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sato-kenについて覚えているいくつかのこと

6月の生井秀樹に続き、9月25日にsato-kenこと佐藤賢慈が他界した。
1949年8月13日生まれ(函館出身)享年72歳。

生井さんについては、平沢進や加藤普(久明)が語っているので、わたしがなにか言うまでもない。
sato-kenについては平沢さんほか近親者からなにもコメントがなかったので、それほど親しい関係ではなかったけれども、ここに思い出すことなどを記しておきたい。

sato-kenとの出会いは忘れもしない成田空港。
1999年1月31日、書籍『音楽産業廃棄物(初版)』平沢サイド巻頭用タイランド撮影のため、スタッフ一同集合した時である。
星条旗柄のダブっとしたよくわからないパンツを穿いて、けたたましく、とめどなく喋り続ける小太りの男がいた。
それまでの平沢スタッフにはいないタイプだし、独立後の人員配置がよくわからなかったので、同行するレコード会社プロモータHさんにきいた。
「あのひとがマネージャーですか」
実のところその時はマネージャー不在状態で、sato-kenはタイ方面に詳しいコーディネイターとして同行したのであった。

本人曰く、グルーヴァーズのタイ撮影に携わったのが縁で、万国点検隊(1994年〜)の仕込み、アルバム『Sim City』(1995年)のレコーディングやジャケット撮影のコーディネイトを行い、ワイ・ラチャタチョティック(2016年4月に他界)とともに平沢進を「タイ・ショック」に引きずり込んだ張本人、だとか。

1997年、平沢進が設立したケイオスユニオンのスタッフとなり、インタラクティヴ・ライヴ「WORLD CELL」(1998年)からコンサート・プロデューサーとして深く関わるようになった。
アルバム『賢者のプロペラ』(2000年)からインタラクティヴ・ライヴ「WORLD CELL 2015」(2015年)まではエグゼクティヴ・プロデューサーとしてクレジットされている。
※制作期間にスタッフを離れていた『ホログラムを登る男』(2015)にはクレジットされていない。

古株の平沢リスナーにとっては2000年から2008年まで公式サイトにほぼ毎日掲載されていた「賢者sato-kenのヒラサワ番日誌」でおなじみだろう。
実際、彼の書くメイルはああした顔文字と3点リーダ(中黒)だらけの意味不明の文章で、それを面白がった平沢進がWeb連載にしたわけだ。
ちなみに、2006年のサイトのリニュアル時にすべてではないが「NO ROOM」へ移設した記憶があるけれども、現在その痕跡は残っていない。

10年ほど外部スタッフとして平沢進のライヴやバンコク点検隊に関わるなかで、sato-kenとは個人的に話をする機会も多くあったが、彼のプロフィルについての記憶は断片的だ。

函館出身、大学では応援部に所属。
酒を飲まないにもかかわらず、打ち上げでもっともハイテンションの男。
なにかにつけガハハと大声で笑う。
若いころにタイ人と結婚しようとしたことがあり、彼女の住む村に水を引き、家も建てたが、逃げられた。
インプラントで歯を植えていたが、全部植える前に資金が尽きた。
クルマの運転はできないので、アーティストに運転してもらっていた。
現場ではけっこう厳しい顔になることもある。
リハーサルなどには大量にシュー・クリームを買ってくる。
しかしながら、甘いもののほか大好物のKFCなども糖尿を患っていたため医者に止められていた。
インタラクティヴ・ライヴ「LIMBO-54」では「スナイパー」役で出演。
2006年にタイ人と結婚、女児をもうける。
タイに定住し、平沢ライヴの折には「来日」するようになる。
2012年に、心筋梗塞で生死の境を彷徨うも生還。結局、死因も同じだった。

彼の来歴について詳しくは知らないが、広告関係の仕事をしてきたらしく、知り合った当時も平沢関係と並行して航空会社の販促仕事なんかをしていた。いまはなきJASの機内放送でP-MODELや平沢ソロ曲が流れたり、機内で配られたCD-ROMにTAINCO-Iが収録されたりしたのはそのせいである。

平沢進以外に、Wappa Gappa(わっぱがっぱ)というプログレッシヴ・ロック・バンドのマネージメント(プロデュース?)を行っていた時期もあり、わたしも1回(たしか渋谷クロコダイルで)ライヴを観たことがある。
sato-ken自身はプログレなんて聴いたこともなく「ヒラサワはプログレの師匠なんだよね」なんて言っていた。ずいぶんとからかわれながらも、平沢進から音楽的知識を得ていたようだ。

「Ride The Blue Limbo」について「一面金色の草原を麦わらを手にした師匠が先頭に立って行進している様が見えます」というようなコメントをして「ぜんぜん違う。まったくそういう曲じゃないから」なんて言われていたことがある。
万事がそんな調子。
平沢進とまったく共通項がないようでいて、異様に気が合う。延々とバカ話をしていたりする。

そもそもsato-kenは音楽畑の人間ではないし、音楽には疎いといっても過言ではなかった。にもかかわらず、平沢進に信頼されていたというのは、人がらの問題もあるが、仕事が「できた」のである。
ガサツで大雑把で穴だらけのようでありながら、実のところ細かいところに気がつき、神経質で、また全体も俯瞰できる。リハーサルやコンサート本番に立ち会って、それはよくわかった。
平沢進の独立時には原盤権など権利関係の整理にも尽力したと聞く。

sato-kenとは、平沢関連以外でも、彼が携わっていたプーケットのスポーツ・イヴェント「Phuket Walk & Run」のサイト制作を手伝ったりしたことがあるけれど、いい意味でもそうでない意味でも驚かされることが多々あった。
初対面でも遠慮がなく、傍若無人な態度を取るキャラクタだったので、そのアクとクセの強さに引いてしまうスタッフもいたが(わたしも最初はそうだった)慕っているスタッフや平沢ファンも多かった。
F嬢をはじめ、タイの友人たちが葬儀の写真をFacebookにアップしてくれていた。

よく「早くまたタイへおいでよ」なんて言われてたし「点検隊聖地巡礼ツアーでも開催したら団長(隊長)やってね」なんて言ってくれていた。
こうなったら、ひとりで聖地巡礼とも思うが、ワイさんもsato-kenもいないいまとなっては、あの「赤土」がどこにあったのかさえわからない。迷子になることは確実である。
でも、出入国が自由になったら、会いにいきますよ。

2021.10.18 高橋かしこ

パガン(ミャンマー)でのsato-ken(2000年) 自分で撮った写真だと思うけど、違っていたらすみません
Wappa Gappa | ディスコグラフィー | Discogs より www.discogs.com/ja/artist/1804966-Wappa- Gappa 左端はsato-kenだな、メンバーじゃない

 

 

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