年末から年始にかけて、サブスクリプションにおすすめされるがままに『けいおん!』を観た。
2009年〜2010年のTV放映時も数話は観たが、TV版第1期〜第2期〜映画版と通して観るのは初めてである。
といっても、料理をしたり、家事をしたり、食事をしたりの「ながら観」であるから、最終回になってようやく「平沢ウイ→憂→ユウ→裕」に気づいたくらいである。
12年ののち、ようやくこれは「大人になるって」というけっこうシリアスなテーマがあって、回によってはけっこう泣ける話もあることを知る。
思春期モノには弱いのだ。
ただ、不思議なのは、そうしたテーマを持った作品でありながら、ロール・モデルとなるような「大人」もしくは障壁となって立ちはだかる「大人」が登場しないことである。
シリーズ中、出ずっぱりな成人は顧問(担任)の山中くらいだが、大人というよりは、ものわかりのいい(人生のちょっと先をいく)姉のような存在である。
主人公の両親ですらほとんど登場せず、いくら家を空けがちという設定であっても、かなり不自然というか、意図的に排除されていることがわかる。
ましてや、ほかの登場人物の親はほとんど出てこない。
あとは、平沢姉妹の近所に住む老年女性くらいだが、これもまた優しい祖母的な存在である。
映画版の最後、教室ライヴで口うるさそうな男性教師が出てくるけれども、結局、邪魔はしない。
さらに不思議なのは、経済的な心配がまったく出てこないことである。
琴吹家が桁違いに金持ちという設定があるだけで、いわゆるお嬢様女子校というイメージでは描かれていないけれども、少なくともバンドのメンバーはかなり裕福な家庭の子女であることが推察される。
ロンドン旅行を決めるにあたって、誰も旅費の心配はしていない。
「行ってもいいかお母さんに訊いてみる」と電話をする程度である。
つまり20万円〜30万円程度の金は、母親ひとりの裁量かつ即断で拠出できる程度には裕福なのである。
しかも、それは旅費の話ではなく「高校生だけで旅行に行っていいか」という許可にすぎない。
つまるところ、高校生活ファンタジイであり、モラトリアム・ファンタジイなのだ。
大人だけでなく、恋愛感情に関する描写もほとんど出てこないわけで、それも登場人物だちを「子供の世界」に閉じ込めておくための設定なのだろう。
陳腐な喩えをするならば『ピーター・パン』のようなもので(読んでないけど)富士山を見ながら京都へ修学旅行へ行くのだから、関東のどこかにあるネヴァーランドなのか。
と、わたしがリキまなくても、リアルタイムでそうした批評や論議はたくさんあったのだと思う。
そして、高校卒業で「大人への一歩を踏み出す」わけではなく、3年生部員全員が同じ女子大へ進学することで「子供時代」を延長して終わる。
「大人になるって」がテーマでありながら、決して大人にはなろうとはしない。
なんだ。
『ピーター・パン』というよりこれ、わたしが思うところの「正統派少女マンガ」ではないか。
原作マンガの大学篇は読んでいないが、そのあたりどうなっているのか興味深い。
ところで「田中」が使われず「琴吹」になったのは「田井中」との混同を避けるためなのだろうか。