものをぶら下げるようになっちゃったよ」と蓄尿袋(閉鎖式導尿バッグ)を指したりする。こちらはこちらでコンヤガヤマダというギャグを思い出したりする。そういえば、あとになってからは「腹水、盆に還らず」なんて言いあったりもした。

 この夜、平沢さんは「行かない」と心に決めた。今さんは絶対にいま死んだりしないし、みんなが集まって来たりしたら、ああ自分は死ぬんだなって思っちゃうでしょ。だから高橋さんも落ち着いて、と。
 ずっと起きてるからという平沢さんには2時過ぎまで何度も連絡を入れた。わたしの話し方が落ち着いてきたので、彼の容態も落ち着いてきたのだなと思ったそうだ。最初は相当に動揺していたらしい。

 峠を越す間、彼がベッドでぐったりしていたかというと実は違う。疼痛感で身の置きどころがないのか、横になる向きを変えたがり、さらには立ちたがったり、座りたがったり。安静にせずやたらに動きたがる彼に周りは困惑した。すでにひとりでは立てなくなっていたが、両側から支えてあげればなんとか数歩は歩くことが可能だったのだ。京子さん、原さん、Iさん、わたしは彼の希望を叶えるべく立ち回る。
 明け方に4時ころになってようやく彼は眠り、われわれは初電で帰った。後日わかったことだが、この夜のことを彼はほとんど覚えていない。処方が始まったばかりでまだ適量がわからない痲薬系の鎮痛剤を服用しすぎたようだった。
  Iさんは「なんだかデザインやりにくくなっちゃったなあ」といつもの調子で屈託なく言う。いや、屈託はあったのだろうが、早く仕上げなくちゃいけない、いいものを作らなくちゃいけないというプレッシャーだろう。

07.

 翌日。当初は12日に予定していた公証人のもとでの遺言状への捺印が前倒しで行われることになった。自分はきょうあすにも死ぬはずだが、これを終わらせねば死んでも死にきれないという彼の意志によるものである。
 運悪く朝から2本も打ち合わせが入っていたため15時半くらいに今家へ行くと、もう平沢さんが来ていた。昨日は「今さんが元気になるまでは行きませんよ」と言っていたのが、朝になってやはり会うことにしたとのこと。
 彼が死ぬかもしれないという不安に駆られて来たわけではない。周囲までもが死を受け入れた「よくない雰囲気」が形成されているのではないか、そうならばその空気を変えなくてはならぬ、という強い思いで来たのだ。

 昼ころにはもう着いていて、ずっと手足をさすっては、元気づけていたという。昨日に比べれば息が安定してきたが、まだまだ相当にしんどそうである。
 平沢進は以後もなんどか今家を訪れたが、いつも見舞いといった表現は使わず決まって「応援」という表現をしていた。平沢進というひとは、今敏が尊敬してやまない存在であるというだけではなく、彼の音楽同様に、その場の位相をずらしてしまうような不思議な力を持っている。簡単に言えばへんなひとなのである。

 彼が平沢進の音楽を聴き始めたのは2ndソロ・アルバムからで、90年代に入ってのことだ。高校時代や大学時代にはわたしが平沢進の音楽(P-MODEL)を聴いていても興味を示さなかったというのに、バンドからソロになって音楽性が広がったこともあろうが、つくづく出会いというのはタイミングが大切なものだと思う。気がつけば、わたしなんかよりずっと深いところで平沢音楽を理解し、彼に音楽の依頼をする関係になってしまった。
 そういえば、わたしが平沢進に今敏を紹介したことが縁でサウンド・トラックを担当するようになったと思われている節があるけれども、そうではない。確かに初めて2人が会ったのは、わたしの取材に彼が同行した場ではあるが、その縁がのちにつながることはなかった。平沢好きのアニメーション監督がいるらしいと嗅ぎつけた平沢スタッフが映像編集の依頼をしたのがきかっけで、彼のほうから平沢進に映画音楽を依頼することになっていったのである。

 16時過ぎ。公証人一行が到着。相手が病人であることなど頓着なく長々しい説明をし、事務的に遺言状を隅から隅まで読み上げ、流れ作業で捺印。本人はもういいからさっさと判を押させてくれと悲鳴を上げそうだった。公証人はわざわざ家まで来てやったと言わんばかりの居丈高な態度であったが、なぜか原さんの名前だけを常に読み間違えるので、終いに原さんは自分から名乗っていた。
 彼は責を果たしたかのように安堵の表情さえ浮かべていたが、平沢さんはなぜこんな状態でこんなことをするのかと納得がいかない。

 続いて医師と看護師が来宅。搬送先の総合病院の医師ではなく、彼が通院しているペイン・クリニックの緩和ケア専門医である。在宅医療を続けるにあたり、最大の課題は「主治医がいない」ということだったのだが、ケア・マネージャの尽力の甲斐あって、この日、主治医になることを承諾してくれたのだった。
 ひととおりの診察を受けたあと、彼は医師と折り入って話がしたいのでと、京子さんだけ残し人払いをした。
 あとで聞いた話では、主治医となった医師に、自分がどのくらい生きられるのか正直なところを聞かせて欲しい、といったことを問うていたらしい。この状態が数か月で終わるなら自宅療養でも経済的にも看護する周囲の体力的にももつだろうが、長引くのであれば別な方法を考えねばならぬ、と。

 2階へ上がって話が終わるのを待っている間、平沢さんは「この空気はよくないですよ、なんでみんな死ぬ準備ばかりしてるの」と苛立ちを隠せなかった。もっとしなければならないこと、してあげたいことがあるんだという切実な顔だった。
 医師の帰ったあと、彼の手を取った平沢さんは「今さん、頑張りましょう」と言い、弱った声で彼は「頑張ります」と力なくも握り返した。
 彼が危篤状態を乗り越えられたのは、一日付き添って彼の痲痺した脚をマッサージし、つきっきりで「応援」した平沢さんのおかげだと、いまでもわたしは思っている。医者は抗生物質が効いたと言うだろう。しかし、寝たきりの義父がなんども肺炎で入院してシリアスな治療を受けたのを知っている身としては、抗生物質を投与しただけで肺炎が簡単に治るとは思えないのだ。

 この夜、twitterのタイムラインを見ていたわたしは、昼間に会うはずだった編集者が2日前に死んでいたことを知った。この日の夕方、遺体で発見されたのだ。なにも知らない学生時代からいろんなことを教えてくれた大切な存在で、四半世紀のつきあいだった。
 病床の彼に死の匂いは伝わってしまっただろうか。

Persona
Kon's collection 01 - Persona (Korean)

電子書籍と呼ばれない

電子書籍と呼ばれて」と書いたもののさっぱり電子書籍とは呼ばれない『改訂復刻DIGITAL版 音楽産業廃棄物』が10月16日に発売された。

通販がメインなのでダウンロード開始とか発送開始というのが正しいところだろうか。
パッケージ版は製版データ入りという衝撃の仕様なのだが、出版業界人でなければさほど衝撃は受けないと思われる。
いや出版業界人でもそんなに驚くことじゃないか、ほかに例がないってだけで。
これは電子書籍というものへの皮肉という意味合いもあったのだけど、ま、いい。

当初、DIGITAL版はダウンロード販売だけのつもりだったのだが、Shop Mecano 店主の中野さんが強く推奨するので、予約が500以上集まったらパッケージ版も作ることにした。
だってほら、パッケージもんって作るのも売るのもめんどくさいじゃん。
そうしたら、予約が500も集まっちゃったから大変。
予約開始前からコンテンツはほとんどできあがっていたので、中身に関してはよかったのだけど、問題は外側である。
より正確に言うならば外側をデザインするひとである。

もともとはパッケージ版を出すとしても、ブロードバンドが一般化する以前のLinuxみたいにダウンロードできないひとへの救援策くらいに思っていたので、単にDVD-Rに焼いただけのバルクDVDでいいんじゃないかと考えていたのだが、せっかくだからP-MODEL30周年/平沢進20周年の記念品的な意味合いも持たせて、手にして嬉しいものにしようじゃないかという考えにシフト。
そこで、おなじみイナガキキヨシ巨匠にお願いしたのであるが、クライアント泣かせで有名なのである、いろんな意味で。

メイルのログによると依頼をしたのは7月24日。
超意外なことに8月6日には第1案があがってきている。
それが、コレ。

カッコいいと思う。
思うが、うーん、店頭販売だけだったらまだしも、どうやって発送すんの?
袋に入れて、折れたり割れたりしないように箱に入れて……あ、それだとデザインのコンセプトとズレる?
そんなやりとりをしていろいろ検討したけれども、見積もりの結果、穴開け文字の「型代」だけで40万円くらいするとかで、価格が500円ほど上がってしまいそうなため、あっさり挫折。
せっかく「どこでもCDクリップ」みたいなのまで探してもらったんだけどね。

途中、USBメモリ案なども浮上するもやはりコストで断念。
ピザ・ケース案を経て8月23日に出てきたのがコレ。

う〜ん。
店頭でコレが並んでたら確かにオカシイ。
某監督も画像を見て軽く笑った。
でも、買ったひと、どう思うだろ。
パッケージを開けたあと、どうやって保管するのよ、発送の時にどうやって梱包するのよ。
などなど難点が多かったものの、とりあえずと見積もり依頼を出したところ、CDが入る大きさの食品トレイの手配がつかず、型から作るとコスト高になるというのでまたしても玉砕。
同時提出された通常のDVDケースを使用する案へと方向性は固まったのであった。

DVDのスリーブ(外箱)デザインにはこういうアイディアもあって迷ったのであるが、現行のものに決定。
このデザインだと版を重ねるごとにどんどん写真が入れ子になっていっておかしかったのだけど。
でもって、デザイン案があがってから実際に入稿データができるまで1か月を要したところが巨匠が巨匠たる所以であり、まったく気が抜けない。
最終ヴァージョンはコレ。

実はこのデザイン、質感を出すため、いったん出力したものをさらに撮影し、それを印刷用データにしたそうである。
裏には「ヘソ」も残っている。
さらに梱包用段ボール箱も作った。

限定1000枚で作ったパッケージ版は結果として、すでに700枚以上売れ、Mecano納品分も加えると800枚は捌けている。
対してダウンロード版は30程度。
ダウンロード版完敗。
これも中野店長の読み通りである。
中野店長にも完敗。
ここらへん真面目に分析すると面白そうなネタではある、しないけど。

そして、パッケージ版が好評なのは2か月を費やした装幀のおかげでもある。
パッケージ商品が減っていくご時世だからこそ、パッケージとしてのありがたみがないとパッケージで出す意味はない。
そういう当たり前のことを改めて感じた次第である。

思い出すことなど [2]

04.

 6月は自宅の引っ越しがあり、なにかと慌ただしく過ごしていた。学生時代からお世話になっている編集者の母上の葬式に出たり、大学時代の友人がアメリカから子連れで帰国したというので数人で集まったり。さらには短期集中の仕事が入っていたりもした。
 もちろん彼の病状は心配ではあったが、クルマの送迎ながらもスタジオへ通って仕事をしているというし、どうも平沢さんと会って以来、妙に安心してしまったところがあった。むしろ考えまいとしていたのかもしれないが。

 彼のほうでは6月2日から4日まで東北に滞在して免疫療法の病院で採血を行い、三鷹のペイン・クリニックに緩和ケアを受けに通い始めたりもしている。

 入梅後の6月16日。マッドハウスが引っ越して以来、初めて「今組」のスタジオへ。2週間ぶりに彼と会う。
 用向きとしては、ハードディスクがクラッシュして起動しなくなったラップトップPCの引き取り修理。故障したハードディスクからデータのサルヴェージをし、新しいハードディスクと換装、OSを再インストールするわけだ。まあ、よくやっていることではあるし、自分のラップトップとほぼ同型なので扱いやすい。
 新会社でショッピング・サイトを開くプランなども打ち合わせる。彼はこういう話をしていると顔が明るくなる。つくづくなにかを作ったり、プランを練ったりするのが好きな男なのだ。前向きに新しいことを考える時はもちろんのこと、それがたとえ「店仕舞い」のための準備であろうとも、その作業自体を楽しもうと計画する人間なのである。根っからのクリエータであり、プロデューサ気質なのである。

「今 敏」という人間と初めて会ったのは高校1年の時だったはずだ。クラスは違ったが長身に長髪という目立つ容姿をしており、他を寄せつけない独特の雰囲気を持っていたので、なんとなく覚えていた。高校2年ではクラスが同じになり選択科目の美術も一緒だったが、最初はとっつきにくい感じがして敬遠していたように思う。
 ある日、教室で隣のクラスのやつから借りた PANTA & HAL の1stアルバム『マラッカ』のジャケットを眺めていた。3月に出た2ndアルバム『1980X』を聴いて気に入ったので、遡って1stを借りたように思う。もしかすると放送部だったので、昼休みの校内放送でかけたのかもしれない。すると背後から声がした。
「おまえこんなの聴くの? これ、オレの兄貴なんだよね」
 振り返ると、歌詞カードに掲載された鋤田正義が撮影したメンバー写真のギタリストと同じ顔があった。そりゃあ驚く。北海道の東部でそんな偶然があるはずがないではないか。

 この反則のような端緒から、初めて会話を交わしたように思う。それからつきあいが始まったのではあるが、彼は美術部やマンガ/アニメ同好会の仲間と、自分は放送部の仲間と一緒にいることのほうが多かった。互いの家に遊びに行って生意気に酒を飲んだりもしたが、あまり深い話をするわけでもなく、レコードを聴き、馬鹿話に花を咲かせていただけだ。
 彼もわたしも人間関係には距離を取るほうであり、クラスのなかでどのグループにも所属しないという点においては同じだった。修学旅行ではそのような「身の置き所のない4人」で班を作った。東京での「自由行動」は班単位で行動するのが原則だったのだが、班員それぞれ趣味も行きたい場所も違うため、出発前の計画書だけ取り繕って実のところは個人行動だったのだからひどい話だ。

 高校卒業後はふたりとも上京したので、年に2〜3回は会っていたと思う。予備校に通っていたわたしは、共通一次試験の再受験の際には会場である武蔵小金井の学芸大学に近い彼のアパートに泊めてもらったのだが、緊張のあまり朝までマンガを読んでまた失敗したとずいぶんあとまで笑われたものだ。仕事をするようになってからも、だいたいはそんなペースで会っていて、お互い結婚してからはいわゆる家族ぐるみのつきあいになった。
 いつからか正月にはどちらかの家に集まって新年会をするのが慣わしになっていて、今年の正月には我が家で3歳児とかくれんぼはするわ、お姫さまのスケッチは描くわの大サーヴィス。子供好きのキャラクタからはまったくかけ離れている彼だったが、この3歳児が生まれた折にはたくさんの祝いの品をもらい、ずいぶんと気にかけてくれていたし、ふだんは人見知りの激しい子供も「コンサン」「キョウコサン」と懐いていた。

 活動するジャンルが違うとはいえ、この10年間で彼が「世界の 今 敏」になったことに、正直に言って羨む気持ちがなかったわけではない。マンガやアニメーションを作る才能だけならまだしも、文章を書かせても才能を発揮する彼に嫉妬心がわかなかったと言えば嘘になる。
 しかし、比較するほどの才能が自分自身にあるわけでもなし、学生時代から彼のマンガが入選したり、大友克洋のアシスタントになったりという活動遍歴をずっと見てきた身としては嬉しさのほうが大きかったというのもまた正直なところである。編集者として見て彼の文章はあまりに面白いので、自分から単行本化の企画を持ち込んだくらいだ。
 ただ、彼が仕事に対して非常に厳しいのはよく知っていたので、友達関係を維持していくには彼とは仕事では関わらないほうがよいかもしれないという危惧すらあった。幸い、単行本『KON’S TONE』の編集をはじめ、雑誌やムックのインタヴュー原稿などの仕事もいくつかしたが、どれも気に入ってくれていたようで、絶交するような事態には至らずに済んだ。
 そういえば、彼が周囲に「監督」と呼ばれるようになってからは、こちらもアニメーション関係者の前では立場に気を遣って「監督」と呼ぶようにしていたのだが、彼のほうも人前ではわたしのことを筆名である「かしこ」で呼ぶようになった。高校時代は同じクラスに3人も「高橋」がいたため同級生からはだいたい下の名前で呼ばれいて、彼からも長年「まさる」と呼ばれていたのだが、彼なりの気遣いや公私を分ける気持ちがあったのだろう。

05.

 北海道にはない、梅雨といういやないやな季節。ただでさえ体調を崩しがちだというのに、2010年の梅雨は彼にとって声も出ないほど激しい痛みとの闘いの季節となった。

 4月末から肺癌の手術で上京していた父は、退院後もしばらく留まって姉の家から手術した病院へ通院していたのが、ようやく1か月半ぶりに梅雨のない北海道へと帰っていった。術後の検査結果では切除した部位のリンパ節からも懸念された癌細胞が見つかったのではあるが、放射線療法や薬物療法は行わないことに決めた。そのころには、切れる癌は癌じゃないというほどの心持ちになっていたので、父の病状についてはむしろ楽観していた。ひどいといえばひどい息子である。

 わたしは株式会社KON’STONE設立準備を進め、京子さんは遺言状作成を手配していたころ。彼は大がかりな神経ブロックによる治療を受けるため、6月23日から26日まで短期入院した。たいへん不愉快極まりない入院生活だったようで「アニメ業界も医療業界も同じ、木っ端役人が跋扈する世界」と語っていたが、それはさておき。
 精密検査の結果、予想以上に癌による肉体の浸蝕の度合いが激しく、予定していた「腹腔神経叢ブロック」を施すにはリスクが高すぎるため治療は断念せざるを得なかった。この施術が受けられていれば、半年間は痛みから解放されるはずだったのだが。

 退院後の6月28日、平面的に寝そべると激痛が走る彼のために医療用ベッドと車椅子が用意された。そこまで悪化しているとはまだ知らなかったわたしは、少々の異議を唱えた。
 というのも、2年前に脳卒中で倒れた義父が杖による歩行から車椅子へ、車椅子から医療用ベッドへと移り、あっという間に寝たきりになってしまっうのを見ていたからである。動けるうちはなるべく動いたほうがいいのではと素人ながらに思っていたのだが、転倒による脊髄の損傷で半身痲痺、最悪の場合には死亡する危険性すら医師に指摘されていたという。わたしが気を抜いていた1か月の間に癌は凄まじい速度で進行していたのだ。
 医療用ベッドは1階の居間に置き、2階にあった仕事道具も1階に移す。1階にはLAN回線が来ていないので、無線LAN環境を構築。ベッドのテーブルでもラップトップ機を使えるようにする。CATVによるインターネット回線用のよくわからない接続機器だったのでルーティングするのにえらい時間がかかってしまった。

 株式会社KON’STONEは6月25日に登記を完了し、7月1日には補正確認も終わって正式スタート。名刺だの挨拶状だのをデザイナーに依頼する。京子さんの本業はデザイナーなのだが、彼女が自分でやっている時間はとれそうにない。彼の病状が悪化するに従い、介護など日常的な作業量は増大、加えて在宅医療・看護の体制作り、医療用品・介護用品の手配、自分自身が行うべき看護や介護の勉強といったことに忙殺されている。

 その週末、7月3日にはマッドハウスのプロデューサで株式会社KON’STONEのスタッフとしても動く原さんと一緒に1階のさらなる環境整備。本棚など当面不要なものは2階に上げてスペースを作り、仕事机などを1階に下ろす。巨大なマッサージ・チェア(通称・ガンダムのコクピット)が広い面積を塞いでいるが、これは専門業者にでも頼まない限り移動は無理であるし、貰い手も決まっていない。
 不具合のあったLAN環境も再調整し、なかなか快適。手持ちのスマートフォンも心地よくネットに繋がる。さらには修理の終わったPCにソフトウェアのインストール。ヴォイス・メモを取るためのサウンド・レコーダだのブルートゥース・マウスだのMP3プレーヤをオーディオ・アンプに飛ばすブルートゥース機器だの、要り用なものをリクエストされ、手配の段取りをする。
 病のなかにあってもこの日の彼は体調がよく、薬の効果で痛みもやわらいでいたようだ。実はこの日の朝、転倒して冗談抜きで「死ぬかと思った」ことをあとで知ったのだが、われわれが作業している間に異状はなく、利尿剤が効いたのか懸念されていた尿も出た。

 夜には、彼はベッドで、われわれは居間続きの食堂で、ささやかな会社設立パーティ。ここぞという時に開けようととっておいたという、いただきもののかなり上等なシャンパンで乾杯。熟成年月が長く、深みのある味。これまで飲んだシャンパンでも飛び抜けて最高に美味しい。わたしなんかよりよっぽどいいものをたくさん飲んで来た彼も「これは美味いね」といいながら、少量を飲み干す。

 この夜は、ほんとうに楽しく、愉快だった。

思い出すことなど [1]

00.

 長く耐え難かった夏もようやく、ようやくのこと、終わった。

 今敏が最後に記したウェブログ「さようなら」は、掲載から1か月で閲覧数が20万を超えている。
 あれを遺してくれたおかげで残された者たちがなにがしかをステイトメントする必要もなく、その意味ではたいへん楽をさせてもらった。
 事実を伝えるにおいて過不足なく、よく練られ、構成され、エンタテインメントとしても成立する笑いのある文章。彼の作る映画と同じ才気が感じられる。ああいうものを自称素人に書かれては自称玄人としてはたまったもんじゃないが、これも才能の違いだ、しょうがない。

「さようなら」の文章に限らず、彼の3か月はなにかにつけ「迷惑をかけまい」とする配慮と行為の集積だった。周囲の人間、そして自分自身への感謝と思い遣り。それを実現するための周到な計算と強靱な意志による実践。
 3か月という「生活」さえもまた彼の作品だった。

 それに対してなにかを付け加えたり、解説したりするのは蛇足の観を免れないが、近年の映像作品のソフトウェア化には必ずといっていいほど併録されているオーディオ・コメンタリのようなものだと思っていただければ幸いである。

01.

 呼鈴を鳴らし、鉄製の門扉をきしませながら開ける。
「いらっしゃい、きょうも暑いね」
 妻の京子さんが玄関まで出迎えてくれる。三和土に立つ彼女はたいてい裸足だ。
 居間に入ると、傾斜させた寝台で半身を起こした主(あるじ)が片手を挙げる。
「よっ、いつも悪いな」
 気分がよい時には笑って快活に、そうでなければ俯き加減で。
 この夏、幾度も繰り返された光景だ。
 陽射しを避けて薄暗くしたその空間は、高密度だが現実感は希薄だった。ふたりを残してその特別な空間から出ると自分はいつもの日常へと戻り、我に返ったようになる。
 再び繰り返すことはない現実という意味では夢と同じくはかない過去ではあるが、そこには間違いなく別の日常があった。

  観測史上最も暑かった夏は、彼の命を奪った。

02.

 前年から探していた自宅の引っ越し先がようやく決まり、準備に追われていた5月の20日。彼から電話があった。
 電話で話すような内容じゃないので自宅に来て欲しいという。仕事の話なら制作会社のマッドハウスでするだろうし、話の主題くらいは語るだろう。しかもできるだけ早いほうがいいと言う。おかしいなと思いながらも翌日15時に会う約束をした。
 新作『夢みる機械』に関する本の編集だろうか。あるいは作品制作が暗礁に乗り上げてしまってなんらかの相談事だろうか。まあ、久しぶりに一緒に食事をするのもいいかもしれんな。呑気にそんなことを考えていた。
 翌21日。昼に引っ越し先の契約を終えたあと、今家へ向かった。
 入るとふたりとも大きな円い座卓にかしこまった雰囲気で座っている。近ごろの忙しさ具合はどうだとか、調子はどうだとかいつもの挨拶に続いて、いつになく切り出しにくそうに言った。
「いや、暑いなかわざわざ来てもらって悪いな。実は最近、杖なしじゃ歩行が困難になっちゃって」
 義父が脳卒中で倒れる前に跛をひいていたことを思い出し、まさか…と思う。だが、答えはさらに最悪だった。
「おれ、膵臓癌でさ、もって半年、悪くて3か月って言われたんだ。もう骨まで転移してて、年越せそうにないんだよ」
 待ちかまえていたかのように京子さんがわっと泣き崩れる。
 なんのコントだ。一気に現実感が遠のく。

 3日前に検査結果を知らされたばかりで、まだ側近のプロデューサーである原さんにしか話していないという。2月末にライヴに会った際にも足腰が痛むとかそういう話はきいていたが、お互い40代も半ば、身体にガタが来ても不思議ではないと思っていた。
 健康診断のひとつも受けていればなどといまさらながらのつまらぬ問いを発すると、膵臓癌はたとえ健康診断を受けていても見つかりづらい癌であり、見つかった時には手遅れというケースが多いと言う。彼の場合も痛みに耐えかね、3月から5月にかけてさまざまな検査を重ね、ようやくのこと膵臓癌であると判明したそうだ。その時々で胸膜炎だの加齢による関節痛などとも言われたが、4月末には膵臓癌の疑いが指摘されて精密検査をしたらしい。

 手の施しようがないと言いながら化学療法や放射線療法を勧める医師。効果のほどを説明することもなく、それが定番のコースであり、そうするのが世の習いであるかのように話す。対して彼は「煙草が吸えない」「食事が不味い」という2点だけで入院は拒み、通院を決めたという。わたしも正しい選択だと思った。
 実はこれより先の5月6日、わたしの父が肺癌の手術を受けたばかりであった。その際に担当した外科医は予防的な放射線療法や化学療法はお薦めしないと言葉を濁しながらも言った。効果がないとは言わないが、80歳近い年齢を考えれば放射線療法や化学療法はリスクのほうが遙かに大きいということだった。
 膵臓癌と肺癌では事情が違うだろうし、年代も異なるので同列には語れまいが、治癒や延命という効果の保証はまったくなく、確実に副作用の保証だけはされている治療を受けても仕方がないだろう。

 ついては、人生の後片付けのためのサポートをしてはくれまいか、というのが彼の頼みだった。手始めに作品の著作権管理をする会社を作りたいという。
 そのくらいの手伝いは簡単にできるし、幸いといおうか、本来であれば幸いではないのだが、仕事は詰まっていない。そもそも癌にならずとも、彼くらい著作を抱える立場であれば会社を作るのは当然であり、以前からそういう話はしていたのである。
 そのほかにも、彼はあれやこれやと懸案事項や依頼事項を語り、もろもろの相談相手、コンサルタント役になってくれと言い、先々においては改めてインタヴューをし、過去の文章をまとめ、彼の人生の総決算をコンテンツ化してほしいという。わたしはもちろんすべて引き受けた。

 制作中の新作『夢みる機械』は脚本はあがっているもののコンテはまだ途中。自分が死んでしまえばどうせ制作中止になるだろうが、いまは対外的な問題もあるし、制作スタッフにも病気のことは伏せている。公表できる段階になれば、自分のサイトで闘病記を発表するのもいいかもしれない。などなど。
 ひととおり彼が話したところで、死ぬ準備も必要だけれど、生きる準備も必要ではないか、とわたしは言った。父の癌について相談した折りにさる人物からいただいたアドヴァイスの請け売りではあるが、末期癌から生還した例はよくきくし、ただ死を受け入れるのではなく、免疫力を高めるとか、毒出しするとか、やれることはやってみようではないかと。
 徒に確証もない希望を語るのはどうかとは思うが、そんな話をせずにはいられなかった。
 彼も本来は前向きな人間である。わたしの話に興味をもってくれたようだ。

 今家をあとにして駅までの道、歩きながら泣いた。
 こんなことに巻き込んでしまってすまんな、と彼は言ったし、重たいものしょわしちゃってごめんね、と京子さんは涙声だった。
 しかし、いち早く打ち明けられ、相談され、頼みごとをされたことはむしろ嬉しかったし、誇らしくもあった。彼とは30年のつきあいだが、初めてほんとうの友人になれた気がした。
 あとになって京子さんも「初めて夫婦になった気がした」ということを言っていたけれども、同じ思いがあったのだろう。

「おれ、おまえしか友達いないからさ」
 3か月の間に、そんな言葉をなん度か口にしたことがある。もちろん彼には仕事仲間はたくさんいるし、仕事を通じた友人やともに闘った盟友・戦友のような存在もいる。また、遠く離れて会う機会が減ってしまった友人もいる。しかし、身近にいる仕事外の友人、という意味では適当な人材がなかったのだろう。だからこう答えることにしていた。
「お互いさまだよ」

03.

 5月30日。晴れわたった午後。
 新宿のホテルのこぢんまりとしたミーティング・ルームで「元気と自信を注入する会」が開かれた。
 彼の病気のことを平沢さんに話したところ、ぜひ力になりたいというありがたい反応があり場を設けることにしたのだが、実はこのころには彼すでに「元気」であった。
 もちろん肉体的には元気ではないが、精神的には「ハイ」であった。
 たとえ悲観してもけっして自暴自棄になる人間ではなかったが、やれることはやる、という力が湧出してきたようだった。わたしも2冊ばかり免疫に関する本を送ったりしたが、彼、そして京子さんは文字通り必死になって癌と闘う方法を模索していた。
 標準的な西洋医学がお手上げというのなら、非標準的な西洋医学がある。東洋医学もあれば、代替医療もある。眉に唾せねばならないものも多かろうが、まさにダメモトである。標準的な西洋医学だけを信じ、伏して死を待つことはない。

 そうした彼にとってもっとも「良薬」であったのは、平沢進の音楽である。これほど生きる力を与えたものはなかったろう。そして、平沢さん自身もまた不思議とひとを元気にさせる力があった。
「癌? そんなのは風邪みたいなもんですよ。絶対に治ります」そう言って笑う平沢さんの言葉には、彼だけでなく京子さんも原さんも力づけられたはずだ。
 ああ、彼の癌は治るんじゃないかな。不思議な安堵があった。
 いや、実のところ彼の死に至る病を受け止めるには重たすぎて、助けを求めたのはわたし自身でもあったのだ。自分自身が少しでも楽になりたくて平沢さんを呼んだのだ。以来、どれだけ平沢さんが力になってくれたことか。力になる、というより、一緒に闘ってくれたと言ったほうがよいかもしれない。

 今は言った。標準ではない生き方をしてきた自分には平沢さんの逸脱した音楽が合っていたように、標準ではない医療が合っているのかもしれない。死の恐怖の前につい標準に合わせようとしたが、これからは自分に合ったやり方を見つけていきたいと。

 この場は終始明るく、笑いに満ちていた。

新説P-MODEL史

本日発売の『キーボード・マガジン 2010年10月号 AUTUMN』の特集「アーティスト列伝 P-MODEL」を電子書籍よろしくPDFで読んでいる。
自分で言うのもなんだが面白い。
いや、自分で書いたところ以外が面白い。

メインであるP-MODEL歴代キーボード・プレーヤの取材記事は感心することしきり、発見も多い。
さすが四本淑三だ。
機材知ゼロ・楽器知ゼロのわたしでは「プレーヤの心ライター知らず」でこうはいかない。
というか、いままでこういう側面から捉えたP-MODELの包括的記事ってなかったのではないか。
キーボード・プレーヤを軸として機材面・サウンド面から見たP-MODEL史。
ほんと新しいP-MODEL像が見えてくるといっても過言ではない。

取材には同席させてもらったのだが、田中靖美というひとは音楽から離れていてもミュージシャン的かつノン・ミュージシャン的でめちゃくちゃカッコよかった。
同行した特集企画者・中井敏文(モノグラム)感涙。
よく似ていると言われる初期XTCと初期P-MODELだが、同じフレーズも同じ音色も使ったことはないそうで、似て聞こえるとすれば、バンドのアンサンブルのせいであろう、と。

國崎晋編集人が特別寄稿したコラム「跳ねる田中靖美」も名文だなあ。

詳細な解凍P-MODELのサウンド解説ってのも初めてじゃないかな。
ライヴはほとんどシークエンサ任せだとみんな思ってたはず(自分だけか?)だが、リアルタイムで処理していた部分も多かったという。
ヤスチカのキックが実は音は出ていなくてシークエンスのテンポを作るためのトリガーだったとか、驚き。
あの「キーボード要塞」は伊達ではなく、裏では信じられないほどキテレツなことをやっていたらしい。
あ、詳細は記事を読んでくださいね。
そういえば記事にはならなかったけど、80年代のことぶき光がいっつもライヴでガム噛んでたのは、緊張感を高めるための彼なりの工夫だったらしい。

中野泰博Mecano店長による全アルバム・レヴューもものすごい勢いで「P-MODEL早わかり」できちゃう力作。
スペースの都合で入れられなかったけど、廃盤となっている解凍P-MODELの2作は「ゴールデン☆ベスト」というカップリングで入手可能なので、ぜひMecanoで買おう。

話は前後するが、自分で書いたP-MODEL略史も、細かいことは忘れて短くまとめることで実は自分なりに発見があった。
これまで見えなかった骨格が見えたというか。
けど、あんまり書けることじゃないなあ。
要は『パースペクティヴ』でP-MODELはいったん終わってるってことなんだけど、わかるひとにはわかるよね。
掲載された文章自体はビギナー向けで新しい情報なんかないので、予備知識がある方は2ページとばしてください。
あ、その2ページにも写真は珍しいのもあるか。
ほかのページも含めて書籍『音楽産業廃棄物』には載っていないレア写真がけっこうあります。
よく見る写真にしてもやっぱり大きいと迫力が違うしね。

一応、ラストには平沢進のインタヴューもあって、例の煙に巻く名調子で楽しませてくれる。
いつも感心するのは、この記事によらず田中靖美と平沢進の発言というのは、申し合わせたように整合性がとれていること。
不思議に思って平沢進に質問してみたことがあるのだが「なぜ田中とはP-MODELを共有できたかがわかるでしょ」との答え。
P-MODELはノイズと誤用のバンドである、か。
最後の最後で14ページにわたる大特集を台無しにするような「オチ」までつけてくれてちゃってる。

キーボード・マガジン
キーボード・マガジン 2010年10月号 AUTUMN 2010.年9月10日発売 リットーミュージック

電子書籍と呼ばれて

5年前に改訂版を出した『音楽産業廃棄物』を再改訂してデータ版で復刊することにした。
世間的に言えば「電子書籍」というやつになるのだろうが恥ずかしいのでそうは呼ばない。

本題に入る前に「電子書籍」のおさらいをしておこう。
世間様の言うところの電子書籍をめぐる昨今の論議というのは、3つのレイヤがごちゃまぜになっていることが多い。

(1)コンテンツ
(2)デヴァイス
(3)流通販売

(1)は本の中身であるが、ヴューア(ソフトウェア)とそれに対応したファイルフォーマットと密接な関係にあり、標準化規格から独自規格までいろいろ。
(2)はKindleやNookなどの読書に最適化された専用デヴァイス、iPadなどスレイトPCと呼ばれる読書もできる汎用デヴァイス。
(3)はAmazon(Kindle), Barns & Noble(Nook), iBookstore(iPad)といったデヴァイスと紐付きのオンライン・ストアや実店舗のサーヴィスが中心だが、Googleのように世界中の書籍のデータベース化という特殊な野望もある。

この3つのレイヤはそれぞれ複雑に関連しあっているし、Kindleにいたっては読書専用デヴァイスを指すこともあれば、さまざまなプラットフォームに対応したソフトウェアを指す場合もあり、話がごっちゃになりやすいのは確かだ。
しかし、実はこれ、ほんとはどれをとっても新しい話ではない。
単に「役者が揃った」というだけである。
もちろん、携帯音楽プレーヤも音楽用ファイルフォーマットも90年代からあったにもかかわらず、一般に普及したのはAppleがiPodとiTunesをセットで送り出したから、という歴史的事実はあるし、書籍ヴューアや書籍ファイルフォーマットにも起爆剤は必要だろう。
それがいまなのかもしれない。
ただ、電子書籍が斜陽の日本の出版産業をさらに窮地に追い込むとか、逆になんとかしてくれる救世主だとか、そういう筋合いのものではない。

電子書籍とかいっても、トドのつまりはWebコンテンツをオフラインでの閲覧に最適化したうえでどう課金するか、という話になってくる。
いや、トドのつまり、というより、そもそもの出発、オボコことはじめがそうだったはずなのである。
にもかかわらず「電子書籍って動画や音楽も入れ込めるし、ほら、こーんなこともできちゃう。すごいでしょ」などという紹介がされたりする。
アホか。
あなたWebページを見たことないんですか。
情報誌の電子雑誌化に至っては意味不明だ。
いまある旅行・食・音楽・演劇などの情報サイト、チケット販売サイトの類はいったいなんだというのだ。

PCのWebブラウザでも、小説を読むことはできる。
しかし、PCのモニタは長時間見ていると目が疲れるし、ポータブルではないので「読書」には向かないうえに、紙と違ってWeb上の「情報」はなかなか金を取りにくい、さてどうするか。
そういう話だったはずだ。

実際、電子書籍のオープンな標準フォーマットである ePub も中身はXHTMLである。
個人的には将来 ePub は HTML5 と統合されていく可能性が高く、過渡期のフォーマットだと思っている。
逆にWebページも雑誌のレイアウト並みに縦書き・横書き混在の複雑なレイアウトが組めるように進化していくだろう。

紙媒体がデジタル化することで、音楽のようにメジャーとマイナー(インディーズ)の境界が希薄になって面白い動きが出てくる可能性は高いし、商売の方法も変わっていくだろうが、メジャー音楽産業がダメなままダメになっていったように、中身がダメなものはダメである。
有能な編集者はますます希少価値化し、会社に守られていたようなダメ編集者は消えていく。
などということを言うと我が身に翻って唇寒し。

あまりに前置きが長かった。
本題の書籍『音楽産業廃棄物』のデジタル化についてである。

電子書籍といっても既存の書籍のデジタル化と新しい書籍を企画する場合とでは、発想も方法も異なってくる。
テキスト主体であるのか、画像主体であるのか、テキストと画像の組み合わせが複雑か単純か、といった本の中身によっても作り方は異なってくる。
また、部数が多ければ各プラットフォーム版を作ることもできるだろうし、特殊な層に向けた内容であればiPad専用アプリケーションなどもあり得るだろう。

書籍『音楽産業廃棄物』の場合は読者の数が限られる本であるからして、PCからスレイト、スマートフォンなど多岐にわたるデヴァイスに向けた汎用の標準フォーマットにするしかない。
特定のプラットフォームに向けた独自フォーマットなど論外である。
内容的にはレイアウトが複雑で、写真と文章が入り組んでいるページが多く、縦書き・横書きも混在している。
こうした本をデジタル化に際して完全に組み直して可変レイアウトにすることも可能は可能だが、それには新しい本を作るのと同じくらい時間と労力、言い換えれば金がかかる。
部数が少ないということは予算が少ないということで、デジタル化にかけられる費用も限られてくるのため、それもあり得ない。
既存の印刷データがそのままデジタル化されることが望ましい。
そういうことで条件を絞っていくと、PDFしかないのが現状である。
英語であればePubでもできないこともないだろうが、日本語は縦書きすら標準化されていない。

というわけで『音楽産業廃棄物』は古式ゆかしきPDFフォーマットでデジタル化されることとなった。
というか、印刷データはもともとデジタルなのであり、デジアナ変換されているのが紙の本なのだ。
デジタル・データそのままデジタル出力しているに過ぎない。
初版が99年の本のためフォントやファイル形式が古く、印刷会社泣かせではあるが。

また初版本から『音楽産業廃棄物』には附録CD-ROMがついていて、そこに書籍本体を組み込むことも可能だというのもPDFにした理由のひとつである。
附録に本体を収録するとは本末転倒だが、それもまた時代的である。
考えてみれば、前回の改訂版も本来は紙ではなくこういう形でデジタル版で出す予定であったのだ。

ほんとは販売形式もダウンロードだけにして思い切り安くすればいいじゃないかと思っていたのだが、周囲にリサーチしたところ反対意見が多く、パッケージ版も作ることにした。
さらにパッケージ版には印刷用PDFデータも収録する。
印刷用PDFデータというのはトンボが入ったアレで、印刷会社へ持ち込めば私家版書籍を1冊作ることができるというものだ。
印刷費はオンデマンドでも1冊数万円はするだろうから、実際に印刷するひとはそういないとは思うが、個人使用の範囲を超えて複製されても困るし、印刷用データを売った例はあまりないのではないか。
こういうことを許可してくれるところが平沢進らしいところだ。
なんと画期的。

ただし、予約が集まらなければパッケージ版は出ませんので、みなさんよろしくお願いします。

moderoom.fascination.co.jp/modules/release/miwd.html

shop.fascination.co.jp/

pbook_1st
初版 音楽産業廃棄物
P-BOOK2
改訂復刻版 音楽産業廃棄物

Twitter Weekly Updates for 2010-07-19

  • どんより月曜。 2010年07月12日 05時32分49秒
  • 谷・三原・タリーズ……あり得ぬ3人衆。 2010年07月12日 05時46分51秒
  • 「梅雨も終わりが近づく」ってほんとか。 2010年07月12日 06時00分21秒
  • 朝の風はすさまじく♪ ちょっと表に出たら髪がぼさぼさ。降り出しそうだし。 2010年07月12日 07時54分34秒
  • 古い物干し竿を捨てるべくエレベータに乗り込んだが入らなかった。引っ越し屋も15階まで階段で運んだの だろうか。 2010年07月12日 07時56分09秒
  • 「おまえらいったい何人だ? 日本人なら日本人のルールを守れ」ってスターリンかと思ったよ。石原シンタロウだしな。 2010年07月12日 09時46分28秒
  • 夕方みたいな朝だよ。 2010年07月13日 05時19分44秒
  • TLから離れてるプアミルクのライヴを見逃しちゃうんだなあ。本来は引き籠もり系なのに、このとこ外出が続いてるからなあ。hootsuiteもTLを遡りにくくなっ てるし。本来は引き籠もり系なのに、このとこ外出が続いてるからなあ。hootsuiteもTLを遡りにくくなっ てるし。 2010年07月13日 08時02分52秒
  • 昨夜は寒いくらいだったなあ。 2010年07月14日 05時58分27秒
  • 夏も曙。
    Owly Images
    Owly Images

    2010年07月15日 04時34分52秒

  • 空調から冷気の替わりに水が吹き出した件は、屋内配管業者に修理依頼をしたところ、空調取付業者の設置ミ スと判明。屋内配管業者から空調取付業者へ請求書が回ることとなった。ああ、めんどくさい。 2010年07月15日 10時48分17秒
  • 施工業者によると安物の空調がすぐに壊れるのは本当で、設置費用のことを考えれば、おしなべて安物は高く つくらしい。まさに安物買いの銭失いである。M氏の高笑いが聞こえるようだ。 2010年07月15日 10時59分50秒
  • しかも、同じ型番の商品であっても、施工業者に卸される空調と量販店やネット通販に卸される商品でも、モ ノが違うらしい。しかもネット通販に卸される商品なんかは、パイプやチューブがほとんど含まれていないので、取付工事時に部材費が別にかかるのだそうだ。 2010年07月15日 11時03分43秒
  • そういうことも併せて考えると、たとえ同じ商品であってもネット通販の安物は最低ということになるらし い。またしてもM氏の高笑いが聞こえてくる。 2010年07月15日 11時05分30秒
  • 工事も安かろう悪かろうという面があるそうで、安くていい業者もあるのだろうが、素人にその区別はつかな いと。さらに最悪なのは高い金をとって手抜き(というか技術力不足の)工事をする業者で、高ければいいというわけでもないらしい。要は、購入と工事を別に しないほうが無難ということらしい。 2010年07月15日 11時11分14秒
  • ひとに頼まれてiPadを買って帰る。基本設定をして明日渡す簡単なお仕事。 2010年07月15日 19時56分43秒
  • 3G契約をするわけでもないのになんでこんな待たされるのだ。ジョブズに忠誠を誓う儀式か。 2010年07月15日 20時35分51秒
  • 40分も待たされた挙げ句、儀式があるわけでもなく、単に奥から持ってきた小箱を手渡されただけ。アップ ルが悪いのかビックカメラが悪いのかわからんけど、またしてもアップル製品への印象が悪くなったのは確か。ポイントもつかないし、周辺機器はことごとく品 切れだしな。 2010年07月15日 21時01分02秒
  • なんの前知識もなくやっているが、iPadっ てiTunesをインストールしたマシンがないと起動できんのか。ということはまずWindowsをインストールしなきゃなんないのか。ぜんぜん簡単なお 仕事じゃないな。 2010年07月15日 22時09分05秒
  • 個人的に梅雨明け宣言。すでに蒸し暑い。 2010年07月16日 05時20分10秒
  • 初めてLinuxベースのNISを導入してみた。よその事務所で(笑)。QNAPのTS-110というや つなんだけど、感心することしきり。これで本体18000円かあ。自分の事務所では13年くらいお古のPCにLinux入れてファイルサーバにしてるけ ど、もうほんとそういう時代じゃないのね。 2010年07月16日 05時40分48秒
  • 来週の東京は34℃とか35℃とかいくのか。死ぬね。 2010年07月16日 06時59分35秒
  • AppStore ってフリーウェアしか使う気がなくてもユーザ登録にはクレジットカード情報が必須なんだな。これって買って3分で脱獄を決心させる要因じゃないか。 2010年07月16日 11時00分21秒
  • いただきものの夕張メロン。美味也。これが「嫌い」というひとがいるなんて……。あ、でもアレルギーのひ ともいるんだよな。スイカやメロンは。 2010年07月16日 14時36分52秒
  • 古式ゆかしきアナログ体重計が激しく狂ってきたのでデジタルマルチメータに変更した。見た目の痩せ方とは 関係ないと噂される内臓脂肪とか体脂肪とかすごいことになっていたら面白いかったのだが、どれも標準でつまらなかった。 2010年07月16日 14時46分16秒
  • しかし、たぶんこれから2か月はなんでも減る一方であろう。 2010年07月16日 14時46分41秒
  • あー寝苦しかった。これから毎日こうなのか。これ以上なのか。 2010年07月17日 05時29分27秒
  • iPod/iPhone/iPadって普通のUSBマスストレージとして扱えないという基本的事実を知らんかっ た。だからそれらのユーザとはときに会話が成立しなかったんだな。間違ってそういうものを買わなくてよかった。 2010年07月17日 06時42分33秒
  • 知らなかったその2。iTunesというのは 音楽・動画ファイルの管理・再生ソフトであると同時に、iPod/iPhone/iPadの同期ソフトなわけね。自由なファイルブラウズは許されないわけ ね。間違ってそういうものを買わなくてよかった。 2010年07月17日 06時46分30秒
  • タイ・カレー(赤)に余っていた支那竹を湯通しして入れてみた。さて吉と出るか凶と出るか。 2010年07月17日 18時51分05秒
  • ご心配&応援いただきありがとうございます。支那竹はなんの違和感もございませんでした。ご報告 のため珍しく料理写真をとってみましたが、不味そう(笑)。
    Owly Images

    2010年07月17日 19時49分33秒

  • 夜明けとともに、ギラギラの太陽がやってきたよ♪ 2010年07月18日 05時39分27秒

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