「思い出すことなど番外篇」カテゴリーアーカイブ

10年

10年が経った。

これを書いたのが2年前。
dayscanner.fascination.co.jp/?cat=15

基本的な思いは変わらず、いちばんは、どんな形であれ、どうして『夢みる機械』は世に出ないのだろうということ。

死を目前にした今 敏がもっとも願ったのは、どんな形であれ、作品を完成させて欲しいということだった。
これだけは間違いない。
彼以外に完成させるのは不可能という判断もわかるが、あとを引き継ぐ監督や作品の完成形に、彼は感謝こそすれ、文句は言わなかっただろう。
映画の続き、TVアニメーション、いろんな話はあったはずだが、形になってはいない。

完成している部分のアニメーション。
完成している部分の絵コンテ。
未完成部分演出案語りおろし。
使用予定だった音楽。
起用予定だった声。
完成していたシナリオ。

もうこれだけでいいじゃないかとも思う。
しかし、それすら世に出ないというのはなんらかの力が働いているのではないかと陰謀論めいたことまで考えたくなる。
権利や出資者の問題があるのもわかるが、なんとかならないものだろうか。

10年が経った。

巷間で言われているように、東日本大震災やCOVID-19を彼が経験していたらどうだったろうとは思う。
まさかたった10年でこんなに映画みたいなことがいくつも起きるとは。
この国に戦争が起きなかったことがまだ幸いか。
まるで彼の映画のなかに生きているようじゃないか。

自分自身にもいろんなことがあった。
いろんなひとが死んだ。
いろんなひとと別れた。
いろんなひとが去っていった。
いいことも少しだけあった。
新しい出会いも少しだけあった。
仕事もずいぶんと変わった。
生活も聴く音楽もけっこう変わった。

生きていたら彼とは変わらずつきあい続けただろうか。
もしかすると愛想を尽かされていたかもしれない。
すっぱりと人間関係を切るところは見ている。

しかし、死は永遠とはよく言ったものだ。
彼が去っていくことはない。
わたしのなかで、世界じゅうで、彼は生きている。

同じところに留まっていては彼に叱られるな。

8年

明日で8年が経つ。

近々公開になる新作アニメーション映画に冠せられた「今 敏賞受賞」の文字。
これが「箔」になるのは嬉しいけれども、重ねられた月日を感じてしまう。

あのころ思い出して、ふと浮かぶのは、彼とふたりきりになった時に漏らした
「人間なんて糞袋だ」
というつぶやき。
目新しい言葉ではないし、なにかの引用のつもりだったのかもしれない。
しかし、なにか真に迫っていて、わたしは無言になった。
いや、実際は「そうだな」くらい言ったかもしれないが、もう記憶が定かではない。

『OPUS』がアニメーション作品になるのは嬉しいけれども、やっぱり『夢みる機械』はどうなってしまうのだろうと思ってしまう。
プロデューサが、ほかの監督を立てて作品を完成させることはないと明言しているわけだけれども、どういう形であれ、世に出てほしい。
できあがったカットだけの断片的なものでもかまわない。それでも全体1/3くらいはあったと記憶している。

オープニング・クレジットだけでも短篇映画として成立する。
大津波のバックで流れるのはひねくれハワイアン。
イメージしていた「D-SIDE」というリクエストに平沢進が応えた。

企画書を書いていた時に出たアルバムが『BLUE LIMBO』だったため、今 敏がBGMとして想定していたナンバーにはその収録曲が多い。
「帆船108」のプロモーション・ヴィデオかのような台詞がない音楽だけのシーンもある。
そして、エンディング・ロールに流れるのはアルバムのタイトル・チューンだ。

もうそれでいいじゃないか。

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思い出すことなど 番外篇 その4

ほんとにこの1年、いろいろあった、いや、ありすぎた。
平凡な人間にしては波瀾万丈の1年だったが、父の49日や義父の1周忌、そして今敏の1周忌が終われば落ち着くだろう。
帰京して2週間、連休も過ぎてそんなふうに思っていた5月8日の昼。
妻と5歳児は「母の日」ということで義母の家へ向かい、わたしは部屋でひとり机に向かっていた。
父の葬儀にぶつかってそれどころではなかった義母の誕生祝いも兼ね、夜はわたしも参加して会食することになっていた。

出かけたばかりの妻からメイルが来て、義母が倒れて救急車で搬送されたという。
義母とは4日前にも買物につきあったばかりであるが、元気にしていた。
貧血かなにかだろうかと思い、お茶の水のN病院へ向かう。

義母は蜘蛛膜下出血だった。
インタフォンに反応がないので訝しく思い、妻が合い鍵で開けるとドア・チェインの隙間から倒れた母の姿が見えたそうだ。
救急隊に鎖を切ってもらい、5歳児とともに救急車で病院まで来たのだという。
5歳にしてはほんとにいろんな経験をしているものである。

翌9日の昼、医師から説明を受ける。
蜘蛛膜下出血の死亡率というのは実は40年前から変わっておらず、1/3は病院へ搬送される前に死亡、1/3は入院後(手術後)に死亡、1/3が助かっている。
義母は搬送時から意識はあり、最初の1/3には入らずに済んだ。
蜘蛛膜下出血というのは、出血そのものの治療はできない。
行うのは再出血の防止手術である。
義母にはいまにも破裂しそうな脳動脈瘤が見つかったので、これを処置しなくてはならない。
蜘蛛膜下出血では、出血後48時間は再破裂の可能性が高く、4日目以降〜14日目くらいは「脳血管攣縮」という血流が途絶える現象が起きやすい。
そのため、脳動脈瘤の手術は通常、蜘蛛膜下出血後2日目〜4日目の間に行う。

だが、義母の動脈瘤は形状と場所がものすごくやっかいであり、すぐに手術できる状態ではない。
動脈硬化も見られ、造影剤を注入することも難しいほどだった。
心筋梗塞の兆候もあり、蜘蛛膜下出血による脳の血流不足を補おうとして心臓への負担が高まっている。
八方塞がり四面楚歌。
遠方に住む義弟も駆けつけたが、手術は明日以降となった。

5月10日、きのうできなかった造影剤を入れての精度の高い撮影をした結果、脳の奥深い位置にある動脈瘤の形状がはっきりわかった。
クリッピングできない可能性が高いうえ、クリップする前に動脈瘤が破裂する可能性もある。
動脈瘤をクリップできない場合や破裂した場合には、血管そのものを縛る必要があるが、それは即ち人工的に脳梗塞を作り出すことになる。
血流確保のためには脳動脈のバイパス手術も同時に行わなくてはならず、現在の心臓の状態ではその大手術に耐えることができそうにない。

5月11日、手術は脳血管攣縮の時期が過ぎた14日目(出血日を0日にカウント)以降に行うことが決まる。
義弟夫婦はいったん帰り、手術に合わせて再度上京することになった。
動脈瘤の手術が済んでいれば脳血管攣縮を防ぐため血圧を上げるそうだが、それもできない。
睡眠薬・痲酔薬を注入し、暗室で安静にし、10日以上は微妙なバランスを保ちながら綱渡りとなる。

眠らされているとはいえ、義母はまったく意識がないわけではなく、半覚醒のような、いわゆる夢うつつの状態にある。
タイミングによっては会話もできるが、、寝ぼけているようなもので、わたしや義弟の顔を見て「ここは北海道? お葬式は?」などと言う。
義弟に会った最後が父の葬式だったので、記憶が飛んでしまったのだろう。
重篤な状態にあることは敢えて知らせていなかったので「畳の上で寝たいねぇ」などとも言う。

手術までの3週間、いつ動脈瘤が破裂するか、逆に攣縮で血流が止まったりで危篤に陥るかわからないという不安に包まれていた。
毎日交代で見舞った妻や義妹は大変だったと思うが、ずっと寝かされていた義母本人も相当な負担であったろう。
もし自分自身が薬で3週間も寝かされたならと想像するに、拷問である。
手術が成功しても歩けるようになるには、かなりの期間を要すると思われた。

2011.05.20

5月30日、9:00から手術スタート。
脳外科の医師全員に加え、バイパス手術を行う血管縫合の専門医や心臓外科の医師、低体温痲酔で代謝を抑える痲酔医など、スペシャル・チームによる万全の体勢が整えられた。
例がないわけではないが、これほど大がかりな手術は珍しいらしい。
事前説明では決して楽観できない旨が伝えられ、妻はたくさんの同意書にサインした。

最悪のケースを想定し、脳の手術前にバイパスで使う腕の血管を摘出する手術も予め行うとのこと。
前腕部には尺骨動脈と橈骨動脈の2本があるので、橈骨動脈をバイパス用に使うらしい。
脳の血管を繋ぎ替えるバイパスだけで済むか、さらに橈骨動脈も使うバイパスも行うかは、手術中に決める。
すべてが手際よく済んでも8時間以上、難儀すれば10時間から12時間の大手術。
成功率は決して高くないが、手術しないで動脈瘤を抱えるリスクよりはずっとましなそうだ。

15時、執刀医より、バイパスは2系統とも行い、これから動脈瘤の手術に入ると経過説明。
21時、ようやく手術室から義母が出てくる。
未就学児は集中治療室に入れないので、5歳児が義母の姿を見るのは3週間ぶりだ。
医師によると、動脈瘤は予想通りクリッピングできない形状であり、2系統のバイパスで血流を確保してから右側の大脳動脈自体をクリップして血流を遮断した。
手術自体は成功したものの、脳梗塞の可能性はあり、バイパスに使用した橈骨動脈にも動脈硬化が見られたという。
バイパスによって脳に血液が行き渡るかどうかは翌朝以降にならないとわからない。

Yusima

5月31日、9:30から医師による説明。
バイパスは功を奏さず、すでに脳の半分に梗塞が見られ、さらには脳全体が腫れる「脳ヘルニア」を起こしている。
脳の腫れが止まらないので、頭蓋骨の右側を外して脳圧を下げる再手術を行った。
たとえ「最善」の結果でも左半身麻痺だと言わる。

6月1日、7:30から医師による説明。
脳圧は下がらず脳幹を圧迫し続け、左脳まで脳梗塞を起こし脳全体が機能していない絶望的な状態。
命が助かる見込みは非常に低く、もし奇跡が起きたとしても植物人間であり、いま現在が危篤と言えるので覚悟はしてほしい。
もって数日と思われるが、危険な兆候が見られてからすぐに息を引き取ることはないので、30分程度で駆けつけられるなら、きょうはまだ病院に詰める段階にはないだろう。
心停止した場合に心臓マッサージなどの延命措置を行うかどうか、家族で話し合って欲しい、と。
極めて異例なことだが妻が泣いていた。

医師の予想に反し、義母はそれから2日経っても3日経っても息を引き取ることはなかった。
そのかわり、交代で付き添う姉弟3人のほうに疲れの色が濃くなってくる。
わたしは食べものや飲みものの差し入れも兼ねて日に1度顔を見せる程度だったが、仕事を休んで上京している義弟に至ってはほとんど病院に住んでいるようである。
といっても仮眠室があるわけでもなく、待合室にソファがあるだけ。
義妹は「もう死に目に会えなくてもいいよ」と弱音を吐くほど。

救急車で搬送されて以来1か月、義母はずっと救急科病棟にいる。
面会は親族のみ、時間も基本的に日に3回と限られている。
心拍数が低下して外に出ていた義弟が急遽戻るということもあったが、持ち直した。
それでも日に日に心拍数、血圧、血中酸素濃度はともに漸次低下し、自発呼吸も減ってきた。

6月5日、日曜ということもあり、妻の妹家族も全員集まっていた。
もしかすると、このまま植物状態になって、しばらく生き続けるのではないかという気がしてきた。
それならばそれで、ずっと病院に詰めている生活は変えなくてはならない。

面会を終えて19時半、2家族で食事をして帰ることになった。
義弟夫婦は滞在中の義母宅にいったん戻っており、病院には2時間ほど誰もいなくなるが、いまの状態ならよいだろうと思えた。
病院の近くの店に入り、料理が出てきたころ、病院からの電話が鳴った。
妻と義妹だけすぐに戻る。
もう慣れっこになった感じで残った者は急いで食事を平らげ、病院へ向かった。
しかし、病室へ入るとすでに義母の息はなかった。
義弟夫婦もかけつけていたが、誰も死に目には会えなかったらしい。
ずっと誰か彼かいるように努めてきたのに、どうしてこういうタイミングなのだろう。

レア・ケースということで病院側では解剖の希望もあったが、葬儀が大幅にずれそうだったので断った。
6月6日に通夜、7日に葬儀、8日に前倒しの初七日と駆け足で執り行われ、10日には父の納骨のため帰郷する。
1年間で3回も骨を拾うなんて5歳児にとっても忘れられない経験だろう。
わたしは3歳で祖父で亡くたが、葬式前後の非日常の記憶はいまでも強く残っている。

たまたま母の日だったから発見が早く命が助かってよかったね、と倒れた当初は言っていた。
けれど、1か月も夢うつつの状態でベッドに寝かされ、長く辛い手術を受け、頭蓋骨を外されたまま死を迎えるよりも、むしろ発見が遅れていたほうが幸せだったのではないか。
もちろん、発見時に死んでいたら、それはそれで悔やんだことだろうし、手を尽くせたからこそそう思うのではあるが。
せめて手術前に一度はっきりと覚醒させて親子の会話をさせることはできなかったろうか。
長い長い夢を見ながら義母はなにを思っていたのだろう。

義母の死に関しては、父の死よりも「残念な気持ち」は強い。
父は90や100まで生きるのではないかと思っていたものの、80歳という享年は平均寿命に達しているし、子から見て充実した晩年を送れたとは思う。
義母の場合は、まだ72歳であり、義父が逝って10か月にも満たない。
4月ころだったか「ようやくお父さん(義父)の死を受け入れるようになった」と言っていたのが印象に残っている。
子供(妻や妹弟)からすれば、父は結婚してからずっと母に苦労のかけ通しであり、父の死により母はようやく「解放」されたはずだった。
これから好きなことをやり、悠々自適に暮らすはずだった。
こんなに早く逝くなんて、身の回りのことがなにひとつ自分でできない義父が義母を連れていったに違いない。
皆がそう思った。
ところが、入院中に見つかった義母の日記には、義父を失った淋しさが切々と書かれていたのである。

2011.06.11

6月11日、晴れ渡った丘陵の墓地に父の骨を納めた。
納骨のあと、母や姉、弟家族とともに阿寒へ向かった。
数日前まで母は行かないと言っていたのだが、妻が気晴らしに行きたいというので気が変わったようだ。
阿寒には、母は父とともになんども来ているし、義父や義母と一緒に来たこともある。
1か月半前に手をとって一緒に泣いてくれたひとが逝ってしまうなんて信じられないと母はこぼした。
父のワゴン車に乗るのもこれで最後。
母は運転できないし、車検も切れるので処分することになっている。
泊まったホテルは、震災後に海外からの観光客が激減したためもうじき閉館する予定だ。
なんだかすべてがお誂え向きに終わりに向かっている気がしたが、ま、いい。
東京へ戻ってもより深い終末感に覆われているのだし、そう簡単に終われやしないのだから。

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思い出すことなど 番外篇 その3

4月19日、葬儀屋と打ち合わせ。
明日20日は友引で火葬場が休みなので、通夜は明日、葬儀は21日とする。

葬儀にかんして、父は無宗教の「音楽葬」を希望し、友人の神主が建てた共同墓所に埋葬して欲しいと遺言していたという。
「葬式ではベートーヴェンの第5をかけて欲しい」というような話は自分も父が元気な時分から聞いていた。
しかし、祖父母を弔っている寺とは長いつきあいだし、仏壇には毎日欠かさず手を合わせ、命日や盆は寺に参詣してきた父である。
まさか本気とは思っていなかった。
きくと、父は代替わりした住職と折り合いが悪く、あの寺には葬ってほしくないと強く言っていたらしい。
祖父母のためにはわざわざ浄土宗の総本山である知恩院を参拝するほどだったが、自分自身は信心深いわけでも浄土宗に帰依しているわけではなかったということか。
それにしても、息子が意外に思ったほどであるから、親類はさぞかし驚くことだろう。

初めて知ったことだが、会費制結婚式で知られる北海道は、葬式もそれに近い。
新聞の死亡広告を見て大勢集まってくるくるらしい。
このために新聞を止められないという声もあるくらいで、広告せずに親族のみでこじんまりとやる葬儀は珍しいようだ。

なにごとも「規格外」というのはめんどくさい。
日本で葬式するなら「仏教でふつうに」というのがもっとも簡単。
遺される者のことを考えるなら「無宗教で」とか「戒名はいらない」とか「親族だけでこじんまりと」とか「音楽ばんばんかけて」なんて遺言してはいけない。
特にイナカは人間関係がめんどくさいんだから。
オーダー・メイドの葬式をやるなら、むしろ大手の葬儀社のほうがフレキシブルに対応してくれるのでよい。
マニュアルでは「無宗教」のケースも想定しているらしく、ちゃんと相談に乗ってくれるし、結婚式みたいにスムーズに進行する専業司会者もいるので、坊主抜きの葬式では助かる。

式次第は決まり、祭壇だの花だの棺だの霊柩車だのといったものも選んだ。
面倒なのは親戚だと思っていたのだが、実はいちばん面倒なのは母親であった。
親戚はたとえ不愉快に思ったとしても直に文句を言ってくることは滅多にないが、母はくどくどと同じことを繰り返して言う。
自分自身がかなり規格外な人間であるにも関わらず、母にはその自覚がまったくなく、常に世間体を過度に気にするので手に負えない。
「無宗教で音楽葬というのがお父さんの希望だったから。これはね、はっきり言ってたから」と自分も納得づくだったはずなのに、あとになって、やはり線香くらい置いたほうがいいのではないか、あのひとはお寺と昵懇だから怒らいだろうか、などと言い始める。
参列者は親族だけと言っていたのにどんどん増える。
そういうことなら、遺言は無視して普通に仏式でやればよいではないかと姉弟ともども憤慨する。

無宗教の通夜・葬式は「間がもたない」というのがいちばん困る。
そのため読経のかわりに、なにかやらなければならない。
父親の場合は「音楽葬」という希望だったので、姉が選曲に従って音楽をMP3プレーヤに仕込む。
「なんだかんだ言って、いちばん好きなのはベートーヴェンの第5」と言っていた父だが、葬儀には合わないとのことで外された。
葬儀屋はPAについてよくわからないというので、会場まで行って装置を確認し、電気屋にMP3プレーヤを接続するケーブルを買いにいく。

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4月20日、寒いと思ったら氷点下。
午前中に納棺。
東京では腐敗防止のためもあるのか死ぬとすぐに棺に納めるが、こちらでは通夜当日までは布団に寝かせておく。
納棺時には「湯灌」といって、親族が遺体を拭く。
東京でも「清拭」といって葬儀屋や納棺師が同じようなことを行うが、地方によってはほんとうに「入浴」させる習慣があるそうだ。

午後、父が親しくしていた神主が来て位牌がわりの「霊璽」に「御霊遷し」をしてくれる。
葬式自体はは無宗教だが、内々に家でやることになった。
神主も通夜には一般の列席者とともに参列してくれる。
この神主はもともと普通のビジネス・マンだったのが、神社の娘と結婚し、神社を継ぐことのなったという。
父と友人づきあいがあったといっても、神社の娘はわたしの小学校の同級生であり、父とは親子ほど年が離れている。

葬儀場ではまず司会の女性と打ち合わせ。
親族が取材される形で、どんどんメモをとっていく。
自分の仕事を見ているようである。

通夜は、司会者の挨拶、故人略歴紹介、黙祷、音楽鑑賞タイム、列席者の献花、食事しながらのご歓談タイムという流れ。
丸テーブルに椅子が置かれ、ほとんど結婚披露宴である。
青と白を基調にした祭壇の装飾は華やかだが過度ではなく、なかなか上品で好ましい。
音楽はベートーヴェンの交響曲3番・6番、ピアノ協奏曲第5番、ドヴォルザークの『新世界より』など。
司会者は、やや演出過多な語り口ではあったが、許容範囲ではあるし、うまい。
たった30分程度の取材でうまくネタを盛り込んだストーリを作るものだと仕事がら感心する。
しまいには、うっかり涙を誘われたりもする。
「自慢の弟でした」という伯母の言葉。
死に直面しても涙は出なかったが、あれこれと思い出すとやはり来るものはある。

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4月21日、寒いけどいい天気。
葬儀場の仮眠室という名の大広間で朝を迎える。
いまどきのイナカの葬儀場というのは旅館みたいになっていて、風呂、アメニティ、寝巻きなどが完備されている。
どこの地方でもそうなっているのかはわからないが、こういうのは初めてで驚かされた。
外気温零下1℃の極北でTV付きのジェット・バスに浸かりながら現実感の希薄なニュースを見る。
湯上がりのコーヒーが美味しい。

葬式は通夜よりさらにシンプル。
司会者挨拶、黙祷、詩の朗読、献花、お別れの儀、出棺。
BGMはチャイコフスキーの『悲壮』やベルリオーズの『幻想交響曲』など。
相談もなしに勝手に入れられた「911で死んだ消防士の詩」とやらの朗読には怒りそうになったが、間がもたないからしょうがないかと諦めることにした。
(なお、これはあとで調べたら911とは無関係な「最後だとわかっていたなら」という詩だった)
幼いころは釜に入れる時が愁嘆場の絶頂だと思っていたのだが、いまは棺に花入れる「お別れの儀」がもっとも盛り上がる場面である。

火葬場は新しく、煙突もない「無煙ロースター」である。
エントランスもモダンで、中庭には大きな石のオブジェが置いてあったりする。
友引の翌日だったため非常に混みあっており、そのためかぜんぜん話が通っていなかった。
焼き上がって骨を拾いに行くと、坊主と焼香セットが待っていてひと悶着。

この地で骨を拾うのは幼少時以来だが、東京とはまったく流儀が違う。
壺ではなく白木の箱に直入れするのが主流というのには驚いた。
納骨時に壺へ移すらしいが、道東の風習だという。
火葬場ではなく葬儀社のスタッフが骨を拾うというのにも激しく驚かされたが、これはこの葬儀社だけの流儀らしく、ふつうはやはり隠坊さんがやるそうだ。

父は癌で痩せ衰えて死んだが、骨は立派に残っており、量も多かった。
背が高かったので棺はLサイズにしたが、骨箱は普通サイズだったため、なかなか骨が収まらなくて難儀した。
東京では細かい骨は処分して主だった骨だけ詰めることが多いし、参列者が拾うのも1回とか2回である。
ここでは、すべての骨を詰め切るまで列席者が何巡もするし、骨が入りきらないと親族が棒で骨を砕くこともやらされる。
「元気になって釣りに連れてってくれるって言ってたのに、嘘つき」と繰り返していた5歳児も、熱い熱いと言いながら骨を拾う。

底が焦げそうなほど熱い「骨箱」を抱え、ふたたび葬儀場へ戻り会食。
父が死んで疲れがどっと出たのか、母は風邪をこじらして喉を痛めて声が出ないため、喪主に代わって挨拶をする。
しゃべりは下手だが、適当に起承転結をつけて話を作るのは得意なほうである。

大量の籠花とともに帰宅。
霊璽はあるのでまだ祭壇の空間的には寂しくないが、線香も鈴もないと、家で拝む時でもほんと間がもたない。

姉は仕事のやりくりをしてこのまま連休に入るということだが、すぐに帰京するのはさすがに母親が心配であるし、役所や銀行などの手続きもある。
自分も家族だけ先に帰して数日残ることにする。
今敏の菩提寺に焼香しにいく時間もできた。

父の遺品を整理しようと思ったら、自分の通知表だの図画工作など過去の遺物が大量に発掘された。
父は整頓壁のあるほうでなんでもインデクスをつけて分類しておくような人間であるが、その半面、ものを捨てられず、なんでもとっておく癖がある。
特にこうしたものは、子供の思い出の品ということで保管してあったのだろう。
しかし、この家もやがては処分することになるのだろうし、こうしたものも少しずつ整理・処分していくことにする。
自分の過去そのものが整理されていくようで、悪い気はしない。

思い出すことなど 番外篇 その2

3月11日、大震災。
母にメイルすると「大丈夫、お父さんは眠っています」との返事。

入院直後、母が危篤だといって慌てて電話をかけてきたことがある。
新に処方した薬の量が多かったため呼吸困難になったのだが、それは医師としては織り込み済みで、危篤でもなんでもなかったらしい。
様子を見ながら痛み止めの適切な量を計ろうとしていただけだった。
おろおろした母は医師に「奥さんがもっとしっかりしなきゃ」と言われたそうだ。

2011.3.11

検査の結果、父は身体の随所に癌の転移が見られた。
足に力が入らないと言っていた右脚の大腿骨をはじめ、痛がっていた鎖骨あたり、頭皮など。
いったい前のS病院はなにをやっていたのか。
大腿骨は癌以前からの膝の痛みと本人も区別がついていなかったようだが、きちんと検査をして、見る目がある医者が診ればわかったはずだ。
ただ、自分も頭皮の癌などは思いもよらず、頭をぶつけたところがいつまでも痛いと言う父を大袈裟だと笑っていた。
済まないことをしたものだ。

入院中、父は小用を足すため、深夜に自分で手すりをつたって歩行し、転倒したことがあった。
癌で大腿骨がもろくなっているので、転倒による骨折は命取りになりかねない。
医師からは退院後も車椅子を使うよう言われる。
父は「もう歩けないのか」とひどく落胆したので、母は「車椅子でも写生はできますよ」と励ましたそうだ。

定年退職後の父は、若いころからの趣味であるオーディオや音楽に加え、水彩画に力を入れていた。
風景画が多く、よく写生に出かけては、メイルで描いた絵を送ってきた。

3月18日から20日、姉と弟が帰省。
食欲回復と痛みのコントロールのための短期入院だったずが、痛み取りの放射線照射となり、退院時期が見えなくってしまった。
弟は、父が退院後に車椅子で生活できるよう、バリア・フリーでのリフォームを業者と打ち合わせた。
建築士である弟のプランを見て、父は満足げでたいそう喜んでいたそうである。

4月8日、父はもう長くないかもと母から架電。
もともと5月の連休には帰省するつもりでいたのだが、看護師から「息子さんたちにはもっと早く、お話しができる状態のうちに来てもらったほうがいいんじゃないですか」と言われ動揺したのだ。
たとえよかれと思ってのことでも、医師に指示されたわけでもないのに独断でこのようなことを言って家族を動揺させる看護師というのはいかがなものか。
放射線治療の副作用が大きく、衰弱が激しかったが、自発呼吸も充分にできているし、臓器に異常もない。
危篤というわけではないが、母はもう覚悟を決めたほうがよいのかと不安にかられた。

姉は父よりも母が心配だと急遽帰省。
母は昨年に骨折したさい手首に入れた金属を抜く手術を父の入院中にやってしまおうと自分も短期入院しており、姉はその世話もしてあげようという心づもりだ。
このころの父は喉の痛みが強まり発声しづらくなっていて、衰弱もかなり進行していた。
少し前には「もうこのまま家には帰れないのかもしれないな」と半ば諦めのような言葉を母に漏らしていたらしい。
自分も4月18日の航空券を押さえて様子を見ることにした。

4月16日夜、父の意識がなくなったと連絡。
母の電話はそれだけで切れてしまっったが、どうも危篤というニュアンスではないし、また空騒ぎの可能性もある。
18日の航空券もとってあるし、どうしようかと思ったが、姉や弟とともに翌朝一番に帰省することにした。

4月17日、釧路は雪がちらついていた。
病室に入ると、父は酸素マスクをつけられ、昏睡状態で荒い呼吸をしている。
医師によると、すでに意識はなく、問いかけに反応しているように見えても反射に近いもので、なにかを認識しているわけではないという状態。
結果的には、件の看護師の「読み」が当たってしまったようだ。
母は上の階に入院していたのですぐに駆けつけられたが、入院中では付き添いの許可が出ないので退院手続きをとった。
口を大きく開けているのがおかしいとはいえ、単に寝ているようにも見える。
危篤とは思えない。
この状態からすぐ死ぬ至ることはまずないが、だんだんと呼吸が荒く浅くなり、心拍数や血中酸素濃度が低下すると、カウントダウンが始まるという。
状況がわからなかったので家族は置いてきたが、明朝の便で呼ぶことにする。
迷ったすえ自宅に置いてきた喪服は宅配便で送ってもらう。

2011.04.17

交代で食事や買物に出たり、歓談室のソファで横になったり。
夕刻、母とふたりで病室から見た月が美しかった。
今夜は月齢13.5、明日は満月だ。

夜には母とともに仮眠のため家へ戻る。
30分でも1時間でも寝たほうがいいといくら言っても母は寝ない。
無意味な片付けをしたり家のなかをうろうろする。
死に目に会えなかったら大変なのですぐ病院へ戻ろうという。
この状態が数日続く可能性だってあるのだから、いまからそれでは身が持たないといっても聞き入れない。
母は理屈が通用しない人間なので、しまいには喧嘩になる。
おかげでこちらも寝られないまま病院へ戻る。

2011.04.17

4月18日、兄弟の家族が到着。
父はこのままフェイドアウトするかのように息を引き取るのかと思っていたが、不思議と「反応」するようになった。
医師は「反射」と言うかもしれないが、声をかけたり、ゆすったりすると手を挙げる。
癌のある鎖骨あたりにしきりに手をやる。
ついには、目を開け、こちらを見た。
自分には焦点が合っているように見えなかったが、姉はしきりと見てると言う。
手を振ったりして反応を見ているうちに自分も目が合った。
孫たちがやってきたことがわかったのかもしれない。
枕許には、昨年の入院中に5歳児が鎌倉の海でとってきた貝殻が置いてあった。
携帯プレーヤでヘッドフォンから音楽を流す。

家へ休憩に戻った際、父のPCのなかで写真を探す。
遺影に使えそうな写真をピックアップし、トリミング、加工する。

夕刻、だんだん息が細かく荒くなってなきたが、まだ酸素濃度は高い。
先は長そうだ。
歓談室で大きな夕陽が沈んでいく様を撮っていると弟から電話。
危ない状態になったらしい。
慌てて病室へ戻れば、すでに心電図モニタが取り付けられ、担当医と看護師が集まっている。
医師にまだ呼吸をしているのかときくと首を横に振る。
やがてグラフが平板化し、レジスターのように死亡時のデータが出力紙で吐き出された。
医師が脈と瞳孔反射で死亡を確認する。

涙は出なかった。
ようやく楽になったんだという気がした。
搬送の準備をしている間、あちこちにメイルしたり、tweetしたりして、少しずつ現実に引き戻される。
たった2日のことだったのに、1週間も病院に詰めていたような気がした。

葬儀屋の搬送車には母と姉に乗り、弟とタクシーで帰る。
車窓から見える月齢14.5の満月が大きかった。

2011.04.18

思い出すことなど 番外篇 その1

2011年4月18日、父が死んだ。
早いものであれから1か月。
あと半月もすれば納骨である。


と書いたものの、その後、思いもよらぬ事態が発生し、さらに2か月半が過ぎた。
とっくに納骨も終え、いまは8月だ。


2010年3月に肺癌(扁平上皮癌)が見つかり、連休明けの5月6日に神奈川県立がんセンターで父は左上葉切除の手術を受けた。
地元の病院は心許ないとのことで、父はネットで情報を蒐集し、自分で決めた。
姉の住む横浜から近いということと手術の実績、最終的には電話応対の好印象が決め手になったとか。
手術前の検査ではIB期と見られていたが、切ってみればIIB期、再発時に聞いた話では実は腺癌も見つかっていたらしい。

手術に先立つ4月29日、父母、弟家族とともに金沢自然公園へ行った。
すぐに息が切れるので丘のうえまでの坂道をゆっくり昇っている姿が辛そうではあったが、男女ふたりの幼い孫と一緒に過ごす楽しそうな父を見る最後の機会ともなった。

父の手術後、もうそれでわたしは治ったと思っていた。
10年くらいあとには再発することもあるだろうが、当面は大丈夫であろうとさしたる根拠もなく安心していた。
いや、安心したかったのである。

6月4日には自宅の引っ越しがあって慌ただしく、その後は末期癌の友人にかかりきりだった。
ほかのことは考えたくなかったのである。

退院後に父は母や姉と一緒に箱根・湯河原へ行って湯治し、6月20日には北海道へ帰っていった。
自宅へ戻ってすぐに写真の整理をしてCD-Rで送ってきている。
まったく律儀な父だ。

この年の記録的な猛暑は北海道にも及び、メイルのログに見返すと、釧路で30℃を超えたのは生まれて初めてだと父もたいそう驚いている。
ログをたどっていたら、父から届いた最初のEメイルにいきあたった。
ヘッダを見ると2000年11月20日18:10とある。
父にPCを贈ったのはたしか前年の1999年だったと思う。
当初はまったく使う気がなかったようだが、囲碁のネット中継を見たくて使いはじめた。
思えばPCという贈り物は数少ない親孝行だったかもしれない。
もっとも、PCの使い方を問われるたびにケンカのようになってしまったが。
父は新しもの好きで融通性・理解力がある反面、自分の非を認めたがらない頑固な側面があった。

手術で摘出した組織検査の結果、リンパ節からも癌細胞が見つかった。
転移・再発の可能性も充分あるIIIA期だったらしい。
父自身も手術は成功してもう治ったものと思っていたので、相当に落ち込んでいた。

6月8日、恩人編集者の母の訃報があり、7月8日、先輩編集者が遺体で発見された。
8月16日、義父が逝き、8月24日、友が逝った。

10月10日、今敏の納骨でKON’STONEの京子さん、原さんとともに釧路へ。
父は喉に痛みが残っており、体調が悪いと言いつつも、わたしが行くと床を払った。
4か月ぶりに会う父は、快方へ向かっているように見えたし、そう思いたかった。
「今くんの奥さんにはなんて言葉をかけたものか、辛くて会えないなあ」と言っていたものの、帰りにはクルマで空港まで送ってくれた。
京子さんたちを迎えに行ったホテルでブライダル・コーナーを眺めながら「あんなドレスを着せてあげたかったな」とつぶやく。
孫の花嫁姿を見ることは叶わないと諦めていた。

もともと父には成人病の前兆はなにもなく、食事も野菜と魚が中心で絵に描いた健康食だった。
昔から「疎まれながらも100まで生きるね(笑)」と周囲も自分も言っていたのである。
母なぞ「お父さんだけは癌にならない」と思っていたそうある。

2010.10.11

12月20日、激しい胸の痛みと呼吸困難を訴え父は救急車で搬送された。
心臓疾患も疑われたが、肺癌の再発および転移が確認される。
医師は、もう末期であり積極的治療は不可能だという。
10月にはレントゲンで「肺に小さな影」が見つかったが、医師は精密検査をせず「様子を見ましょう」と言われたそうだ。
父からはこんなメイルを受け取っていた。

8/12
昨日の定期検査の結果、CT、腫瘍マーカー共に異常なし。

10/21
今日は午前に膝、肩に痛め止めの注射をしてきた、まだ効いているようで楽。
帰りに「腰を忘れてた」残念。

11/10
腰痛、肩、背中の痛みで苦しんで安眠が出来ず且つ、おまけにここ数日風邪気味か体調不良で参っています。
不眠のせいか体重も全然回復しないよ。

11/11
今日は13時半まで病院、痛め止めを注射したが全箇所効果なし。

11/20
飯鮨漬けてる。
今年は手が痛いので勘弁してと(母が)言ってるところを頼み込んで。
鰰は面倒なのでやめたが、今日、和商市場で、少々だけど、秋味(紅鮭)を一匹4800円で3本買ってきました。
上手く漬かればいいがね。所望なら又送るので楽しみに。
体調不良につきもう寝ます、全身痛くて寝れないけど。(肩、背中、腰、右膝等々)

いま思えば再発を疑るべきだったのだが、父は癌になる前から脊椎に湾曲があるとかで首から腰にかけて痛むことがよくあったし、風邪にかかりやすく治りにくい体質だったので、いつもの体調不良だろうと高を括っていた。
膝の痛みも肺癌以前からのもので、整形外科でも癌と無関係と言われていたため、父も再発ではないと思いたがっていたようだ。
しかし、12月に入ってから胸の痛みが強くなり、ただごとではないと自覚するようになったらしい。

姉は急遽帰省して父母とともにS病院の担当医の説明をきいた。
姉曰くこの担当医が非常に問題のある人物で、医師不足の地方病院ゆえにインターン上がりの新米が科を任されて勘違いしてしまっているのだとか。
消化器内科がS病院にしかないという理由で受診し、肺癌が発覚してからずっとこの病院にかかっているが、通院するにはかなり遠い。
手術後は家から近くて人材も設備も整ったR病院に転院したかったのだが、この医師は渋り続けた。
ライバル関係にあるR病院に転院されると自分の「成績」に関わるからかもしれない。
この1年でいろんな医者を見てきたが、いまは腕の立つ医者、キャリアのある医者ほど威張らないし、コミュニケイティヴで説明がうまく、セカンド・オピニオンを薦めたりもする。
この若い担当医とは逆である。

父の癌は左右の肺に広がっており、もはや積極的治療は叶わないが、痛みを取るためこのまま入院させ放射線で癌を縮小させるということだった。
姉は定期検診をしていながら癌をここまで「放置」もしくは「看過」した担当医をまったく信用していなかったし、なんらかの希望をつかみたかったので、父に上京してほかの病院で診察を受けることをすすめた。
担当医に問題があるだけでなく、そもそもS病院は規模が大きく患者数が多いわりにスタッフが少なく、看護師の申し送りすらまともに行われていないなど、病院自体のシステムがうまく機能していないのだという。

中途半端に場当たり的な放射線治療を受けるとほかの病院での治療が難しくなることもあり年末に退院したが、いま思えば、最後の年末年始を家で過ごせとことはよかったとは思う。
わたしも重粒子療法や陽子線治療、免疫療法の治験、緩和ケアについて調べたり問い合わせたりして年明けの上京を待った。
父も自分なりに調べて、がん研有明病院がいいかな、などとメイルをくれたりもした。

2011年1月3日、父は母と姉とともに上京。
足許がふらつくため車椅子を利用していた。
自力歩行が難しくなり車椅子へ、車椅子から寝たきりへと加速して病状が悪化していった義父や友の姿を見ているので、嫌な予感が過ぎる。
翌1月3日にはまず前年に手術をした神奈川県立がんセンターで検査を受けた。

1月6日の未明、再び胸の強い痛みを訴えて救急車で神奈川県立がんセンターへ搬送。
それ自体は急を要することではなかったが、検査結果を受けての医師の説明があった。
結論から言えば、末期癌で積極的治療が行える段階にはないとのこと。
余命が半年になるか、1年になるかは本人の気力次第で大きく異なる。
病気に対してできることはそう変わらないので、子供の近くで過ごすか故郷で過ごすか、いずれにするかは心の問題であり免疫力にも影響するので、本人の意志を最大限に尊重して決めるべきという。

緩和ケア病棟はどこも順番待ちらしいが、近くで入院してもらったほうがなにより安心できる。
こっちにいれば痛みのコントロールだけとっても「腹腔神経叢ブロック」「高周波熱凝固法による神経根ブロック」といった高度な神経ブロックやストロンチウム治療など、副作用の大きな放射線のほかに選択肢があるということは今敏の件で学んだ。
しかし、父はどうせ治療が叶わないのであればと故郷で過ごすことを強く希望し、ほかの病院を受診することもなく帰郷することにした。
姉はしきりに父を上京させた判断が間違っていたのではと自分を責めていたらしいが、神奈川県立がんセンターでセカンド・オピニオンを得られたことはよかったと思う。

1月10日、父と母へ帰っていった。
別れ際に空港で「こんど北海道へ行くまでには元気になって、釣りに連れていってね」ともうすぐ5歳になる孫に約束させられ、困った顔をしていた。

北海道へ戻ったところ、S病院の担当医はあからさまに「それみたことか」という顔をし、いまさら戻ってきても病床は空いていないので通いで放射線治療を受けるよう言われた。
こんな医師の世話にならずとも放射線治療なら近くのR病院でもできるし、R病院には緩和ケアの専門チームもある。
転院を望んだが担当医はなかなか認めず、もっと遠い病院を紹介しようとさえした。
放射線治療が終わった時点でさすがに両親とも「堪忍袋の緒が切れた」と強く迫り、2月からようやくR病院へ転院することとなった。
転院の書類を見ると、悪口雑言とも取れる文章が記してあり、まったく賛成できないが本人と家族の強い希望により転院するのでご迷惑でしょうがよろしくと結んであった。

3月2日から7日まで、実家に長逗留。
放射線治療によって肺癌は縮小して痛みが軽減したとはいえ、まだまだ痛みは残り、放射線治療の副作用と思われる倦怠感、食欲不振がひどい。
もともと自分としては放射線治療には反対だったのだが、積極的治療ではなく痛み取りが目的が短期照射ならば仕方ないかと思っていた。
しかし、衰弱した様子で横になっている姿を見ると、もっとほかに方法がなかったかと思う。

日常生活すべてに介護・介助が必要というわけではないが、立ち歩くと足許がふらつくので、2階に上がる際や風呂場に行く際などには肩を貸す。
メインのデスクトップPCは2階に置いてあるので、サブである1階のラップトップが快適に使えるよう無線LAN環境を整える。

父は若いころより低くなったとはいえ身長が173mくらいあり、それで47kgというから骨と皮である。
入浴を手伝った際に「痩せたなあ」と言いながら鏡を見ていた。
食べないから血も薄くなるし、免疫力も低下し、病が進行する。
そのためさらに食べたくなくなる。
食欲不振が悪循環の原因になっているので、少しでも食べられそうなものを作る。
父の好物である馬鈴薯を使ったポテト・サラダ、ポタージュ・スープは喜んで食べてくれた。

20110305

3月3日、父母とともに転院先のR病院へ行き、医師と面談する。
緩和ケア科の専門病棟はないものの、専門知識をもった医師と看護師がチームを組んで内科病棟内で体制を作っている。
肺や喉のほか、背中側の脇腹が時々ひどく痛むのでその検査、疼痛管理、食欲不振の回復などを目的に短期入院することになった。
あくまで「家で元気に過ごせる」ようになるための準備で、治療ではない。
R病院へ転院したってベッドの空きなんてありませんよ、というS病院の担当医の話はまったくのデタラメだったわけである。
なによりR病院の医師は患者や家族の不安を払拭するような真摯な話し方に好感が持てた。
父は痛みや体調不良にまったく堪え性がない性分で、周りから見ればたいしたことがなさそうなことでも、やれ痛いだのだるいだの言うほうではあるが、看護師によると我慢して我慢して重篤な状態に陥るよりはそっちのほうがいいのだとか。
早ければ翌々日からでも入院できそうだったが、父はわたしの滞在中は家にいることを望み、帰京の翌日から入院することにした。

その夜は、お気に入りのポテト・サラダとポタージュ・スープのほか、食べられるかどうかわからないものの、父の好物のオヒョウやツブの刺身、牡蠣の鍋も用意した。
父は牡蠣や豆腐、はんぺんを「美味しい」と言って食べ、オヒョウやツブも数切れつまんだ。
サロマ湖産の牡蛎は父も初めてだったそうで、こんどは殻付きのを食べたいものだなどと話した。
「美味しいなあ、これは飲みたくなるなあ」と言うので好きな酒をすすめてみるが、逡巡して「やっぱりやめとくわ」と言う。
正月に気分がいいので一杯だけ飲んだところ具合が悪くなってしまったので懲りたらしい。
この夜の父が発した「美味しい」は、これまで料理を作ったなかでもっとも嬉しかった。
滞在中は食欲の回復傾向が見られ母も喜んでいた。

3月4日、壁などに手すりを取り付けるためケアマネージャとリフォーム業者が見積もりに来る。
介護保険の「要支援1」に認定されているため10万円までは無料になるとか。
父は自分で歩いて動線を確認しながら、あれこれと取り付け箇所を指示する。

3月5日、リフォーム業者が図面と見積もりを持ってくる。
父は自分で「こんなにたくさんいるかなあ」と言っておきながら、母の「こんなにいらないんじゃない?」というひとことに不機嫌になり、図面を投げ捨てる。
病状が悪化して以来、どうも母に当たることが多くなったようだ。

高校時代の同級生とともに今敏の寺を参り、シャンパンとタバコを備えてくる。

3月5日、入院に備えて携帯プレーヤにCDを取り込む。
父はクラシックとジャズのひとだが、この時に選んだCDはジャズが多かった。
以前はMP3などの圧縮フォーマットを軽んじていたので、これまでデジタル・オーディオ・プレーヤを使ったことがなかったのだが、試しに聴かせてみると悪くないなと言うようになった。
ついでにCDの取り込み方をレクチュア。

3月7日、明日からの入院が正式に決まった。
ふつうの相部屋に空きがなかったとかで、パーティションで仕切られた半個室となった。
カーテンで仕切られた相部屋と違って落ち着けるし、父はたいへん気に入っていたそうである。
末期と診断されてから数年生きた例はいくらでもあると横浜の医師も言っていたし、放射線治療の副作用が収まり、食欲を取り戻せば元気が出るのではないかと期待して帰京した。

110307