08.
朝一番で京子さんは薬局まで鎮痛剤など取りに行かねばならいとのことで、わたしは8時半に今宅を訪れた。
峠は越え、呼吸も落ち着いたとはいえ、少しの間でもひとりになることを彼が恐れたからである。死を恐れながらも彼は「早く楽になりたい、早く死にたい」と漏らした。
「きのうは平沢さんに、頑張る、と約束したじゃないか」と質す。
「病人らしく振る舞っただけだよ。たとえ峠を越えたって先は長くないさ」「自分にできるのは周囲に迷惑をかけないよう早く終焉を迎えること」と返す。
自暴自棄とも違う虚脱状態。まるで死にそこなったことが信じられないかのようで、生気がない。しかし、顔から死相は完全に消えていた。本人も「ウソだろ、生き延びちゃったよ」という気持ちだったようだ。
昨夜もあまり眠れず、寝たり起きたりが続いたためか、午前中は話していても半覚醒状態のこともあったが、少し長く眠り、昼過ぎになると顔色も戻ってきた。わたしはひと安心して、できたばかりの会社の書類を持って税務署だの銀行だの法務局だのへと向かった。
外から戻ると彼は坊主頭になっていた。五分刈りというやつだ。毎日入浴できるわけではないので、長髪では汗をかいて鬱陶しいことこの上ないため、本人たっての希望で器用な京子さんが買ってきたばかりの電気バリカンで刈ったのである。痩せて眼光が鋭くなったせいもあり、不思議なくらい似合っている。男前だ。顔色はいっそうよくなり、非常に多弁になった。話していると元気が出てくるといったふうだ。
19時には彼が「仕事における親」と呼ぶ、アニメーション制作会社マッドハウスの丸山社長が来訪。本来であれば、真っ先に病気を知らせなければならないのは実の両親と丸山さんだが、親という存在だからこそ、どうしても言えないで来たのである。しかし、搬送先の病院で死に直面し、もう残された時間はないと、ようやく病を告げたのだ。
「もう少しよくなってから言おうなんてカッコつけているうちに、こんな姿になってしまいました」
丸山さんが入ってくるなり、嗚咽しながら彼は詫びた。手を握り返す丸山さん。そして半生を振り返る長い長い述懐。手塚治虫に憧れた少年時代、マンガ家となって大友克洋と一緒に仕事をした蜜月時代、丸山さんと出会いアニメーション監督としてデビューしてからのこと。
「丸山さんがいたから“今 敏”になれたんです。丸山さんが“今 敏”にしてくれたんです」
3時間以上は話しただろうか。疲れるどころか、話し終えるころ彼は気力を取り戻していた。もっとも大きかったのはやはり、制作中止を覚悟していた新作『夢みる機械』について「なんとでもするから」と丸山さんが請け合ってくれたことだろう。
翌10日。彼は酸素吸入器なしでも酸素濃度が標準値を保てるようになり、煙草が美味いとまで言うようになった。前日の丸山さんとの長い語らいがカタルシスとなったのか、憑きものが落ちたかのように再生し、また病と向き合う気力が出てきたようだ。
話を聞きつけた平沢さんは喜びの余り夕方には再び「応援」に来訪。首から折れたハイビスカスの蕾が花を咲かせた話をしては「幸先いい」と繰り返していた。
実はこの日、彼は時折悲鳴を上げたくなるほどの痛みに襲われいたため、いつもより口数は少なかったのだけど、上機嫌だった。
「我が家にヒラサワのいる超現実」
日常の象徴の空間たる我が家のダイニングで非日常の象徴のような平沢進がお茶を飲んでいるのだ。なんというあり得ぬ光景。
09.
病室兼仕事部屋兼応接室となった居間で場所塞ぎとなっていた巨大なマッサージ・チェアは引っ越し屋によって運び出されていった。丸山さんが貰い受けてくれたため、早々に搬送の手配をしたのである。これで室内を車椅子で動き回るにもよい環境となった。
搬送したのはわたしが自宅の引っ越しを頼んだ業者で、格安で引き受けてくれた。このころなぜだか「ちょっと前の経験があとで役に立つ」という幸いなシンクロニシティ(と言うのは大袈裟か)に見舞われることが多かった気がする。
広くなった室内に札幌から彼の両親が着いたのは、7月12日の16時近く。羽田からの道は混んでいて、迎えに行ったマッドハウスのOさんと車中ずっと話しながら来たそうだ。
げっそりと痩せ細った病床の我が子を想像していたにもかかわらず、意外にも元気そうで驚いたと彼の母は繰り返し言う。なるほど上半身だけ見る分には病人らしくなく、痩せたとはいえむしろ精悍に見えてよい顔になったくらいだ。10代からの彼を知っている身としては、近年のふっくら顔よりもこうした鋭い顔つきのほうが馴染みがあるし、両親ならなおさらそうだろう。
これまで両親のことは大きな懸案事項だった。病気のことを電話で伝えるわけにはいかない。札幌へ行って自分の口から直接に言う。9月に札幌でクラス会があるからそれがよい機会ではないか。5月や6月には彼はそんなふうに考えていた。しかし、病の進行は加速し、ついには下肢が痲痺したため札幌行きもかなわなくなった。結局、危篤となった際に「先に行ってるから」と電話することになってしまい、悩んだ末ようやく80歳を超えた両親に来てもらう決心がついたのだった。
「丈夫な身体に生んでやれなくてごめんね」
「いや、丈夫な身体を粗末に扱った自分が悪いんだ」
努めて明るく振る舞おうとしていた母だったが、抑えきれない気持ちがこみあげてきたようだった。それでも愁嘆場は5分ほどであり、あとは励ますように語る。入院せずに自宅で過ごすと決めたこと、西洋医学だけに頼らないこと。世間では「一般的」とは思われない彼の闘病スタイルも「敏の考えだから」と受け入れている。さすがは自らの意志と才能で生きようとするふたりの息子のため、鋳型に入れたがる学校や教師とわたりあってきた母である。
看護スタッフが来て身体ケアの時間となったため、いったん両親をホテルまで送っていく。彼の母には高校時代に数回会ったことがあるが、30年ぶりであり、向こうは覚えていないようだった。それでも、話し好きで社交的な人柄なので、2時間ほどを楽しく過ごした。父はふだん無口で威厳があるのだが、酒を飲むと気の利いた洒落が出る。さすが、今敏のルーツである。外見も両親ともにすらりとした長身だ。
今宅へ戻り、手土産の鮭や鰻をいただき舌鼓。時知らずの鮭は言わずと知れた北海道名産品であり、なぜか浜松名産の鰻もまた彼の好物なのである。彼も少量を食べ、飲み、美味しそうに煙草をふかす。
これまでの彼には死ぬことと生きること、両面へのアプローチが必要だった。生きる準備だけでは死ぬ時に困るし、死ぬ準備だけでは生きられない。
だが、両親に会ったことで彼の死ぬ準備は完了した。きょうからはもう生きることだけ考えていい。そんな祝杯のようだった。