誰が殺したクック・ロビン♪

誰が言ったかはどうでもよいことなので敢えてリンクは張らないが、あるノンフィクション作家が「12月8日はジョン・レノンが殺された日、とNHKと特集をやっているが、日本人にとっては日米戦争を始めた日」とtweetしていて、ずいぶん杜撰な事実認識だと思った。

12月8日はジョン・レノンの命日だが、それは殺されたニュー・ヨークの現地時間であって日本時間でいえば12月9日である。
真珠湾攻撃も12月8日と言われるが、これは日本時間の話であって、現地時間は12月7日である。
現地時間と日本時間のどちらかに揃えて考えるならば、記念日としてすら合致しない無関係な話なのである。

そもそも殺人と戦争というふたつの事件を比較すること自体に意味があるとは思えないが、tweetした本人としては、現在置かれている日本の状況を考えるならばどちらが歴史的に重要か、といった文脈で話したかったのだろう。
いちミュージシャンの死よりも戦争のことを考えるほうが重要に決まってるだろ、ということだ、要するに。
これは至極当然なことだと賛同するひとも多いと思われる。

しかし、戦争のことよりも、いちミュージシャンの死を考えるほうが重要に決まってるだろ、という考えだって充分にアリだ。
ジョン・レノンが雲のうえのスーパー・スターだから、ではない。
むしろ逆。
ジョン・レノンが親兄弟よりも大切ないち個人に感じられる表現者だから、だ。
見ず知らずの300万人の死よりも、深く聴き込んだミュージシャンの死のほうが大切に思えるのは、音楽というメディアの力である。
のだけれども、見ず知らずの300万人に感情移入することもまたメディアによって可能だし、そういう想像力はもっていなければだめだ。
「300万人の死」を数でしか考えられないような想像力の欠如、メディアの不能がそれこそ戦争を起こすわけだから。

さて、先の発言で、どちらが大切かという粗雑な問題の立て方よりもさらにいかがなものかと思うのは、こうした文脈でよく使われる「日本人にとっては」という勝手な定義づけである。
日本人ならみな同じように考えるはず、いや考えなくてはならない、という発想が根底にあるのだ。
大きなお世話である。

前にも書いたが、わたしはオリンピックにしろ高校野球にしろ母国や母校を応援するという気持ちがまったく理解できない。
感情移入しやすいんだろうなぁ、自己投影なんだろうなぁという想像はつくものの、自分の心にそういう気持ちはまったく湧き上がらない。
見ず知らずの他人に変わりないからだ。
見ず知らずの他人という地平において、日本人も外国人もみな同じである。
誰か贔屓の選手がいるというならまだわかるが、国籍や出身地が同じというだけで感情移入するというのは頭が悪いのではなかろうか。

それはスポーツに限らず「日本人のノーベル賞受賞」にしたって同じである。
民族的・遺伝的な劣等性はないという傍証にはなるかもしれないが、才能なんて民族や国籍による差よりも個人差のほうが大きいに決まっている。
残念ながら、日本人からノーベル賞受賞者が出たからといって、同じ日本人だというだけであなたが喜ぶ理由はない。
偉いのは受賞した個人でしかなく、日本人一般ではない。
喜びを搾取してはいけない。

自己に対する誇り、自分を育てた文化や風土への誇りはあってしかるべきだが、国家や民族の誇りなんてものは幻想でしかない。
「善いひともいれば悪いひともいる」というのは当たり前のことであり、同様に「善い日本人もいれば悪い日本人もいる」「日本にはいいところもあれば悪いところもある」と考えるのが自然だろう。
同じ町内にだってイヤなオヤジはいくらでもいるというのに「日本人なら」とひとくくりにできる神経のほうがどうかしている。
個人として自信を持つために国家や民族の優越性を持ち出さなくてはならないのは情けない。
限りない自己愛の延長線上にある歴史の肯定、国家・民族の肯定。

個は個であって敷衍できる一般はない。

たとえば、わたしはスポーツにもギャンブルにも興味がないし、むしろ消えてくれたほうがいいと思っている。
同様に、音楽にもマンガにも興味がなく、むしろ消えてくれたほうがいいと思っている人間はこの世にたくさんいるだろう。
わたしは音楽やマンガが好きで消えてもらっては困るので、スポーツやギャンブルがあってもしょうがいないかと我慢することにしている。
しかし、世のなかには音楽、マンガ、スポーツ、ギャンブルではどれが重要かと比較したり、残すべきものと消すべきものを峻別しようとする輩がいる。
比較することすら無意味ではあるが、その仕分け基準に合理性があればまだしも、オレにとって不要なものは誰にとっても不要であるべきと考えているので困る。
あまりに幼稚だ。

東京都青少年健全育成条例の「改悪」についてネット上は喧しい。

俗に淫行条例と言われる青少年保護育成条例にしてもそうだが、現行の刑法などで犯罪防止や青少年保護が可能にもかかわらず、こうした条例をやたらに作りたがるのはリビドーの歪んだ発露でしかなく、だからこそ合理的な議論や反論は不可能なのだ。
「イヤなもんはイヤ」という生理や情動を論理で止めることは難しい。

都側は条例に拡大解釈の危険性などないと言っているようだが、たとえば国旗・国歌法の制定過程における首相答弁や裁判所の判例さえ無視して公務員に国旗掲揚・国歌斉唱を強制し、違反者への罰則を強化する都知事・都行政のもとで、拡大解釈がなされないとは考えがたい。
よく「1000万都民」などというが、都民というひと塊もしくは数でしか考えられないような個的視点の欠如からは、こうしたオレサマ的暴力しか生まれない。

あ、こういうことを考えるようになるからロックやマンガに接しちゃいけないんだな、きっと。
でも、いまのロックやマンガにそれほど大きなパワーはありませんよ、きっと。

日々草