思い出すことなど [6]

12.

8月10日、火曜日。
1泊入院から退院する手伝いのため、病院へと向かって歩いていた。先週はずっと強烈な陽射しで33度前後の暑さが続いていたが、昨日は雨が降って少し気温が下がり、この日の朝もまだ雨が残っていた。

8月に入ってから彼の体調は芳しくなかった。肺に痰がたまり、吸引器を使ってもなかなか出ない。酸素吸入器のお世話になることも多くなった。前はひとと会うと活力がわくと言っていたが、会話するのが辛く、あまり人と会う気がしないという。週末などは誰とも会わずに安静にしたがっていた。
それでもしゃべり始めると声の通りがよくなり元気が出てくるとかで、入院前夜には『夢みる機械』トーク・セッションをゲストなしで4時間かけ語りきって終了。8回目にして最終回を迎えた。自らの「脳内スクリーン」に投映されたラスト・シーンに感激し、ほんとうのところ彼は泣いていた。
興奮が冷めなかったのか、始めたばかりのTwitterでも報告し、深夜までTweetを続けている。この夜は37.8度の熱が出ていたが、ビールを飲んで饒舌になっていたらしい。
さらに明け方には彼から「さようなら最新版」と題したメイルが届く。不測の事態に備えて書いた文章であり、本人としては「これから改訂を重ねていくつもりなので校正や内容チェックを頼む」という文章を添えたつもりだったのだが、誤ってそのまま送ってしまったのだ。死に臨んだ際に公開するという意図は飲み込めたが、最初は深夜になにか異変があったのかと驚いた。

5日ぶりに会う彼はひどく痩せていた。
入院の主たる目的は、血中酸素を補うための輸血と痛みを抑えるため「神経の枝を熱で焼く」治療である。この「高周波熱凝固法による神経根ブロック」施術はこれまでも在宅のまま受けていたのだが、病院の検査機器で綿密なモニタリングをしながら、より本格的に行うということだ。神経が再生するまで1年くらいは痛みが抑えられるらしい。
検査ではX線撮影やCTスキャンも行われたが、肺の機能には問題はなく、胸水や腹水もたまっていない。酸素濃度が低くなるのは、栄養不足という根本原因があるそうだ。いくら努力して食事をとるようにしていても、いまの彼に充分な栄養を摂るのは無理だった。

車載用ストレッチャに寝かされたまま介護用搬送車で「我が家」へ。介護士も同乗するから任せて安心ということで頼んだにも関わらず、どうにも不慣れで、京子さんが細かく指示を出さねばならない。致し方ないとはいえ走行中は振動で身体が痛まないか気になる。時々、顔を歪めるのが心配だ。
病院を出る時には看護師らも手伝ってくれたのでよかったものの、家へ入る時には人手が足りない。力のないわたしも手伝い、前庭に面した窓から居間へとショート・カットしてやっとのことで彼を運び入れる。

消耗しつつも帰宅して落ち着いた様子で煙草を吸う彼と少し話す。
「いまP-MODEL30周年の特集記事を作っててさ、これから田中さんの取材なんだよね。9月には発売になるから」
へぇー、という感じでうなずくがあまり大きな反応はない。われわれも30周年だなと思いながら今宅を出る。

京子さんは、重要なレントゲン写真に映った骨のことだけは、彼にも、わたしたちにも黙っていた。

Fish
Kon's collection 04 - Fossil Fish

13.

8月16日、月曜。朝4時半。電話が鳴ってる。携帯電話ではない。仕事用の電話でもない。家庭用の電話だ。
もともと携帯電話というものが嫌いで、鞄のなかに入れっぱなしで着信の2日後に気づくなんてこともよくあった。いわゆるスマートフォンにしてからは通話目的以外で使用することが増えたので机の上に出すようになったが、寝る時に枕許に置くようになったのはつい最近だ。

半覚醒ながらも異変を察知しつつ電話に出ると義母だった。義父が逝ったという。起きだしてきた妻が慌てて身支度をしてばたばたと出て行く。
ぼんやりした頭で近場の葬儀屋を検索する。数件ヒットしたうち、自前サイトでコンテンツが充実しているところに決めて電話する。24時間対応の電話はスタッフの携帯電話に転送されたようだった。まだ5時なので当たり前だが寝ていたようだ。それでも「時期が時期ですからね」と言って7時にはドライアイスと焼香セットを持ってきてくれるという。連日35度を超える狂った暑さが続いているのでありがたい。
施主である義弟は遠隔地にいるし、いざとなったら自分が葬儀の手配などせねばなるまいとは思っていたが、葬儀に関する知識は乏しく菩提寺の宗派がどうとかいった細かな情報も知らなかった。まあ、葬儀屋が首尾よく用意してくれるだろう。
数日は仕事にならない旨のメイルをいくつか書く。といっても葬儀屋さえ手配すればそんなにやることはなさそうだし、午後は今家に行く約束をしていたが、これは大丈夫だと思われた。

起きだしてきた4歳児に祖父の死を告げると、死の意味を訊かれる。彼女が知っているのは亀の死くらいだ。もう動かなくなって会えなくなることだと哲学の欠片も科学の欠片もない説明をする。
妻の実家へ行くと、義父は着替えも終わってスーツ姿で布団に寝かされていた。部屋の半分近くを占める大きな介護用ベッドは納棺の前には撤収される段取りになっている。看護師や葬儀屋が身体の処置をしてくれ、頭部には口を閉じさせるための包帯が巻かれていた。義母たちは遺影のための写真を選んでいる。
脳卒中で倒れてから2年も寝たきりで痴呆も進んでいたので、すでに自分のなかではこの世のひとではなかった。むしろ写真のなかの健在な姿のほうにリアリティを感じる。直截の死因は痰が喉に詰まっての呼吸困難だったらしいが、苦しんだ形跡はない。苦しんでいればすぐに義母が気づいていたはずだ。痰に苦しむ彼のことが思い起こされてしまう。
もう特にすることはないだろうと勝手に思っていたが、寺に挨拶に行ったり、納棺に立ち会ったり、精進落としの会食の手配をしたりと、まだまだ「葬儀委員長」はやることがあるらしい。今宅へ行くのは難しそうだ。

翌火曜。通夜まで時間が空いたので、午前中から今宅を訪ねる。この日を外せば週末まで身が空きそうになく、彼の顔を見ないと安心できなかった。
前週金曜に会った時に比べ、さらに痩せた。いや、やつれている。原さんは帰省しているし、この週末はふたりで静かに過ごしたことだろうが、なかなか体調は上向かない。
体勢を変えたりマッサージしたりすることでだいぶ痰は出るようになったそうだが、微熱が続いている。しかも、この暑さだ。いくら冷房を入れていても不快だし、じわりじわりと身体に入り込むような熱は健康な人間だって耐え難い。

37度の陽射しに灼けつくアスファルトを踏みしめながら通夜の準備へと向かった。

14.

義父の葬儀が終わってのち、2日はかかりそうだった原稿も調子よく1日で片付き、金曜午後には再び今宅往訪。
京子さんの留守中に彼が咳き込んだので痰の吸引をしようとするが、吸引器がうまく動かない。電話で指示を受けるがうまくいかない。こんなこともできない自分が腹立たしい。
おそるおそる汗ばんだ背中をさする。下手に触って骨や褥瘡が痛まないかという危惧もあったし、元来スキンシップが苦手ということもある。情けない。
あとはぼんやりとPCを眺めたり、メイルの返信をしたり。彼もあまり話そうとはしないし、話しかけるのもためらわれた。ここで無為に過ごしていると思われるよりも仕事をしているふうのほうが彼も安心するだろう。

夕方になり原さん到着。今敏個人で交わしている著作権契約を設立した会社に譲渡するための書類を携えてきた。次々と流れ作業で捺印し、ほぼ全作品に関して契約が成立。
この日、彼は捺印だけでなく署名も必要になったらと案じていた。あとで知ったことだが、このころの彼は手に力が入らず、しっかりとした筆跡を結べなくなってきていたため、署名の練習までしていたらしい。一時的なことか漸進的なことかはわからないが、絵を描くことが命の彼にとって、計り知れない衝撃と恐怖だったろう。
彼の身体ケアに時間がかかりそうとのことで早々に退散したが、しきりに原さんは自分が仕事をさせたから体調が悪化したのではないかと気にしていた。

土曜はラッシュが数本仕上がったという喜びからか、Tweetもいくつかしていたが、日曜は無言。Tweetを健康のバロメータにしているひとは世界中に少なからずいるはずである。夜には京子さんから「熱は下がり、食事もとったが、元気がない」と不安を隠せない報告があった。

月曜の昼にはウェブログ用の文章をサーバにアップロードしておいてくれと彼からメイルが入っていた。アップする気力がないのかiPadの操作に不具合があったのか、元気があるのかないのかわからない。
15時ころ今家着。衰弱が激しく、会話は少ない。
もうちょっと元気になったら、ラッシュが仕上がったらと平沢さんに会うのも繰り延べてきたが、せっかくラッシュも完成したことだし来てもらおうよ、などと言うが反応は薄い。自分が制作中だったDVDのちょっと狙ったパッケージ案を見せると、力なく笑った。

彼からは「ちょっと気が早いけどさ」という前置きで、自分の葬儀に関するメモをiPadごと渡された。
「気が早すぎるよ」と言いながらも、そうしたものを準備していたこと、iPadで書いていながらメイルで送信する気力すら出なかったこと、その両方の事実に心が痛む。そういえば、7月末にも「あとで聞いておいて欲しい」とヴォイス・メモを渡されていたのだが、まだ聞いていなかった。

用件が終わると彼はほんとうに辛そうに、すまなそうに言った。
「悪いけど、きょうはもう帰ってくれないか」
「うん、じゃあまた来るから」

ammonoidea
Kon's collection 05 - Ammonoidea

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