思い出すことなど [4]

08.

 朝一番で京子さんは薬局まで鎮痛剤など取りに行かねばならいとのことで、わたしは8時半に今宅を訪れた。
 峠は越え、呼吸も落ち着いたとはいえ、少しの間でもひとりになることを彼が恐れたからである。死を恐れながらも彼は「早く楽になりたい、早く死にたい」と漏らした。
「きのうは平沢さんに、頑張る、と約束したじゃないか」と質す。
「病人らしく振る舞っただけだよ。たとえ峠を越えたって先は長くないさ」「自分にできるのは周囲に迷惑をかけないよう早く終焉を迎えること」と返す。
 自暴自棄とも違う虚脱状態。まるで死にそこなったことが信じられないかのようで、生気がない。しかし、顔から死相は完全に消えていた。本人も「ウソだろ、生き延びちゃったよ」という気持ちだったようだ。
 昨夜もあまり眠れず、寝たり起きたりが続いたためか、午前中は話していても半覚醒状態のこともあったが、少し長く眠り、昼過ぎになると顔色も戻ってきた。わたしはひと安心して、できたばかりの会社の書類を持って税務署だの銀行だの法務局だのへと向かった。

 外から戻ると彼は坊主頭になっていた。五分刈りというやつだ。毎日入浴できるわけではないので、長髪では汗をかいて鬱陶しいことこの上ないため、本人たっての希望で器用な京子さんが買ってきたばかりの電気バリカンで刈ったのである。痩せて眼光が鋭くなったせいもあり、不思議なくらい似合っている。男前だ。顔色はいっそうよくなり、非常に多弁になった。話していると元気が出てくるといったふうだ。
 19時には彼が「仕事における親」と呼ぶ、アニメーション制作会社マッドハウスの丸山社長が来訪。本来であれば、真っ先に病気を知らせなければならないのは実の両親と丸山さんだが、親という存在だからこそ、どうしても言えないで来たのである。しかし、搬送先の病院で死に直面し、もう残された時間はないと、ようやく病を告げたのだ。

「もう少しよくなってから言おうなんてカッコつけているうちに、こんな姿になってしまいました」
 丸山さんが入ってくるなり、嗚咽しながら彼は詫びた。手を握り返す丸山さん。そして半生を振り返る長い長い述懐。手塚治虫に憧れた少年時代、マンガ家となって大友克洋と一緒に仕事をした蜜月時代、丸山さんと出会いアニメーション監督としてデビューしてからのこと。
「丸山さんがいたから“今 敏”になれたんです。丸山さんが“今 敏”にしてくれたんです」
 3時間以上は話しただろうか。疲れるどころか、話し終えるころ彼は気力を取り戻していた。もっとも大きかったのはやはり、制作中止を覚悟していた新作『夢みる機械』について「なんとでもするから」と丸山さんが請け合ってくれたことだろう。

 翌10日。彼は酸素吸入器なしでも酸素濃度が標準値を保てるようになり、煙草が美味いとまで言うようになった。前日の丸山さんとの長い語らいがカタルシスとなったのか、憑きものが落ちたかのように再生し、また病と向き合う気力が出てきたようだ。

 話を聞きつけた平沢さんは喜びの余り夕方には再び「応援」に来訪。首から折れたハイビスカスの蕾が花を咲かせた話をしては「幸先いい」と繰り返していた。
 実はこの日、彼は時折悲鳴を上げたくなるほどの痛みに襲われいたため、いつもより口数は少なかったのだけど、上機嫌だった。
「我が家にヒラサワのいる超現実」
 日常の象徴の空間たる我が家のダイニングで非日常の象徴のような平沢進がお茶を飲んでいるのだ。なんというあり得ぬ光景。

09.

 病室兼仕事部屋兼応接室となった居間で場所塞ぎとなっていた巨大なマッサージ・チェアは引っ越し屋によって運び出されていった。丸山さんが貰い受けてくれたため、早々に搬送の手配をしたのである。これで室内を車椅子で動き回るにもよい環境となった。
 搬送したのはわたしが自宅の引っ越しを頼んだ業者で、格安で引き受けてくれた。このころなぜだか「ちょっと前の経験があとで役に立つ」という幸いなシンクロニシティ(と言うのは大袈裟か)に見舞われることが多かった気がする。

 広くなった室内に札幌から彼の両親が着いたのは、7月12日の16時近く。羽田からの道は混んでいて、迎えに行ったマッドハウスのOさんと車中ずっと話しながら来たそうだ。
 げっそりと痩せ細った病床の我が子を想像していたにもかかわらず、意外にも元気そうで驚いたと彼の母は繰り返し言う。なるほど上半身だけ見る分には病人らしくなく、痩せたとはいえむしろ精悍に見えてよい顔になったくらいだ。10代からの彼を知っている身としては、近年のふっくら顔よりもこうした鋭い顔つきのほうが馴染みがあるし、両親ならなおさらそうだろう。

 これまで両親のことは大きな懸案事項だった。病気のことを電話で伝えるわけにはいかない。札幌へ行って自分の口から直接に言う。9月に札幌でクラス会があるからそれがよい機会ではないか。5月や6月には彼はそんなふうに考えていた。しかし、病の進行は加速し、ついには下肢が痲痺したため札幌行きもかなわなくなった。結局、危篤となった際に「先に行ってるから」と電話することになってしまい、悩んだ末ようやく80歳を超えた両親に来てもらう決心がついたのだった。

「丈夫な身体に生んでやれなくてごめんね」
「いや、丈夫な身体を粗末に扱った自分が悪いんだ」

 努めて明るく振る舞おうとしていた母だったが、抑えきれない気持ちがこみあげてきたようだった。それでも愁嘆場は5分ほどであり、あとは励ますように語る。入院せずに自宅で過ごすと決めたこと、西洋医学だけに頼らないこと。世間では「一般的」とは思われない彼の闘病スタイルも「敏の考えだから」と受け入れている。さすがは自らの意志と才能で生きようとするふたりの息子のため、鋳型に入れたがる学校や教師とわたりあってきた母である。

 看護スタッフが来て身体ケアの時間となったため、いったん両親をホテルまで送っていく。彼の母には高校時代に数回会ったことがあるが、30年ぶりであり、向こうは覚えていないようだった。それでも、話し好きで社交的な人柄なので、2時間ほどを楽しく過ごした。父はふだん無口で威厳があるのだが、酒を飲むと気の利いた洒落が出る。さすが、今敏のルーツである。外見も両親ともにすらりとした長身だ。

 今宅へ戻り、手土産の鮭や鰻をいただき舌鼓。時知らずの鮭は言わずと知れた北海道名産品であり、なぜか浜松名産の鰻もまた彼の好物なのである。彼も少量を食べ、飲み、美味しそうに煙草をふかす。
 これまでの彼には死ぬことと生きること、両面へのアプローチが必要だった。生きる準備だけでは死ぬ時に困るし、死ぬ準備だけでは生きられない。
 だが、両親に会ったことで彼の死ぬ準備は完了した。きょうからはもう生きることだけ考えていい。そんな祝杯のようだった。

Pyramid
Kon's collection 02 - Pyramid stone (Egypt)

思い出すことなど [3]

06.

 7月3日の土曜未明に発生したサーバの不具合によって、今敏の公式サイト「KON’S TONE」がダウン。Web, FTP, メイル、データベースといった全機能がストップしていたが、日曜の朝にはようやく復旧したかに見えた。しかし、Webサーバ上のファイルも、データベース上のデータも、すべて消えている。どうやらバックアップも吹っ飛んでしまったらしく、ホスティング・サーヴィス会社では復旧後も書き戻すことができなかったと見える。ひどい話だ。
 別のサーバにローカルのバックアップからレストアしてサイトを再構築しつつ、頼まれていたサウンド・レコーダやらブルートゥース・マウスやらを注文し、新会社の名刺や挨拶状の文面を考える。日曜から月曜にかけてはそんなこんなで慌ただしく過ごしていたが、彼の身体の異変のほうはずっと慌ただしかったらしい。

 土曜に排尿があって安心したものの日曜にはまったく排泄がなく腹部が膨張し、月曜の朝には救急車で病院へ搬送。尿道カテーテルの施術を受けて帰ってきたという。
 メイルの返事がないのでおかしいとは思っていたのだが、夜になってようやくことの次第を知った。それでも、本人から挨拶状の文案修正のメイルが届き、術後の身体を「おお、サイバー」などと表する文章に安心することができた。

 七夕の水曜。降りそうで降らない蒸し暑い梅雨空が続いていたが、少し涼しい雨が降る。サーバの移設ついでにコンテンツの文字コードも変更し、文字化けとの闘い。夜にはようやく解決。サイトの主にもサーバ復旧の旨を知らせるが返事はなし。そのかわり、22:08に架電。
「いよいよダメみたいだ。おれもうすぐ死ぬから」
 息が荒い。一瞬、自殺でもしようとしているのかと思ったが、どうやら病院にいるようだ。
 どうしたというのだ、すぐに行くから、と返すのが精一杯。
「おまえと友達でよかった。あとのことは頼む。京子のことよろしく。あまり電池がないんだ。ほかにも電話しなくちゃならないから、切るよ。じゃあな」

 携帯電話を見ると1分おきに3度電話があったようだった。別室にいたため気づかなかったが、さぞいらいらしたことだろう。
 京子さんに連絡して状況をきこうとするが、どうもそれどころではないようで、23時半には家に戻ってるからそのころに来て欲しいとだけ言われる。なにがあったというのだ。仔細はわからないが、危篤であることだけは確かだった。
 自分自身もそうとうにうろが来ていたらしく、激しい動悸と手の震えを覚えながら、とにかく向かおうとぼんやり電車の乗り継ぎ時刻を検索する。
 誰かほかに彼の危篤を知らせ、死の前に会わせるべき人物はいないか。新会社のロゴから挨拶状、名刺などデザイン全般もお願いしているデザイナーのIさんが彼の家と同じ沿線上にいることを思いだし、電話する。ほんとうは危篤の彼にひとりで対面するのがいやだったからだと思う。情けない。慌てていたため、2回も自分宛に電話をする。
 平沢さんへ連絡し、状況が分かったら再び連絡することにする。
 原さんも詳しい状況は知らないようで、どう動きましょうかと言う。危篤という認識ではなかったのかもしれない。とにかく向かいましょうと言って電話を切る。
 シャンパンで会社設立を祝ってからたった4日じゃないか。この急変はなんなのだ。確かに癌は病状が安定しているようでも急激に悪化することがあるとは聞いてはいたが。

 最寄り駅でIさんと待ち合わせし、傘をさしながら今宅へと向かう。
 催涙雨。
 Iさんには病気のことを知らせてなかったので、道々話す。
 23時半過ぎに着くともう灯りがともっていた。いつものように京子さんが迎え入れてくれるが、もちろん笑顔はない。
 ベッドに横たわった彼は荒い息で鼻腔カニューレから酸素吸入を受けていたが、意識はある。危篤とはいえ一刻を争うような状況には見えない。
 肺炎を起こし、胸水が溜まり、酸素濃度が低下、意識が混濁して再び救急車で病院へ搬送。今日明日がヤマで、医師には病室から出るなんて論外と言われたが、家で死ぬために無理に無理を重ねて押し通しようやく帰ってきたのだという。京子さんは、不測の事態が起こっても病院に責任を問わないという承諾書を書き、酸素吸入装置や搬送車の手配をしてと彼のために動いた。思うことは「我が家が一番」。
「もうダメだよ」という彼に「病状なんて一進一退するもの。これは最初の峠だし、これからなんども峠を越えなくちゃならないかもしれない。そう簡単には死なないよ」などと通り一遍の励ましをするしかない。
 しかし、こうした時でも「こんなものをぶら下げるようになっちゃったよ」と蓄尿袋(閉鎖式導尿バッグ)を指したりする。こちらはこちらでコンヤガヤマダというギャグを思い出したりする。そういえば、あとになってからは「腹水、盆に還らず」なんて言いあったりもした。

 この夜、平沢さんは「行かない」と心に決めた。今さんは絶対にいま死んだりしないし、みんなが集まって来たりしたら、ああ自分は死ぬんだなって思っちゃうでしょ。だから高橋さんも落ち着いて、と。
 ずっと起きてるからという平沢さんには2時過ぎまで何度も連絡を入れた。わたしの話し方が落ち着いてきたので、彼の容態も落ち着いてきたのだなと思ったそうだ。最初は相当に動揺していたらしい。

 峠を越す間、彼がベッドでぐったりしていたかというと実は違う。疼痛感で身の置きどころがないのか、横になる向きを変えたがり、さらには立ちたがったり、座りたがったり。安静にせずやたらに動きたがる彼に周りは困惑した。すでにひとりでは立てなくなっていたが、両側から支えてあげればなんとか数歩は歩くことが可能だったのだ。京子さん、原さん、Iさん、わたしは彼の希望を叶えるべく立ち回る。
 明け方に4時ころになってようやく彼は眠り、われわれは初電で帰った。後日わかったことだが、この夜のことを彼はほとんど覚えていない。処方が始まったばかりでまだ適量がわからない痲薬系の鎮痛剤を服用しすぎたようだった。
  Iさんは「なんだかデザインやりにくくなっちゃったなあ」といつもの調子で屈託なく言う。いや、屈託はあったのだろうが、早く仕上げなくちゃいけない、いいものを作らなくちゃいけないというプレッシャーだろう。

07.

 翌日。当初は12日に予定していた公証人のもとでの遺言状への捺印が前倒しで行われることになった。自分はきょうあすにも死ぬはずだが、これを終わらせねば死んでも死にきれないという彼の意志によるものである。
 運悪く朝から2本も打ち合わせが入っていたため15時半くらいに今家へ行くと、もう平沢さんが来ていた。昨日は「今さんが元気になるまでは行きませんよ」と言っていたのが、朝になってやはり会うことにしたとのこと。
 彼が死ぬかもしれないという不安に駆られて来たわけではない。周囲までもが死を受け入れた「よくない雰囲気」が形成されているのではないか、そうならばその空気を変えなくてはならぬ、という強い思いで来たのだ。

 昼ころにはもう着いていて、ずっと手足をさすっては、元気づけていたという。昨日に比べれば息が安定してきたが、まだまだ相当にしんどそうである。
 平沢進は以後もなんどか今家を訪れたが、いつも見舞いといった表現は使わず決まって「応援」という表現をしていた。平沢進というひとは、今敏が尊敬してやまない存在であるというだけではなく、彼の音楽同様に、その場の位相をずらしてしまうような不思議な力を持っている。簡単に言えばへんなひとなのである。

 彼が平沢進の音楽を聴き始めたのは2ndソロ・アルバムからで、90年代に入ってのことだ。高校時代や大学時代にはわたしが平沢進の音楽(P-MODEL)を聴いていても興味を示さなかったというのに、バンドからソロになって音楽性が広がったこともあろうが、つくづく出会いというのはタイミングが大切なものだと思う。気がつけば、わたしなんかよりずっと深いところで平沢音楽を理解し、彼に音楽の依頼をする関係になってしまった。
 そういえば、わたしが平沢進に今敏を紹介したことが縁でサウンド・トラックを担当するようになったと思われている節があるけれども、そうではない。確かに初めて2人が会ったのは、わたしの取材に彼が同行した場ではあるが、その縁がのちにつながることはなかった。平沢好きのアニメーション監督がいるらしいと嗅ぎつけた平沢スタッフが映像編集の依頼をしたのがきかっけで、彼のほうから平沢進に映画音楽を依頼することになっていったのである。

 16時過ぎ。公証人一行が到着。相手が病人であることなど頓着なく長々しい説明をし、事務的に遺言状を隅から隅まで読み上げ、流れ作業で捺印。本人はもういいからさっさと判を押させてくれと悲鳴を上げそうだった。公証人はわざわざ家まで来てやったと言わんばかりの居丈高な態度であったが、なぜか原さんの名前だけを常に読み間違えるので、終いに原さんは自分から名乗っていた。
 彼は責を果たしたかのように安堵の表情さえ浮かべていたが、平沢さんはなぜこんな状態でこんなことをするのかと納得がいかない。

 続いて医師と看護師が来宅。搬送先の総合病院の医師ではなく、彼が通院しているペイン・クリニックの緩和ケア専門医である。在宅医療を続けるにあたり、最大の課題は「主治医がいない」ということだったのだが、ケア・マネージャの尽力の甲斐あって、この日、主治医になることを承諾してくれたのだった。
 ひととおりの診察を受けたあと、彼は医師と折り入って話がしたいのでと、京子さんだけ残し人払いをした。
 あとで聞いた話では、主治医となった医師に、自分がどのくらい生きられるのか正直なところを聞かせて欲しい、といったことを問うていたらしい。この状態が数か月で終わるなら自宅療養でも経済的にも看護する周囲の体力的にももつだろうが、長引くのであれば別な方法を考えねばならぬ、と。

 2階へ上がって話が終わるのを待っている間、平沢さんは「この空気はよくないですよ、なんでみんな死ぬ準備ばかりしてるの」と苛立ちを隠せなかった。もっとしなければならないこと、してあげたいことがあるんだという切実な顔だった。
 医師の帰ったあと、彼の手を取った平沢さんは「今さん、頑張りましょう」と言い、弱った声で彼は「頑張ります」と力なくも握り返した。
 彼が危篤状態を乗り越えられたのは、一日付き添って彼の痲痺した脚をマッサージし、つきっきりで「応援」した平沢さんのおかげだと、いまでもわたしは思っている。医者は抗生物質が効いたと言うだろう。しかし、寝たきりの義父がなんども肺炎で入院してシリアスな治療を受けたのを知っている身としては、抗生物質を投与しただけで肺炎が簡単に治るとは思えないのだ。

 この夜、twitterのタイムラインを見ていたわたしは、昼間に会うはずだった編集者が2日前に死んでいたことを知った。この日の夕方、遺体で発見されたのだ。なにも知らない学生時代からいろんなことを教えてくれた大切な存在で、四半世紀のつきあいだった。
 病床の彼に死の匂いは伝わってしまっただろうか。

Persona
Kon's collection 01 - Persona (Korean)

電子書籍と呼ばれない

電子書籍と呼ばれて」と書いたもののさっぱり電子書籍とは呼ばれない『改訂復刻DIGITAL版 音楽産業廃棄物』が10月16日に発売された。

通販がメインなのでダウンロード開始とか発送開始というのが正しいところだろうか。
パッケージ版は製版データ入りという衝撃の仕様なのだが、出版業界人でなければさほど衝撃は受けないと思われる。
いや出版業界人でもそんなに驚くことじゃないか、ほかに例がないってだけで。
これは電子書籍というものへの皮肉という意味合いもあったのだけど、ま、いい。

当初、DIGITAL版はダウンロード販売だけのつもりだったのだが、Shop Mecano 店主の中野さんが強く推奨するので、予約が500以上集まったらパッケージ版も作ることにした。
だってほら、パッケージもんって作るのも売るのもめんどくさいじゃん。
そうしたら、予約が500も集まっちゃったから大変。
予約開始前からコンテンツはほとんどできあがっていたので、中身に関してはよかったのだけど、問題は外側である。
より正確に言うならば外側をデザインするひとである。

もともとはパッケージ版を出すとしても、ブロードバンドが一般化する以前のLinuxみたいにダウンロードできないひとへの救援策くらいに思っていたので、単にDVD-Rに焼いただけのバルクDVDでいいんじゃないかと考えていたのだが、せっかくだからP-MODEL30周年/平沢進20周年の記念品的な意味合いも持たせて、手にして嬉しいものにしようじゃないかという考えにシフト。
そこで、おなじみイナガキキヨシ巨匠にお願いしたのであるが、クライアント泣かせで有名なのである、いろんな意味で。

メイルのログによると依頼をしたのは7月24日。
超意外なことに8月6日には第1案があがってきている。
それが、コレ。

カッコいいと思う。
思うが、うーん、店頭販売だけだったらまだしも、どうやって発送すんの?
袋に入れて、折れたり割れたりしないように箱に入れて……あ、それだとデザインのコンセプトとズレる?
そんなやりとりをしていろいろ検討したけれども、見積もりの結果、穴開け文字の「型代」だけで40万円くらいするとかで、価格が500円ほど上がってしまいそうなため、あっさり挫折。
せっかく「どこでもCDクリップ」みたいなのまで探してもらったんだけどね。

途中、USBメモリ案なども浮上するもやはりコストで断念。
ピザ・ケース案を経て8月23日に出てきたのがコレ。

う〜ん。
店頭でコレが並んでたら確かにオカシイ。
某監督も画像を見て軽く笑った。
でも、買ったひと、どう思うだろ。
パッケージを開けたあと、どうやって保管するのよ、発送の時にどうやって梱包するのよ。
などなど難点が多かったものの、とりあえずと見積もり依頼を出したところ、CDが入る大きさの食品トレイの手配がつかず、型から作るとコスト高になるというのでまたしても玉砕。
同時提出された通常のDVDケースを使用する案へと方向性は固まったのであった。

DVDのスリーブ(外箱)デザインにはこういうアイディアもあって迷ったのであるが、現行のものに決定。
このデザインだと版を重ねるごとにどんどん写真が入れ子になっていっておかしかったのだけど。
でもって、デザイン案があがってから実際に入稿データができるまで1か月を要したところが巨匠が巨匠たる所以であり、まったく気が抜けない。
最終ヴァージョンはコレ。

実はこのデザイン、質感を出すため、いったん出力したものをさらに撮影し、それを印刷用データにしたそうである。
裏には「ヘソ」も残っている。
さらに梱包用段ボール箱も作った。

限定1000枚で作ったパッケージ版は結果として、すでに700枚以上売れ、Mecano納品分も加えると800枚は捌けている。
対してダウンロード版は30程度。
ダウンロード版完敗。
これも中野店長の読み通りである。
中野店長にも完敗。
ここらへん真面目に分析すると面白そうなネタではある、しないけど。

そして、パッケージ版が好評なのは2か月を費やした装幀のおかげでもある。
パッケージ商品が減っていくご時世だからこそ、パッケージとしてのありがたみがないとパッケージで出す意味はない。
そういう当たり前のことを改めて感じた次第である。