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ひとりで死ぬんがベスト? 倦怠期(あっこりんりん&野村尚平)試論

倦怠期
1st DEMO

倦怠期1stDEMO

01: わたしを煮て焼いて食って
02: しぬんやめよ
03: あくむみるいぬ
04: 遅刻
05: ほっといてトイレットorシガレット
06: 季節のおばんざい野村
07: いちいち
08: だれが令和のシドアンドナンシー
09: どっちが先に死ぬんがベスト
10: ドントコールミーオノヨーコエニモアファック

おとぼけビ〜バ〜のニュー・アルバムはまだだが、倦怠期の10曲入り『1st DEMO』が届いた。
倦怠期というのは、あっこりんりんと野村尚平の「夫婦」ユニットとされている。
実際に夫婦かどうかは知らないが、パートナーであるらしい。
(プライヴェートに関する情報は持ち合わせていない)
『1st DEMO』はライヴ会場(たぶん2026年1/24のO-EASTから)で販売されていたもので、通販用はシリアル番号201-300とある。
5/17現在は完売で購入不可のため、まだ世に300枚しか存在しないらしい。
kentaiki.base.shop/

倦怠期 (KENTAIKI) are
Vocal: あっこりんりん
Bass: 野村尚平
Beat Track: 西田竜大

Track 1.2.3.4.5. 7.9.10
作詞: あっこりんりん
作曲: 倦怠期

Track 6.8
作詞: あっこりんりん、野村尚平
作曲: 倦怠期

Recording & Mlx & Mastering:
須田一平(四ツ橋 LM Studio)

Photo : Mayumi Hirata

Art Director: 野村尚平

とりあえず1周。
最高。
力技で最後まで押し切るかと思いきや、ちゃんと「抜き」もある。
こうしたデュオ・スタイルのパンク/ニュー・ウェイヴというとどうしてもスーサイドを想起してしまうが、相通じるカッコよさ。
西田竜大が打ち込んだトラックに野村尚平の割れ気味の生ベースがびりびりとからむ。

しかし、聴くのがキツいアルバムである。
もちろん出来が悪いという意味ではなく、剥き身の音楽なのだ。
おとぼけビ〜バ〜の作品がよそ様に食べさせるよう調理され包装された作品だとすれば、生身の(レアな)あっこりんりんが迫ってくるようで恐い。
聴く回数を重ねてだいぶ慣れたが、そんなパーソナルでプライヴェートな作品だ。

ただ、単純とか単刀直入とかということでもなく、歌詞は技巧的ですらある。
「しぬんやめよ」なんかはザ・スターリンの「泥棒」のように、視点や視線、見る語る立場が多層的かつ多角的に変化する。

「わたしを煮て焼いて食って」では「邂逅」「凝視」なんて聞き取りづらい漢語も敢えて使って、聴き手に向けて真正面から対峙する。
「オチ」が素晴らしい。
リスナーという「お客さま」をも容赦しないのはパンクの伝統。
「ジジイ is Waiting For My Reaction」もそうかもしれんけど。

「おとぼけビ〜バ〜の裏側」とでも言うべき、対リスナー・ソングがいくつもある。
「あくむみるいぬ」では海外のビッグ・ネームとの共演についての巷の評判。
「だれが令和のシドアンドナンシー」ではSNSでの夫婦についての「茶化し」について。
「遅刻」もSNSの「地獄」について。
「ドントコールミーオノヨーコエニモアファック」では男をコントロールする女として見られることについて。

しかし、笑いを忘れないとこが偉い。

「おまえに関係ないやん ネットに住んでんと家でろアホンダラ」と凄むあっこりんりんに対して「SNSのアホ相手すな!」と野村のツッコミ。
「ダダダダダーリン」「ハハハハハニー」という掛け合いは「見せつけてやる」ムード満載でアルバム中もっとも和む。
(だれが令和のシドアンドナンシー)

マイネームイズアキコノットヨーコ
ヨーコイズマイシスターネーム
(ドントコールミーオノヨーコエニモアファック)

お経のように読み上げられ、これだけで笑う。
笑わん?
あっこりんりんの姉か妹がほんとにヨーコか知らんけど。

「遅刻」はアルバム中もっとも「楽しく」聴ける曲(「ハクション大魔王」を想起)だが、詞は切羽詰まってる。
だがここでも笑いを忘れない。

SNSやめたほうがいいですよ
おまえがやめたらええやんけ
(遅刻)

にしても、自分のタイムラインには、おとぼけビ〜バ〜やあっこりんりんについての誹謗中傷嫌味嘲笑の類は流れてこなくて平和なのだが、そんなに悪辣なのだろうか。
おかげでプライヴェートにまつわる話も流れてこないわけだが。
他人事ですんません。

「ほっといてトイレットorシガレット」「季節のおばんざい野村」は聴いてるほうが赤面しそうな夫婦漫才ではあるが「いちいち」は恐い。
「おまえら」と「おまえ」なのだ。
リスナーと対峙するのと同時に、あっこりんりんが野村尚平と対峙することによって、そして、あっこりんりんが野村尚平と「共闘」することによって生まれたアルバムなのだとわかる。

その「いちいち」から地続きになったような「どっちが先に死ぬんがベスト」が私的ベスト。
すごいラヴ・ソング。
「どっちが先に死ぬんがベスト?」という問いかけに「心中」という安易な解が出てこないとこが素晴らしい。
そういえば『死ぬ時は別』というWha-ha-haのアルバムがあったが、元ネタがあるのだろうか。
ということはさておき。

見送りたい?見送られたい?
見送りたないし見送られたない
どっちが先に死ぬんがベスト?

一生一緒にいるのがベスト
でもどっちか先に死ぬのがマスト

(どっちが先に死ぬんがベスト)

同じ歌詞の繰り返しだが、重ねるにつれ、どんどんこちらへ迫ってくる。
ブレイク後にテンポ・アップするとこが実にカッコいい。
遠くで歌っていたあっこりんりんが気がつくと眼前で歌っている。
恐い、けど、目を逸らせない。

生き残った者は死んだ者の生を背負って生きていくわけです。

1月は逃したので、ぜひ次のライヴは観たい。

倦怠期
通販おまけの「年賀状」

ことぶき光というAIが生成したポップ・ミュージック

ことぶき光
ポップミュージック

IRQ inc.
2026年4月28日発売
IRQC-1987

01 : バナナスライド
02 : ポプリ
03 : リッチー
04 : シナモンポスツ
05 : あでで
06 : 舞いココア
07 : 無人
08 : ゼリージェリーグライド
09 : テラピン
10 : ヨーグルトヨンダー
kotobukihikaru.com/kotobuki-hikaru-pop-music/

生成AIが一般化しはじめた2年ほど前。
(ChatGPTの公開は2022年11月なので、それしか経っていないのだ)
SNSは主に笑いの対象として「生成に失敗した絵」で溢れた。
腕が脇から生えていたり、首が2本あったり、というあれだ。
ミクロ的には精細な描写でありながら、マクロ的には不自然どころか、意図的でなければ人間が描かないような「大きな間違い」を偶発的に含んだ絵が「さすがAI」として取り上げられた。
それは一時期の現象で、いまではもうあまり目にすることはない。
いまは精巧に悪意を織り込んだような質(たち)の悪い「フェイク」が溢れている。

ここ数年のことぶき光の(表立っての)活動は異様に活発である。
2024年にプノンペンモデルが再始動して(と、端からは見えた)台湾や国内でライヴを行い、翌年にかけてのリリース・ラッシュ。

●CD
プノンペンモデル『Vast Empty Pulse』2025年4月30日リリース
ことぶき光『mosaic via post 〈2011 Remastered Version〉』2025年5月23日リリース
プノンペンモデル『金邊模型1994-2024』2025年6月20日リリース

●本
『モデムとエンジンと、夜の千キロ』2025年7月11日リリース
『ポップミュージックの方法』2025年8月28日リリース

さらには YouTube にて「ロジックの王道」や動画版「ポップミュージックの方法」を公開するなど、目まぐるしい。
そして、24年ぶりのソロ・アルバム『ポップミュージック』のリリース。
音楽理論書『ポップミュージックの方法』(*1)の実践篇と田中雄二は位置づけていたが、流れからいってそうなのだろう。
申し訳ないがわたしは未読(断片的に読んだが理解できなかった)。
海外ツアー記は楽しく読んだけど。

ジャケットの画像やPVは『Vast Empty Pulse』『金邊模型1994-2024』同様、ことぶき光が生成AIを利用して作成したもの。
ことぶき光と生成AIの親和性というのはさもありなんで、生成AI登場前から、ことぶき光は自分の脳内で生成AIを使っていたのである。
というより、ことぶき光自身が生成AIだったのだ。
生身の人間でありながら、人工知能のように思考する。
人工知能のように情報を扱うことが可能な人間と言ったほうがよいか。

アルバム『ポップミュージック』を聴いた第1印象は「考えすぎじゃないか?」というものだったが、むしろ敢えて人間のようには考えなかったのかもしれない。
ことぶき光という生成AIに古今東西の音楽理論の情報を取り込ませ出力させた結果だ。
ポップ・ミュージックというものを理論通りに、情報通りに精緻に組み上げていった結果できあがった「失敗した生成AI画のような」異形のポップ・ミュージック。
部分的にはおかしくないが、全体としては奇妙で人間の生理を逆撫でする音楽。
J-POPすら取り込みながらもそのメイン・ターゲットたちは残念ながら寄せつけない。
世にあふれる生成AIで作成した音楽とは次元が異なる。
このアルバム自体も生成AIを利用してはいるのだろうが、結果としてできあがったものは、ことぶき光そのものである。

*1 大学講師をやっていた時のレジュメと思われるPDFが自サイトで公開されている。大著『ポップミュージックの方法』はその集大成らしい。
kotobukihikaru.com/method/

メディアとしてのロックン・ロール

恥ずかしげもなく言うならば、10代においてもっとも影響を受けた人物は渋谷陽一で間違いないだろう。

中学に入ってから買うレコード買うレコード、ライナーノーツを書いているのは渋谷陽一というひとで、FMラジオのロック番組を聴こうとスウィッチをひねれば渋谷陽一というひとがしゃべってる。
さらには姉が「あんたが聴いてる番組のDJがやってる雑誌だよ」と言って隔月刊だった『ロッキング・オン』(以下RO)を買ってくる。
岩谷宏、橘川幸夫、松村雄策、それぞれに多大な影響を受けたし、橘川幸夫には公私にわたって世話になったけれども、中学生だったぼくにいちばん影響を与えたのはやはり渋谷陽一だろう。
そもそも編集者だのライターだのという職種を知ったのも渋谷陽一のおかげである。中学生で渋谷陽一に出会わなければ、ROと出会わなければ、いまこういう仕事をしていなかったろうし、ミニコミを作って道を踏み外すようなこともなかっただろう。

影響を受けたのは文章や思想だけではない。たまにひと前で話す仕事をしているが、しゃべり方のベースになっているのは渋谷陽一のFM番組である。あのスタイルを踏襲すると話しやすいし、原稿がなくてもある程度は話せてしまう。人間のベースになってしまっているのだからしょうがない。

RO増刊として刊行された渋谷陽一初の単行本のタイトルは『メディアとしてのロックン・ロール』という。
「メディアとしてのロックン・ロール」それは渋谷陽一に限らず、岩谷宏、橘川幸夫、松村雄策にも共通したテーマであり、4人それぞれがスタイルは違えど、コミュニケイションとはなにか、メディアとはなにかを語っていた。
ROは、より多くの他者と直截的で深いコミュニケイションを取るためのメディア、それがロックなのだという理念のもとに作られた雑誌と言っていい。
ただ「より多くの」という部分にもっとも重きを置いていたのが渋谷陽一であり、80年代以降のROと渋谷陽一はそれに向かって突き進むことになる。

渋谷陽一のすごさは、編集者、文章書き、ラジオの語り手、番組やイベントのプロデューサーといった仕事で成功したばかりでなく、経営者(本人はそれを肩書きにしていた)として有能だったこと。その点において渋谷陽一は「より多くの他者」を求めることに成功したと言える。

ぼくは渋谷陽一のいろんな面を真似してきたけれども、まったく真似できなかったのがその点である。
自分には経営能力が微塵もないどころかマイナスの能力しかないと思っているので、どんどん巨大化していくRO社にはZEPのような力強さを感じたし、憧れもした。しかし、90年代に入ってしばらくしてROは読まなくなったし、渋谷陽一のラジオ番組も聴かなくなってしまった。

ROジャパンが創刊されて数年経ってからだろうか。象徴的に言うならば「尾崎豊を推す渋谷陽一」には信用を置けなくなってしまった。ビーイング同様に、ビジネスとしての尾崎豊を評価するならわかるが、家で尾崎豊を聴く渋谷陽一はまったく想像できなかった。それはないだろう。
Theピーズのデビュー大特集あたりまでは読んでいたのだけど、どんどん興味が薄れていった。

渋谷陽一とは1度だけ話したことがある。RO入社試験の最終面接である。
開口一番「いやー、あんまり文章(課題作文)がうまいんでびっくりしちゃったんだよネ」
「あー、ずっと読者だったんだ。では、その責任を取れというわけ」
これは合格間違いなしと、調子に乗ってしゃべったら落ちた。
あの時「営業ですか? いくらでもやります!!」と言えたなら、通っていたかもしれないし、いまとはまた違った人生を送っていただろう。
ただ「サウンドストリート」で知ったP-MODELの単行本を作るという分岐は閉ざされていただろう。

思い出話をするのは簡単だし、いくらでも出てくるが、それではなんのための渋谷陽一であったか。なんのためのROであったか。
では、彼が与えてくれて、今も残っているもの、引き継いでいくべきものとはなんだろう。

陳腐で皮肉めいているようだけれども、嘘や欺瞞に敏感であること。
ぼくの知る渋谷陽一は、いつも冷ややかに怒っていた。
あの冷たい炎は、死を前にしてもなお燃えていただろうか。

90年代に雑誌からもラジオからも離れてしまい「ロック・イン・ジャパン・フェスティバル」も1度も観ていない。
そう、強い影響を受けたといっても、いま思えば12歳からの15年くらいでしかない。

だが、2021年にパンデミックで2度めの中止になった際、やはり渋谷陽一は怒っていた。
開催1か月前に地元医師会から急な「中止要請」である。
そこには「マイ箸」を持ち歩く欺瞞に怒る渋谷陽一が変わらずにいた。

もの書きでも編集でもビジネスでも、まったく渋谷陽一から学んだことを受け継ぐことはできなかったけれども、そうした渋谷用語で言うところの「初期衝動としての怒り」を忘れずにいること。規模は極小であっても、それが唯一、継承できることではないか。

いろいろと踏み外してきたけれども、面白おかしい人生(なのか!?)を送れたのも渋谷陽一のおかげかといまでは感謝している。

高橋かしこ

インタラクティヴ・ライヴ「ZCON」の情報的感動

ZCON

インタラクティヴ・ライヴ「ZCON」終了から1週間後の備忘録。
情報過多のライヴであったので、むしろ情報を遮断して記憶に残ったエッセンスのみ書き留めておく。
アーカイヴも観ていないので、すべては個人的な記憶世界のできごとである。

抑圧者(アヨカヨ)による被抑圧者(アンバニ)搾取の歴史と偽史の創造。
抑圧者滅亡後も残った外在的抑圧機構(ZCON)と内在的抑圧機構(ZCONITE)により被抑圧者は奴隷道徳から脱することができない。
それにより被抑圧者の人格は分裂し、このままでは残された被抑圧者(の世界)も滅んでしまう。
別のタイムラインにパラレルに存在する平沢進(改訂評議会長)と、過去のタイムラインに存在する平沢進(nGIAP)が世界救済へ向かう。

というのが前提となる物語の骨子。

しかしながら、平沢自身も認めるように、物語描写における情報整理が下手である。
ただでさえ隠喩に満ちた物語描写を好むうえに「語りすぎ」なのである。
音楽においてはあれほどに情報整理に長けているのに、映像においては「すべてを観せたがる」とは今 敏の名言。

情報の奔流によって、正直なところ、第1公演はライヴを楽しむどころではなかった。
「ZCON」では文字情報による説明からトーク映像(動画)による説明に変わったのだが、これはインタラクティヴ・ライヴ史におけるひとつのエポックである。
舞台前の紗幕に映像を投映するスタイルから舞台後方のモニタ映像に変更された「ノモノスとイミューム」もひとつのエポックだったが、インタラクティヴのスタイルは常に更新される。
ただ、しゃべり映像が長く、前半は楽曲を聴いてるより話を聴いてるようなコンサートになってしまった。
MCの長いフォーク・シンガーを笑えない。
どうせ動画に字幕を入れるくらいなら、従来通り演奏中に文字情報を流してもよかったのではないか。
あ、でも、それでは背景となるCG制作が大変!!
「ノモノスとイミューム」から実写が増えた理由もそうした点にあるのだろう。

※このあたり『音のみぞ』2号のインタラクティヴ特集(大和久勝インタヴューとジフさんの解説)はたいへんよいサブテキストになると思うのだが、残念ながら完売だ。

「ノモノスとイミューム」から「スター・システム」を採用したが、こんどの「ZCON」もでまたAstro-Ho!やΣ-12といったキャラクタが登場し、オールスター・キャストで贈る総集篇めいている。
nGIAPと改訂評議会長という(いつもの)2役の平沢に加え、シトリン(オリモマサミ)とルビイ(ナカム ラルビイ)という新キャラクタ。
さらには舞台上の天候技師(ストリングスあてぶり要員)としての会人2名登場はほんとうに必要だったでしょうか。
ただでさえ情報過多であるのだから、基本的に舞台上は平沢進ひとりでシンプルにしてもよかったのではないか。
会人には通常のライヴでもっとバンド的に演奏していただきたいのである。

すべてが過剰で押し寄せる情報の洪水。

特に第1公演はまだ情報が頭に入ってないので、中盤の「幽霊列車」からようやく楽曲と映像のカタルシス(カサンドラ・クロス!!)を得られるようになった。
第1公演は結果的に物語展開としても俗に言う「(超)バッド・エンディング」であんまりである。
「インタラクティヴ・ライヴ初演はゲネプロ」の法則はまだ活きているのか。
もちろん、全観客が全公演を観るわけではないし、どのエンディングであっても別の世界観を提示して終わるというのがインタラクティヴ・ライヴではある。
いわゆるグッド・エンディングが必ずしも目標なのではない、と平沢進も言っている。

とはいえ在宅・会場のオーディエンスが「正解」を求めて3公演を試行錯誤していくという盛り上がりは「点呼する惑星」以来だったのではないか。
「ノモノスとイミューム」からは在宅オーディエンスの物語進行への干渉度合いがぐっと低くなったけれども、その意味では「点呼する惑星」あたりの手法に回帰したと言えるかもしれない。
トゥジャリットという言葉を思い出すのに3曲分を費やすほどにはヤキが回ってはいるが、そのあたりの記憶がうっすら蘇ってくる。
1回か2回でいいかと思ったけど、3回観ることで得られるオーディエンス側の達成感というのも、やはりある。
裏方としては体験していたけれども、客席側でのこの体験は初めてだ。

在宅オーディエンス(天候技師)の作業は単純でかつてのように難問奇問を解いていくわけではなく、作業場用(進行確認用)のライヴ映像もなくなったようだが、会場で観るぶんには在宅オーディエンスの作業結果はスリリングで、歓声をもって迎えられた。
「ZCON」で「在宅オーディエンス一覧スクロール」はなくなってしまったけれども、もしあったならどんだけ長かったろう。
あれ、けっこう感動するんだよね。

一方、会場での分岐選択の難易度は高かったのではないか。
「歴史書の書き換え」は、必ずしも平沢進的世界観に合いそうな文章を選べばよいというわけでなく、ある分岐では不正解だったものが別の分岐では正解になる。
「わたしの言うことに従え」という意味ではない、と平沢進が言っているようである。
第2公演までは、世界の真実を知るオレ様が「オマエ」の呪縛を解いてやるという上から目線の物語と思われたが、第3公演で実は同一人物内のできごとだったように物語は展開する。
捏造された歴史からの解放、というのも、実は自己解放のことと解釈可能である。

ライヴのキイ・ヴィジュアルが公開された時に、なんでああいうプリミティヴなイメージなんだろと思っていたのだけど、小屋はZCON格納庫で、ふたりのキャラは「保護者」と知る。
第3公演のクライマックスでは、悪役たる「保護者」は超自我(もしくは太母や原両親)であると示唆された。
アフリカっぽいプリミティヴな仮面を被った「保護者」はぜんぜん抑圧者らしくないじゃないかと思っていたのだが、あれが内面的な人格統合の話だとするならば、おさまりはよい。
nGIAPのアニマたるシトリンとルビイの統合と「親殺し(母殺し・父殺し)」による「全き人格」の回復。
人格回復がトリガーとなり、自然と呼応する失われた音楽も復活する。

歴史の修復
人格の回復
音楽の復権

このみっつがセットになった物語であったわけだ。
この「英雄」的冒険を成し遂げたのは舞台上の平沢進なのだろうか。
あー複雑。

しかしながら、このインタラクティヴ・ライヴが特殊であったのは、音楽的感動でも映像的感動でもなく「情報的感動」であったころである。
確かに「還弦アート・ブラインド(Lonia)」「還弦LEAK」は盛り上がったし、福間創追悼の「還弦ASHURA CLOCK」がクライマックスのキイに使われたのは感動した。
確かにナカム ラルビイのサックスは鳴り響き、オリモマサミのコーラスは会場を包んだ。
けれども、音楽的感動という肉体的カタルシスではない。
少なくともわたしにとってはそうではなかった。
そこにその曲が配置されたという「情報的感動」なのだ。
過剰な情報が押し寄せることによる感動。
もちろん音楽も映像もそれ自体が情報には違いないのだが、文字情報や音声情報といった通常のコンサートではありえない量の情報を浴び、ストーリ解釈や分岐の選択といった思考を迫られることによる感動なのである。
純音楽的には邪道とも言える、音楽以外の情報を体験することにより脳内で構成される感動だ。
しかし、そんなものを構築して提供する人間はほかにいないではないか。

実を言うといろんな意味で「これが最後かもしれない」と思って3公演に足を運んだのである。
終わってみるといろんな意味で「これが最後ではないかもしれない」となった。

2022年4月3日(4月4日追記) 高橋かしこ

 

以下は自分向け資料。

 

2022/03/25
東京ガーデンシアター
INTERACTIVE LIVE SHOW 2022
ZCON(ジーコン)
ゲスト: オリモマサミ、ナカムラ ルビイ、会人SSHO, 会人TAZZ
●演奏曲目
01: COLD SONG
02: TRAVELATOR
03: LANDING
HOT POINT
04: 消えるTOPIA
05: クオリア塔(LG-G ver?)
HOT POINT
06: 燃える花の隊列
07: 転倒する男
08: 幽霊列車
HOT POINT
09: 論理的同人の認知的別世界
10: BEACON(中断)
11: TIMELINEの終わり
12: ASHURA CLOCK(還弦ver.)
13: BEACON
14: 記憶のBEACON

2022/03/26 (DAY)
東京ガーデンシアター
INTERACTIVE LIVE SHOW 2022
ZCON(ジーコン)
ゲスト: オリモマサミ、ナカムラ ルビイ、会人SSHO, 会人TAZZ
●演奏曲目
01: COLD SONG
02: TRAVELATOR
03: LANDING
HOT POINT
04: 燃える花の隊列
05: 転倒する男
HOT POINT
06: アート・ブラインド(還弦ver.)
07: 消えるTOPIA
08: 幽霊列車
HOT POINT
09: 論理的同人の認知的別世界
10: BEACON(中断)
11: TIMELINEの終わり
12: ASHURA CLOCK(還弦ver.)
13: BEACON
14: 記憶のBEACON

2022/03/26 (NIGHT)
東京ガーデンシアター
INTERACTIVE LIVE SHOW 2022
ZCON(ジーコン)
ゲスト: オリモマサミ、ナカムラ ルビイ、会人SSHO, 会人TAZZ
●演奏曲目
01: COLD SONG
02: TRAVELATOR
03: LANDING
HOT POINT
04: 燃える花の隊列
05: 転倒する男
HOT POINT
06: 消えるTOPIA
07: 幽霊列車
08: LEAK(還弦ver.)
HOT POINT
09: 論理的同人の認知的別世界
10: BEACON(中断)
11: TIMELINEの終わり
12: ASHURA CLOCK(還弦ver.)
13: BEACON
14: 記憶のBEACON

参考サイト:
平沢進公式サイト
www.susumuhirasawa.online/2022zcon
ひ組
higumi.com/

 

 

sato-kenについて覚えているいくつかのこと

6月の生井秀樹に続き、9月25日にsato-kenこと佐藤賢慈が他界した。
1949年8月13日生まれ(函館出身)享年72歳。

生井さんについては、平沢進や加藤普(久明)が語っているので、わたしがなにか言うまでもない。
sato-kenについては平沢さんほか近親者からなにもコメントがなかったので、それほど親しい関係ではなかったけれども、ここに思い出すことなどを記しておきたい。

sato-kenとの出会いは忘れもしない成田空港。
1999年1月31日、書籍『音楽産業廃棄物(初版)』平沢サイド巻頭用タイランド撮影のため、スタッフ一同集合した時である。
星条旗柄のダブっとしたよくわからないパンツを穿いて、けたたましく、とめどなく喋り続ける小太りの男がいた。
それまでの平沢スタッフにはいないタイプだし、独立後の人員配置がよくわからなかったので、同行するレコード会社プロモータHさんにきいた。
「あのひとがマネージャーですか」
実のところその時はマネージャー不在状態で、sato-kenはタイ方面に詳しいコーディネイターとして同行したのであった。

本人曰く、グルーヴァーズのタイ撮影に携わったのが縁で、万国点検隊(1994年〜)の仕込み、アルバム『Sim City』(1995年)のレコーディングやジャケット撮影のコーディネイトを行い、ワイ・ラチャタチョティック(2016年4月に他界)とともに平沢進を「タイ・ショック」に引きずり込んだ張本人、だとか。

1997年、平沢進が設立したケイオスユニオンのスタッフとなり、インタラクティヴ・ライヴ「WORLD CELL」(1998年)からコンサート・プロデューサーとして深く関わるようになった。
アルバム『賢者のプロペラ』(2000年)からインタラクティヴ・ライヴ「WORLD CELL 2015」(2015年)まではエグゼクティヴ・プロデューサーとしてクレジットされている。
※制作期間にスタッフを離れていた『ホログラムを登る男』(2015)にはクレジットされていない。

古株の平沢リスナーにとっては2000年から2008年まで公式サイトにほぼ毎日掲載されていた「賢者sato-kenのヒラサワ番日誌」でおなじみだろう。
実際、彼の書くメイルはああした顔文字と3点リーダ(中黒)だらけの意味不明の文章で、それを面白がった平沢進がWeb連載にしたわけだ。
ちなみに、2006年のサイトのリニュアル時にすべてではないが「NO ROOM」へ移設した記憶があるけれども、現在その痕跡は残っていない。

10年ほど外部スタッフとして平沢進のライヴやバンコク点検隊に関わるなかで、sato-kenとは個人的に話をする機会も多くあったが、彼のプロフィルについての記憶は断片的だ。

函館出身、大学では応援部に所属。
酒を飲まないにもかかわらず、打ち上げでもっともハイテンションの男。
なにかにつけガハハと大声で笑う。
若いころにタイ人と結婚しようとしたことがあり、彼女の住む村に水を引き、家も建てたが、逃げられた。
インプラントで歯を植えていたが、全部植える前に資金が尽きた。
クルマの運転はできないので、アーティストに運転してもらっていた。
現場ではけっこう厳しい顔になることもある。
リハーサルなどには大量にシュー・クリームを買ってくる。
しかしながら、甘いもののほか大好物のKFCなども糖尿を患っていたため医者に止められていた。
インタラクティヴ・ライヴ「LIMBO-54」では「スナイパー」役で出演。
2006年にタイ人と結婚、女児をもうける。
タイに定住し、平沢ライヴの折には「来日」するようになる。
2012年に、心筋梗塞で生死の境を彷徨うも生還。結局、死因も同じだった。

彼の来歴について詳しくは知らないが、広告関係の仕事をしてきたらしく、知り合った当時も平沢関係と並行して航空会社の販促仕事なんかをしていた。いまはなきJASの機内放送でP-MODELや平沢ソロ曲が流れたり、機内で配られたCD-ROMにTAINCO-Iが収録されたりしたのはそのせいである。

平沢進以外に、Wappa Gappa(わっぱがっぱ)というプログレッシヴ・ロック・バンドのマネージメント(プロデュース?)を行っていた時期もあり、わたしも1回(たしか渋谷クロコダイルで)ライヴを観たことがある。
sato-ken自身はプログレなんて聴いたこともなく「ヒラサワはプログレの師匠なんだよね」なんて言っていた。ずいぶんとからかわれながらも、平沢進から音楽的知識を得ていたようだ。

「Ride The Blue Limbo」について「一面金色の草原を麦わらを手にした師匠が先頭に立って行進している様が見えます」というようなコメントをして「ぜんぜん違う。まったくそういう曲じゃないから」なんて言われていたことがある。
万事がそんな調子。
平沢進とまったく共通項がないようでいて、異様に気が合う。延々とバカ話をしていたりする。

そもそもsato-kenは音楽畑の人間ではないし、音楽には疎いといっても過言ではなかった。にもかかわらず、平沢進に信頼されていたというのは、人がらの問題もあるが、仕事が「できた」のである。
ガサツで大雑把で穴だらけのようでありながら、実のところ細かいところに気がつき、神経質で、また全体も俯瞰できる。リハーサルやコンサート本番に立ち会って、それはよくわかった。
平沢進の独立時には原盤権など権利関係の整理にも尽力したと聞く。

sato-kenとは、平沢関連以外でも、彼が携わっていたプーケットのスポーツ・イヴェント「Phuket Walk & Run」のサイト制作を手伝ったりしたことがあるけれど、いい意味でもそうでない意味でも驚かされることが多々あった。
初対面でも遠慮がなく、傍若無人な態度を取るキャラクタだったので、そのアクとクセの強さに引いてしまうスタッフもいたが(わたしも最初はそうだった)慕っているスタッフや平沢ファンも多かった。
F嬢をはじめ、タイの友人たちが葬儀の写真をFacebookにアップしてくれていた。

よく「早くまたタイへおいでよ」なんて言われてたし「点検隊聖地巡礼ツアーでも開催したら団長(隊長)やってね」なんて言ってくれていた。
こうなったら、ひとりで聖地巡礼とも思うが、ワイさんもsato-kenもいないいまとなっては、あの「赤土」がどこにあったのかさえわからない。迷子になることは確実である。
でも、出入国が自由になったら、会いにいきますよ。

2021.10.18 高橋かしこ

パガン(ミャンマー)でのsato-ken(2000年) 自分で撮った写真だと思うけど、違っていたらすみません
Wappa Gappa | ディスコグラフィー | Discogs より www.discogs.com/ja/artist/1804966-Wappa- Gappa 左端はsato-kenだな、メンバーじゃない

 

 

富士山麓に平沢啼くII(備忘録)

フジロックも2回めなので取り立てて書くことはない。
などというと早くも通気取りで剣呑だが、東京から新幹線に乗って1時間半で越後湯沢、そこからシャトルバスに乗り換え30分で苗場である。実はけっこう近いことが前回わかった。
ことしはバス代が往復500円から1000円へ値上がりになったが、感染症対策で乗車率を抑えてあり(乗った車両は3割程度)すぐに出発する。
前回のようにさんざん待たされた挙句にギューギュー詰めということはなく快適。
心配だったのは天候で、まさに「山の天気は変わりやすい」を実感することになった。
事前に見ていた天気予報サイトの情報は毎日よく変わるので予測を立てにくく、実際の現地の天候もまさに「降ったりやんだり晴れたり曇ったり」で、2回ほど移動中に短期集中で降られた。
20年の時を経て納戸から出された「論理空軍ウィンドブレイカー」が初めて役に立ったが、レインパンツなるものは結局使わず終いであった。

例年では、各ステージのトリ(未だヘッドライナーという呼称になじまない)は時間をずらしてあるようなのだが、ことしは感染症対策で集中を避けるためか、グリーンの電気グルーヴ(21:40〜22:50予定)とホワイトの平沢進(21:00〜22:30)はほぼ丸かぶりである。ステージ間の移動を考えると平沢後のDGはムリか。

などと思いつつ、雨がやむのを見計らい、ホテルからホワイトの山塚アイ(19:10〜20:00)へと向かう。
山際が山向こうの雷で光っている。美しいがこちらも土砂降りになりそうで不穏である。演奏のせいか遠いせいか、雷鳴はほとんど聞こえない。
途中でカレーを飲み、ホワイトの忌野清志郎トリビュートで池畑潤二&花田裕之の演奏に見入っていたため、着いた時には山塚アイは終わっていた。
スタンディング・エリア外で椅子に座って開演を待っていたが、しとしとと少し降ってきたので椅子をたたんでスタンディング・エリアへ。
感染症対策の立ち位置マークは1m弱の間隔か。後方であったせいか、終演まで周囲の観客はまばらであった。
ホワイトの観客エリアは例年だとキャパシティは15000人らしいが(どこまでを観客エリアにしているのかよくわからない)ことしは見た目は大きなライヴ・ハウス程度で、せいぜいキャパ5000人くらいなのではないか(あくまで目視)。それでも全体が混み合うほどではない。スタンディング・エリア外はさらにまばらだ。
開演時間にはすっかり雨はあがっていた。

2021/08/22

平沢進 + 会人
脱出系亞種音

FUJIROCK FESTIVAL’21
苗場スキー場特設会場
WHITE STAGE 21:00〜22:30

サポート: 会人SSHO+会人TAZZ
ゲスト: ユージ・レルレ・カワグチ(#STDRUMS)

01: ZCONITE 〜 COLD SONG(テスラ・コイル)
02: ENOLA
03: BEACON
04: Solid air
05: TRAVELATOR
06: 幽霊列車
07: アヴァター・アローン
08: 消えるTOPIA
09: アンチモネシア(テスラ・コイル)
10: HOLLAND ELEMENT
11: パレード(テスラ・コイル)
12: 夢みる機械
13: 論理的同人の認知的別世界
14: Big Brother(可逆的分離態様?)
15: 救済の技法
16: TIMELINEの終わり
EN
17: 庭師KING

新譜とP-MODELナンバーを多めにやるだろうとは思っていたが、まさかオープニングがテスラ・コイル・ヴァージョンの「COLD SONG」とは意表を突かれた。
広いステージに置かれた Musical Tesla Coil Zeusaphone Z-60 も後方からでは小さく見えるものだな。
10年ぶりの「Solid air」は還弦主義ヴァージョンではない。「カナリアの籠」から数えてどんだけヴァージョンあるんだという変遷だが、ここにきてまたニュー・アレンジ。
ギターから音が出ず、マシン・トラブルでノイズの嵐となったが、これが最高によい。ずっとこのノイズに打ちのめされていたいくらいだ。
そしてニュー・パート入りの「HOLLAND ELEMENT」には39年前の日仏会館でのプロトタイプからから聴いてきた人間でも驚いた。
「Solid air」「HOLLAND ELEMENT」の2曲(83年以降は加えて「ATOM-SIBERIA」の3曲)は80年代P-MODELでライヴを殺気立たせる定番曲であった。
本気だ。トラブルへの苛立ちもあったろうが、久しぶりに平沢進から殺気を感じた。
まさに「脱出系亞種音」というタイトルが示す通りの選曲。ディストピアからの離脱。狂気からの正気の脱出。
ただ、意外だったのは、支持者のみを載せて地球を脱出するロケット(SF的イメージ)ではなく、詰め込めるだけ詰め込むノアの方舟になりたいのではないかということ。
ノアだって嘲笑されたというではないか。そういえば「羊」など、キリスト教的比喩が近ごろ目に付く。
『BEACON』のレヴューで「救済のない技法」と書いたけれども、選曲には「救済の技法」があり「庭師KING」もある。
リスナーの意識にドリルを打ち込み、破壊しながらも、覚醒と新世界への離脱を願っているのではないか。
それがたとえ大きなお世話であっても。

『BEACON』のレヴューではまた
———————
ここから「ネオ・ディストピア3部作(消えるTOPIA3部作)」が始まって、10年で3枚出したりしたらすごい。
———————
とも書いたけれど、ここから「脱ディストピア3部作(人間回復3部作)」が始まることとなるのではないか。

予定より5分以上早く平沢進は終了したので、急ぎグリーンの電気グルーヴへ。「MAN HUMAN」か。非常に音がよい。PAのせいかエンジニアリングのせいか会場のせいかわからないが、ホワイトより遥かに音の広がりがよく迫力がある。
最後方から一面の観客を観ると、急にどメジャーなコンサートへ来たような気分になる。妙な表現だが、フジロック内の暗い閉鎖空間から急に眩しい屋外へ出てきたような感じである。
といっても、例年4万人以上のキャパシティとのことだが、ことしは1万人もいない感じ(あくまで目視)。後日発表されたこの日の入場者数は9300人とのことだったので、グリーンから流れてきた客を合わせてもそのくらいであったろう。
10分オーヴァーの23時くらいに終了したので「Baby’s on fire」から「富士山」まで30分は観ることができた。

レッド・マーキーでまりんのDJを聴いて締め。
最初は閑散としていてびっくりしたが、すぐにDG帰りがどやどやと入ってきた。
「FLASHBACK DISCO」もかけたりするサーヴィス。
2000年くらいまで音楽情報誌で電気グルーヴの担当ライターをしていたことがあるので、まりん在籍時の電気グルーヴにはけっこう思い入れがあったりするのだ。

覚えているのはこんなところである。
備忘録といってもハナから覚えてないことが多いので、備忘録ですらないか。

2021/08/29 高橋かしこ

Cross ひかりのうまワンマン 2020/09/26

夢で書いたCross(Crazy Riders On the Standard System)ライヴ・レヴューを思い出してみる。

そもそもシンセサイザーと生ドラムのデュオというのが珍しい。
テクノ・ポップ系のデュオというとSuicideが有名だが、あちらは打ち込みである。なぜに生ドラム? しかも、ドラマー専門ではない秋山勝彦が?
やはりこれは生ドラムの肉体性を秋山勝彦が望んだというのが大きいだろう。ギターやキイボードというメロディ楽器よりも、衝動の発露としては当然のことドラムのほうが直截的である。
高橋芳和は、秋山勝彦の衝動をサポートすることに徹している。秋山勝彦の叫びを最大限魅力的に見えるようなシンセサイザーによるバックアップ。ドラムの躍動感をよりダイナミックに見せるための音色。そして秋山勝彦に共鳴するようにして時に高橋芳和も叫ぶ。
もちろん秋山勝彦のドラムは上手いわけでなく、リズム・キープすら危うくなることがあるけども、そのビートは「奏でる」ことを目的にしているようにも聴こえる。
衝動の発露であるはずのドラムが実は、歌っているのだ。
そういうアンビバレンツが、Crossのライヴの魅力に思える。

youtu.be/l4T0GDA279s

Cross ワンマンライブ
出演: 秋山勝彦(Dr,Vo,Syn) 高橋芳一 (Syn,Vo)

9/26(土)大久保・ひかりのうま
19:00配信開始

残念ながらアーカイヴは本日23:59まで。

富士山麓に平沢啼く

これまでさんざ野外フェスなんか行かないと公言してきた手前どうにも言いづらいがフジロックへ行ってきた。

そもそもアウトドアは苦手であるし、野音や学祭で行われる○○フェスだってあまり好きではない。
狭量な人間なので、たとえホールのオムニバス形式のコンサートであっても、興味のないバンドを聴いているのが非常に苦痛だったりする。
もちろんそこに音楽的な発見があるのもほんとうだし、これまで自分にもそうした発見があったけれども、もはやスタンディングで好きでもないバンドを観るような体力はない。

ましてや、フジロックのような過酷な自然環境の大会場に大勢の人間が集まるお祭り騒ぎの高揚感とか。
ああ、ぜんぶダメ。
そんなのダメダメダメダメ人間。

だが、そのフジロックにインドア資質の極北と思える平沢進が出るという。
相変わらずあり得ないとされることをやるひとだね。
その意味では、平沢進のフジロックというのは、孤高のへそ曲がりの現れである。
さあ、困った。
いまどきフジロック出演を勲章のようにして大騒ぎするのはどうかと思うが、これはちょっと気になるではないか。
しかしなー、平沢進と同じ最終日のヘッドライナーはキュアーか。
実は自分でも意外なことにキュアーにはまったく思い入れがない。
好きか嫌いかと言われれば好きな部類に入る程度である。
むしろ、初日のケミカル・ブラザーズとトム・ヨークが3日目であれば、迷わず行ったと思う。

最終的に背中を押したのは、レッド・マーキーという庇つきステージであることと Zeusaphone Z-60 が登場すること、そして会場内ホテルが取れたことである。
人生なにごとも経験だとかなんとか陳腐な言い訳で自分を言いくるめた。

かくして2019年7月28日・日曜日。
東京から新幹線でたった1時間半、9:30には越後湯沢へ到着。
さして並ぶことなく11時前にはシャトルバスで苗場着。

80年代にその名を轟かせたお洒落なはずのリゾートホテルは粉々に壊れ廃墟のようであった。
いや、壊れたというのは言い過ぎだがなかなか荒廃した感じ。
フジロックでしか稼働していない棟もあるという。

荷物を預け、昼食をとって奥地(フィールド・オブ・ヘヴン)へ辿り着くと、渋さ知らズオーケストラが終わるころであった。
雨はほとんど降っていないが、前日襲来した颱風のせいで濁流が流れそこらじゅうが泥濘(ぬかる)んでいる。
立ち並ぶ飲食ブースは、代々木公園のタイ・フェスなんかと同様だが、こっちが先なのだろう。
会場内各所を徘徊し、いったんホテルへ戻って着替えればもう夕刻。
ひぐらしが鳴いている。
カレーを飲みこみ苗場食堂裏ステージの苗場音楽突撃隊へ。

池畑潤二+花田裕之+井上富雄という大江抜きのルースターズにヤマジカズヒデと細海魚が加わった洋楽カヴァー・バンド。
ゲスト・ヴォーカルも入って「ハッシュ」「アイ・ミー・マイン」とか(ルースターズ的には)意外な選曲をやる。
途中、雨足が強まりカッパをかぶる。
最後の3曲(だったかな)は花田裕之ヴォーカルのブルースっぽい曲で、門外漢にしてぜんぜん知らない曲だが、やはりよい。

にしても、隣の大音響DJブースが近すぎる。いくらフェスとはいえ、音が混ざりすぎ干渉しすぎ。
バトル・ロッカーズとマッド・スターリン の対決ライヴを思い出したくらいだ。

苗場食堂と隣のレッド・マーキーは近くて助かるが、20時スタートの平沢進とは時間差たった20分。
ジンギスカン臭漂う会場はすでに満員。
前半分は立っているが、うしろ半分は自前の椅子。
雨宿りの客も多いとうかがえる。

オープニング・ナンバーとしてはおなじみの(とはいえ久しぶりの)「TOWN-0 PHASE-5」から始まり「Archetype Engine」「フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ」という完全に攻めの選曲。
すでに「HYBRID PHONON」以来、平沢ソロ名義だろうがなんだろうがなんでもアリになっている。
平沢目当てではないオーディエンスも多かろうことを前提に、持ち時間の1時間に詰め込めるだけ詰め込んできた。
「アディオス」「聖馬蹄形惑星の大詐欺師」「アヴァーター・アローン」と比較的最近の曲に続いていよいよ「夢みる機械」へ。
The Musical Tesla Coil Zeusaphone Z-60 は2008年の「PHONON 2551」で初登場して以来11年。
5年前の「HYBRID PHONON」からは使われてなかった(はず)ので、故障してないか心配だったのだが、健在である。
前は見えないし、平沢のヴォーカルもあんまり聴こえなかったが、スパークの光と音はしっかり届いた。

続くイントロはなにこれと思ったら「ジャングルベッド I」というより「Astro-Ho」か。
「Astro-Ho」シリーズはソロ曲の位置づけなのでまったく違和感なかったのだが「ジャングルベッド I」だとすれば95年の「ENDING ERROR」以来。
続く新曲(タイトル不明)は「Perspective」かと思ったほどに素晴らしい。

「Nurse Cafe」「AURORA(4くらい?)」とまくしたてて「白虎野の娘」*であっという間に終了。
「AURORA」はまたぜんぜん変わっててイントロではわからんかった。
ラストはなにが来るかと思いきや「白虎野の娘」というのは、これが現在の代表曲ということか。正しい。

フジロック的に当然なのか異例なのかはわからないが、予想外のアンコールで想定外の「回路OFF 回路ON」を演って解散。

仕込み段階の平沢tweetから力の入りようが伺えたけれども、雨宿りの連中を踊らせるほどに、選曲もパフォーマンスもアレンジも完璧であった。
1時間くらいのコンパクトなライヴっていいものだ。
惜しむらくは低音がびびりまくる音響。
「Astro-Ho」には歌詞があったというが、ぜんぜんヴォーカルなんて聴こえなかったし、心臓に悪い。
散見するtweetなどを鑑みるに、Youtube中継(たぶんライン出力)のほうは音がよかったようだし、意図的とは思えないので、音響システムの特性やオペレーションあるいは仮設会場の構造によるものなのだろう。

その流れで言うとキュアーのライヴで驚かされたのは音のよさ。
科学の進歩を感じる音響システム。
いまどきの野外ライヴ(行かないから知らない)では当たり前なのだろうが、下手なホール・コンサートよりよっぽど音がいい。
ところで、キュアーってあんなに演奏のうまいバンドだっけ? そっちも相当に驚いた。

キュアーのあとホテルでひと休みして卓球のDJへ行こうと思ってたのだが、気がついたらすでに朝。
かっこうが鳴いている。
エレヴェータでチェックアウトへ向かう卓球に出くわしたのが妙に気まずかった。

そういえば、ホテルは出演者やスタッフも泊まっているのでけっこう見かけたのだが、意外とファンが騒いでる様子もなく、そこは大人のイヴェントか。
不愉快だったのは、規制がほとんどないライヴ中の撮影、これまた規制がほとんどなく自由過ぎる喫煙、会場内・ホテル内の導線といったあたりか。

シャトルバスの列の長さに恐れをなして、帰りは路線バスを使ったが、これはなかなかしんどかった。
とはいえ、颱風が前日に通過してくれたおかげで、予想したより困難は少なく、遠出の泊まりがけライヴ程度で済んだ。
点検隊に比べればふつうのライヴの範疇である。

梅雨が明けて一転猛暑のなか帰途へついた。

●役に立ったもの
トレイル・ランニング用防水スニーカ
救済の橋のギルドのミニ・リュック
カッパ

●まったく使わなかったもの
折りたたみ椅子
折りたたみ傘
論理空軍ウィンドブレーカ
ソーラレイ・ブルーシート

防水スニーカは軽くて歩きやすく非常に快適だったのだが、たった1回のライヴのためと思うと痛い出費である。
しかし、一生のうちもう1回くらい行くかもしれない。
その時まで取っておこう。

2019/08/08追記

*ラスト「白虎野の娘」と思ったのだけど、ネット上では「白虎野」と書いてるひと多し。あとは「白虎野+白虎野の娘」って書いてるひともいた。
会場でヴォーカルはあんまし聴こえなかっが、中継でちゃんと聴くと「白虎野」だったらしい。

スターリンはスターレスだった

遠藤ミチロウの訃報を聞いてから、なにか書きたいと思いながらも書けないでいる。
理由のひとつは、自分が好きだったのは遠藤ミチロウのたった一部分でしかない、ということだろう。
結局のところ、多くのミチロウ・リスナー同様、自分にとっての遠藤ミチロウは、ザ・スターリンだったのだ。
これがどうにも引け目に感じてしまうのである。

そして、わたしにとってのザ・スターリンは「絶賛解散中」だった。
わたしにとってのザ・スターリンは1年にも満たない。

初めて観たザ・スターリンは、1984年6月3日・横浜国立大学学祭ステージにて、である。
もちろん目当ては共演のP-MODELだった。

遠藤ミチロウは『ロッキング・オン』に投稿していたので、メジャー・デビュー前から知ってはいたが、キワモノ的な先入観から敬遠していた。
ハードコア・パンクのライヴなんて恐くて行く気がしなかったし、臓物で衣服が汚れるのもいやだし。

それでも、P-MODELとのジョイントであるというので、文字通り恐いもの見たさで行くことにした。
当時最新作だった遠藤ミチロウ・ソロ名義のカセットブック『ベトナム伝説』や『虫』「Go Go スターリン」なんかを弟から借りて予習もしたのだが、いまひとつピンとこなかった。
ライヴを観て印象がまったく変わった……というわけでもない。
屋外ステージの予定が、雨のため急遽屋内の大教室(講堂だったかもしれない)へ変更になり、あまりの人いきれに音を上げて「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」あたりで会場から出てきてしまったくらいだ。
PAの上に登って歌詞を読み上げるミチロウの姿を尻目に。
いま思えばイヌの北田コレチカ(昌宏)が参加していた時期の貴重なライヴだったので、もったいないことをした。

しかし、それがどうしたことだろうか。
なぜだか9月14日の後楽園ホールへ行った。

横浜国大のライヴ後、フラッシュバックのようにミチロウの毒が効いてきたのだろうか。
友人から『トラッシュ』『スターリニズム』といった自主制作時代のレア盤まで借りて聴きまくった。
『虫』はいちばんよく聴いた。
あれはなんだったのだろう。

12月29日〜31日の新宿ロフトも通った。
(12月21日・22日はP-MODELも新宿ロフトでライヴだったので、ほんとロフトに通ってるようだった)

明けて1985年2月21日、調布の大映撮影所でのラスト・ライヴ。
1985年1月15日、ミチロウはザ・スターリンの解散を宣言し、すでにソロ・アルバムのレコーディングに入っていた。
解散宣言後のライヴゆえに「絶賛解散中」と銘打たれたわけだ。

美術も演出も「ザ・スターリンというバンドの葬式」をコンセプトに行われたライヴ。
不穏な空気のなか幕を開けたライヴは2部構成で、前半は新作『FISH INN』を中心にしたスロウなナンバー中心、ジャケットを着たミチロウが菊の花を抱いて歌った。
後半は怒涛のザ・スターリン・ベスト・セレクション。

わたしにとってのザ・スターリンは、圧倒的な「終わっていく感」これに尽きる。
ラスト・ライヴ「絶賛解散中」はもちろんのこと、ラスト・アルバム『FISH INN』や解散ライヴに向かっていくザ・スターリンを取り巻く空気そのものがが「終わっていく感」を表現していた。

終焉へ向かっていく高揚感やカタルシスといえば、ザ・ビートルズの『アビィ・ロード』とかキング・クリムゾンの『レッド』あたりが典型だろう。
「スターレス」という曲はいま聴くとちょっと叙情的過ぎるきらいもあるが、終末感に包まれたアルバム『レッド』のエンディングとしては見事である。
ああいったすべてが「終わり」に向けて収束していくテンションの高まりを、ザ・スターリンは最後の1年で表現しきった。
ザ・スターリンはプログレッシヴ・ロックなのだ。

ザ・スターリン解散後、ミチロウのソロ・プロジェクトも追いかけたのだが、なぜだかザの取れたスターリンの『STREET VALUE』あたりから疎遠になり、1992年のスターリン解散後にソロへ転じてからはぱたりと聴かなくなってしまった。
2001年の一夜限りのザ・スターリン復活ライブを観にいったのが最後だった。以来、18年間、ミチロウのライヴは観ていない。弾き語りのライヴも1度くらい観ておこうかなと思ったこともあったが、観ないまま逝ってしまった。
それがどうにも後ろめたい理由だろう。

ミチロウの音楽的な原点であり、後半生の活動の大部分を占めた弾き語りというのが、わたしにとってはもっとも苦手な音楽スタイルなのである。
ミチロウの死後、ドキュメンタリ映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。』も観たが、その点は変わらなかった。

いまたまたまパティ・スミスをSpotifyで聴きながらこの原稿を書いているが、そういえばうちにはパティ・スミスが1枚もない。
よくミチロウはパティ・スミスを影響を受けたミュージシャンに挙げていた。根はフォークだが、時に激しいロックン・ロールを歌うというところはミチロウに近かったのかも知れない。

小柄な優等生の遠藤道郎。
バックパッカーで東南アジアを旅した遠藤道郎。
フォーク・ソングの弾き語りをしていた遠藤道郎。
彼がザ・スターリンの遠藤ミチロウへ「変身」した経緯や心情については、多く語られている。
女性週刊誌に記事が載ったころ、彼の実家界隈では道郎くんは気違いになったと噂され、母親から実家に帰ってくるなと言われたそうだ。

ザ・スターリンのコピー・バンドで歌ったことがある。
わたしは人前に出るのが苦手で、ましてや歌ったりするのはほんとうにダメなのだけど、なぜだかザ・スターリンは歌いたかったのである。
ミチロウの豹変に自分を見ていたのかもしれないし、肉体性を拒絶して生きてきた自分に自己解放を求めたのかもしれない。
歌うという行為は肉体性の回復だった。
とにかくミチロウの歌詞は歌っていて気持ちがいいのだ。
歌っていて笑いがこみ上げてくる。

中央線はまっすぐだ!!

これが現代詩というものなのか、と当時は思った。

そういえば、ビデオ・スターリン時代、ミチロウには1度だけ取材をしたことがある。
かなり意気込んで臨んだのだが、実際にはなかなか話が噛み合わず、会話の深まらないインタヴューであった。
エロ・ヴィデオ雑誌の真面目なインタヴュー・コーナーというミチロウにはぴったりのメディアであったのだが、空回りに終わった。
自分としては感心するという意味で「その年齢でよく裸になりますね」と言ったつもりだったのだが、どうもミチロウには悪意に取られたらしく「いや、イギー・ポップだってさー」と福島訛りで反論されたのをよく覚えている。
1988年だからミチロウは37歳とか38歳だったはず。

あれからさらに30年。とっくにミチロウの年齢も追い越してしまった。
ミチロウのように痩せたまま生きていきたい。

合掌

 

音のミゾからハロー 番外篇 デヴィッド・ボウイ

ボウイが逝った。

自分が受けた衝撃と喪失感にむしろ驚いている。
もし、ボウイが2013年に『The Next Day』でカムバックしなかったら、もし、それがあんなに素晴らしい作品でなかったら。
もし、死の2日前の誕生日に新譜『★ (Blackstar)』をリリースしなかったら、もし、それがあんなに素晴らしい作品でなかったら。
こんなふうに感じはしなかっただろう。
ボウイの最後の策略にまんまと引っかかったのだ。

考えてみれば、ぼくがボウイを真剣に聴いていたのは1977年から1982年のたった5年間なのである。
出会いが『”Heroes”(英雄夢語り)』というのは幸福だった。
そこから『Low』『Station to Station 』と遡った。
クラフトワークやニュー・ウェイヴを聴きはじめたころだったので、タイミングもよかった。
たしかそのあとに聴いたのが、名作の誉れ高き『 The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト/屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群)』であるが、最初は「なんだこれ」である。
よく書いているが、ぼくはフォーク・ソングやアコースティック・ギターの弾き語りがほんとに苦手で、この作品世界に入り込むには年月がいった。
ライヴ盤を聴いてからは「Five Years」や「Rock’N’Roll Suicide」も好きになったものの、いまでも、フォークっぽい初期ボウイは苦手である。
同時期のアルバムでは『Hunky Dory』『Aladdin Sane』のほうが好きなくらいである。
ソウルやファンクも苦手なわたしではあるが『Young Americans』『Station to Station』でのいんちきくさいプラスティック・ソウルは大好きである。

しかしながら、ありがちな話ではあるがEMI移籍後のディスコ路線『Let’s Dance』でがっくりし、83年の来日公演 SERIOUS MOONLIGHT TOUR で決別してしまった。
あの剃刀のような「Breaking Glass」を鈍ら刀のようなディスコ・アレンジで聴かされ、ミーハーにも憤ったわけだ。
つまりは、自分にとってのデヴィッド・ボウイはRCA時代のデヴィッド・ボウイなのである。
あー、ありがち、
それでも、もうライヴをやるのはこれが最後という触れ込み(ボウイはそんなことばっかり言ってる)だったので1990年「Sound + Vision Tour」は行ったりしたのである。
そう、すっかり忘れていたが行ったのだ。
東京ドームで観るボウイはやっぱり自分にとってはただのショウでしかなく、どうもしっくりこなかった。
タダ券で酒宴に盛り上がる広告代理店のグループが不愉快だったことくらいしか覚えてない。
自分にとってのボウイのライヴは、岩谷宏のレヴューでしか知らない73年のジギーと、NHK『ヤング・ミュージック・ショー』でしか知らない78年の Low And Heroes Tour である。

そんなこんなで幾星霜、30年ぶりに聴いた新作が『The Next Day』というわけである。
ジャケットからして『”Heroes”』を意識したとわかる作品だが、サウンドが似ているわけではない。
自らの最高傑作を超えるという意味あいだろうが、60代半ばのボウイが歌うラヴ・ソング(だよね?)にやられてしまった。
ザ・ビートルズの「When I’m Sixty-Four」の年齢を超えたボウイが「Valentine’s Day」を歌うわけである。

(↑ぜんぜん違った/2020.04.13)

ここからボウイ熱が再燃し、それまでアナログ盤でしか持ってなかったRCA時代の作品をCDで買い直し、昨年は迷ったけれどもボックス・セットも買って、やっぱり初期フォークのボウイは苦手だと再認識したりしていた。
さてさて『Tonight』(1984)から『Reality』(2003)まで20年間のブランクも埋めるかね、などと思い、なぜか『Earthling』を聴いてがっくりきたりしていたのである。
『★ (Blackstar)』を聴いたあとその思いは強まり『The Buddha Of Suburbia 』『.Outside 』あたりは押さえておこうかと思っていたのである。
正月にT.REXをまとめ買いしてしまったので、来月はボウイかなぁと思っていたのである。
話は逸れるが、T.REXというかTyrannosaurus Rex時代のマーク・ボランが好きになったのはつい数年前である。フォーク嫌いなのでずっと敬遠していたのであるが、ぜんぜんフォークじゃないというか。わたしはフォーク嫌いというより単にボブ・ディラン系が苦手なのかもしれない。アコースティック・ギターでも、Tyrannosaurus Rexはよいです。

閑話休題、ボウイである。

実を言うと、なぜ10代でボウイにあれだけ入れ込んだのか自分でもわかっていない。
それがわかりそうな気がして『The Next Day』『★ (Blackstar)』を聴いていたのかもしれない。

ボウイは70年代におけるロックという概念やイデオロギーを体現していた。
ロックはメディアであり、自分自身もまたメディアであると明示した初めてのミュージシャンである。
それまでもやもやとして曖昧だったロックの概念をはっきりと示し、音楽以上のなにかがあるのではないかという幻想を確信に変えた。
だからこそ、イデオロギー雑誌であった時代の『ロッキング・オン』の看板であった。
強くあるより美しくあれとか、ボウイをメディアとした、岩谷宏の表現もかなり重なっていたと思う。

ちなみに、すっかり名前負けしている株式会社ファッシネイション社名は、ぼくじゃなくて別なスタッフがつけたもので、候補に上がった時には曲名の「Fascination」だと思って「いいんじゃないかな」と言ったのだけど、彼としては「Changes」のフレイズからとったらしい。
「Changes」の Strange fascination, fascinating me♪ ってところ。
まあ「Fascination」の Fascination comes around♪ ってことでもいいのだけど。

そういう意味では、デヴィッド・ボウイの死はロックの死であり、だからこそ、自分でも驚くくらいの衝撃を受けたのだ。
『The Next Day』『★ (Blackstar)』を聴いて、老いや死をテーマにできるミュージシャンはボウイくらいだろうと感じた。
若者にとっての甘美な死の誘惑ではなく、老いと隣り合わせの死。
ボウイほど若くして死ぬことを望まれた(自分自身も一時期はそう望んでいたであろう)ミュージシャンはいない。
「レッツ・ダンス」以降は、RCA時代に死んでいたら伝説になったのにと本気で言うやつも少なくはなかった。

ぼくも一時期はちょっとそうは思ったけれども、かつてのように自分が納得できる作品ができなくてもがき続け、試行錯誤を続けるボウイ(ぼくにはそう見えた)は、100まで生きてほしいと思うようになった。
この先、すごい作品ができちゃったりすることはないかもしれないが、生き続ける姿を見せてほしいと思っていた。

そう思っていたら『The Next Day』がリリースされたのだ。
それは驚くだろう。
ほかのどのミュージシャンも表現できなかった老いや死を引き受けたロック。
ほんとにやってしまった。

『The Next Day』『★ (Blackstar)』の意味がわかるには、まだ20年はかかるかもしれないが、いまは聴き続けるしかない。
などと37.7度の熱でぼーっとしながら思っている。

IMAG0601(書き終わって測ったら、37.9度まで上がってた…)

(結局、38.7度まで上がった…インフルエンザであった…)