思い出すことなど [2]

04.

 6月は自宅の引っ越しがあり、なにかと慌ただしく過ごしていた。学生時代からお世話になっている編集者の母上の葬式に出たり、大学時代の友人がアメリカから子連れで帰国したというので数人で集まったり。さらには短期集中の仕事が入っていたりもした。
 もちろん彼の病状は心配ではあったが、クルマの送迎ながらもスタジオへ通って仕事をしているというし、どうも平沢さんと会って以来、妙に安心してしまったところがあった。むしろ考えまいとしていたのかもしれないが。

 彼のほうでは6月2日から4日まで東北に滞在して免疫療法の病院で採血を行い、三鷹のペイン・クリニックに緩和ケアを受けに通い始めたりもしている。

 入梅後の6月16日。マッドハウスが引っ越して以来、初めて「今組」のスタジオへ。2週間ぶりに彼と会う。
 用向きとしては、ハードディスクがクラッシュして起動しなくなったラップトップPCの引き取り修理。故障したハードディスクからデータのサルヴェージをし、新しいハードディスクと換装、OSを再インストールするわけだ。まあ、よくやっていることではあるし、自分のラップトップとほぼ同型なので扱いやすい。
 新会社でショッピング・サイトを開くプランなども打ち合わせる。彼はこういう話をしていると顔が明るくなる。つくづくなにかを作ったり、プランを練ったりするのが好きな男なのだ。前向きに新しいことを考える時はもちろんのこと、それがたとえ「店仕舞い」のための準備であろうとも、その作業自体を楽しもうと計画する人間なのである。根っからのクリエータであり、プロデューサ気質なのである。

「今 敏」という人間と初めて会ったのは高校1年の時だったはずだ。クラスは違ったが長身に長髪という目立つ容姿をしており、他を寄せつけない独特の雰囲気を持っていたので、なんとなく覚えていた。高校2年ではクラスが同じになり選択科目の美術も一緒だったが、最初はとっつきにくい感じがして敬遠していたように思う。
 ある日、教室で隣のクラスのやつから借りた PANTA & HAL の1stアルバム『マラッカ』のジャケットを眺めていた。3月に出た2ndアルバム『1980X』を聴いて気に入ったので、遡って1stを借りたように思う。もしかすると放送部だったので、昼休みの校内放送でかけたのかもしれない。すると背後から声がした。
「おまえこんなの聴くの? これ、オレの兄貴なんだよね」
 振り返ると、歌詞カードに掲載された鋤田正義が撮影したメンバー写真のギタリストと同じ顔があった。そりゃあ驚く。北海道の東部でそんな偶然があるはずがないではないか。

 この反則のような端緒から、初めて会話を交わしたように思う。それからつきあいが始まったのではあるが、彼は美術部やマンガ/アニメ同好会の仲間と、自分は放送部の仲間と一緒にいることのほうが多かった。互いの家に遊びに行って生意気に酒を飲んだりもしたが、あまり深い話をするわけでもなく、レコードを聴き、馬鹿話に花を咲かせていただけだ。
 彼もわたしも人間関係には距離を取るほうであり、クラスのなかでどのグループにも所属しないという点においては同じだった。修学旅行ではそのような「身の置き所のない4人」で班を作った。東京での「自由行動」は班単位で行動するのが原則だったのだが、班員それぞれ趣味も行きたい場所も違うため、出発前の計画書だけ取り繕って実のところは個人行動だったのだからひどい話だ。

 高校卒業後はふたりとも上京したので、年に2〜3回は会っていたと思う。予備校に通っていたわたしは、共通一次試験の再受験の際には会場である武蔵小金井の学芸大学に近い彼のアパートに泊めてもらったのだが、緊張のあまり朝までマンガを読んでまた失敗したとずいぶんあとまで笑われたものだ。仕事をするようになってからも、だいたいはそんなペースで会っていて、お互い結婚してからはいわゆる家族ぐるみのつきあいになった。
 いつからか正月にはどちらかの家に集まって新年会をするのが慣わしになっていて、今年の正月には我が家で3歳児とかくれんぼはするわ、お姫さまのスケッチは描くわの大サーヴィス。子供好きのキャラクタからはまったくかけ離れている彼だったが、この3歳児が生まれた折にはたくさんの祝いの品をもらい、ずいぶんと気にかけてくれていたし、ふだんは人見知りの激しい子供も「コンサン」「キョウコサン」と懐いていた。

 活動するジャンルが違うとはいえ、この10年間で彼が「世界の 今 敏」になったことに、正直に言って羨む気持ちがなかったわけではない。マンガやアニメーションを作る才能だけならまだしも、文章を書かせても才能を発揮する彼に嫉妬心がわかなかったと言えば嘘になる。
 しかし、比較するほどの才能が自分自身にあるわけでもなし、学生時代から彼のマンガが入選したり、大友克洋のアシスタントになったりという活動遍歴をずっと見てきた身としては嬉しさのほうが大きかったというのもまた正直なところである。編集者として見て彼の文章はあまりに面白いので、自分から単行本化の企画を持ち込んだくらいだ。
 ただ、彼が仕事に対して非常に厳しいのはよく知っていたので、友達関係を維持していくには彼とは仕事では関わらないほうがよいかもしれないという危惧すらあった。幸い、単行本『KON’S TONE』の編集をはじめ、雑誌やムックのインタヴュー原稿などの仕事もいくつかしたが、どれも気に入ってくれていたようで、絶交するような事態には至らずに済んだ。
 そういえば、彼が周囲に「監督」と呼ばれるようになってからは、こちらもアニメーション関係者の前では立場に気を遣って「監督」と呼ぶようにしていたのだが、彼のほうも人前ではわたしのことを筆名である「かしこ」で呼ぶようになった。高校時代は同じクラスに3人も「高橋」がいたため同級生からはだいたい下の名前で呼ばれいて、彼からも長年「まさる」と呼ばれていたのだが、彼なりの気遣いや公私を分ける気持ちがあったのだろう。

05.

 北海道にはない、梅雨といういやないやな季節。ただでさえ体調を崩しがちだというのに、2010年の梅雨は彼にとって声も出ないほど激しい痛みとの闘いの季節となった。

 4月末から肺癌の手術で上京していた父は、退院後もしばらく留まって姉の家から手術した病院へ通院していたのが、ようやく1か月半ぶりに梅雨のない北海道へと帰っていった。術後の検査結果では切除した部位のリンパ節からも懸念された癌細胞が見つかったのではあるが、放射線療法や薬物療法は行わないことに決めた。そのころには、切れる癌は癌じゃないというほどの心持ちになっていたので、父の病状についてはむしろ楽観していた。ひどいといえばひどい息子である。

 わたしは株式会社KON’STONE設立準備を進め、京子さんは遺言状作成を手配していたころ。彼は大がかりな神経ブロックによる治療を受けるため、6月23日から26日まで短期入院した。たいへん不愉快極まりない入院生活だったようで「アニメ業界も医療業界も同じ、木っ端役人が跋扈する世界」と語っていたが、それはさておき。
 精密検査の結果、予想以上に癌による肉体の浸蝕の度合いが激しく、予定していた「腹腔神経叢ブロック」を施すにはリスクが高すぎるため治療は断念せざるを得なかった。この施術が受けられていれば、半年間は痛みから解放されるはずだったのだが。

 退院後の6月28日、平面的に寝そべると激痛が走る彼のために医療用ベッドと車椅子が用意された。そこまで悪化しているとはまだ知らなかったわたしは、少々の異議を唱えた。
 というのも、2年前に脳卒中で倒れた義父が杖による歩行から車椅子へ、車椅子から医療用ベッドへと移り、あっという間に寝たきりになってしまっうのを見ていたからである。動けるうちはなるべく動いたほうがいいのではと素人ながらに思っていたのだが、転倒による脊髄の損傷で半身痲痺、最悪の場合には死亡する危険性すら医師に指摘されていたという。わたしが気を抜いていた1か月の間に癌は凄まじい速度で進行していたのだ。
 医療用ベッドは1階の居間に置き、2階にあった仕事道具も1階に移す。1階にはLAN回線が来ていないので、無線LAN環境を構築。ベッドのテーブルでもラップトップ機を使えるようにする。CATVによるインターネット回線用のよくわからない接続機器だったのでルーティングするのにえらい時間がかかってしまった。

 株式会社KON’STONEは6月25日に登記を完了し、7月1日には補正確認も終わって正式スタート。名刺だの挨拶状だのをデザイナーに依頼する。京子さんの本業はデザイナーなのだが、彼女が自分でやっている時間はとれそうにない。彼の病状が悪化するに従い、介護など日常的な作業量は増大、加えて在宅医療・看護の体制作り、医療用品・介護用品の手配、自分自身が行うべき看護や介護の勉強といったことに忙殺されている。

 その週末、7月3日にはマッドハウスのプロデューサで株式会社KON’STONEのスタッフとしても動く原さんと一緒に1階のさらなる環境整備。本棚など当面不要なものは2階に上げてスペースを作り、仕事机などを1階に下ろす。巨大なマッサージ・チェア(通称・ガンダムのコクピット)が広い面積を塞いでいるが、これは専門業者にでも頼まない限り移動は無理であるし、貰い手も決まっていない。
 不具合のあったLAN環境も再調整し、なかなか快適。手持ちのスマートフォンも心地よくネットに繋がる。さらには修理の終わったPCにソフトウェアのインストール。ヴォイス・メモを取るためのサウンド・レコーダだのブルートゥース・マウスだのMP3プレーヤをオーディオ・アンプに飛ばすブルートゥース機器だの、要り用なものをリクエストされ、手配の段取りをする。
 病のなかにあってもこの日の彼は体調がよく、薬の効果で痛みもやわらいでいたようだ。実はこの日の朝、転倒して冗談抜きで「死ぬかと思った」ことをあとで知ったのだが、われわれが作業している間に異状はなく、利尿剤が効いたのか懸念されていた尿も出た。

 夜には、彼はベッドで、われわれは居間続きの食堂で、ささやかな会社設立パーティ。ここぞという時に開けようととっておいたという、いただきもののかなり上等なシャンパンで乾杯。熟成年月が長く、深みのある味。これまで飲んだシャンパンでも飛び抜けて最高に美味しい。わたしなんかよりよっぽどいいものをたくさん飲んで来た彼も「これは美味いね」といいながら、少量を飲み干す。

 この夜は、ほんとうに楽しく、愉快だった。

思い出すことなど [1]

00.

 長く耐え難かった夏もようやく、ようやくのこと、終わった。

 今敏が最後に記したウェブログ「さようなら」は、掲載から1か月で閲覧数が20万を超えている。
 あれを遺してくれたおかげで残された者たちがなにがしかをステイトメントする必要もなく、その意味ではたいへん楽をさせてもらった。
 事実を伝えるにおいて過不足なく、よく練られ、構成され、エンタテインメントとしても成立する笑いのある文章。彼の作る映画と同じ才気が感じられる。ああいうものを自称素人に書かれては自称玄人としてはたまったもんじゃないが、これも才能の違いだ、しょうがない。

「さようなら」の文章に限らず、彼の3か月はなにかにつけ「迷惑をかけまい」とする配慮と行為の集積だった。周囲の人間、そして自分自身への感謝と思い遣り。それを実現するための周到な計算と強靱な意志による実践。
 3か月という「生活」さえもまた彼の作品だった。

 それに対してなにかを付け加えたり、解説したりするのは蛇足の観を免れないが、近年の映像作品のソフトウェア化には必ずといっていいほど併録されているオーディオ・コメンタリのようなものだと思っていただければ幸いである。

01.

 呼鈴を鳴らし、鉄製の門扉をきしませながら開ける。
「いらっしゃい、きょうも暑いね」
 妻の京子さんが玄関まで出迎えてくれる。三和土に立つ彼女はたいてい裸足だ。
 居間に入ると、傾斜させた寝台で半身を起こした主(あるじ)が片手を挙げる。
「よっ、いつも悪いな」
 気分がよい時には笑って快活に、そうでなければ俯き加減で。
 この夏、幾度も繰り返された光景だ。
 陽射しを避けて薄暗くしたその空間は、高密度だが現実感は希薄だった。ふたりを残してその特別な空間から出ると自分はいつもの日常へと戻り、我に返ったようになる。
 再び繰り返すことはない現実という意味では夢と同じくはかない過去ではあるが、そこには間違いなく別の日常があった。

  観測史上最も暑かった夏は、彼の命を奪った。

02.

 前年から探していた自宅の引っ越し先がようやく決まり、準備に追われていた5月の20日。彼から電話があった。
 電話で話すような内容じゃないので自宅に来て欲しいという。仕事の話なら制作会社のマッドハウスでするだろうし、話の主題くらいは語るだろう。しかもできるだけ早いほうがいいと言う。おかしいなと思いながらも翌日15時に会う約束をした。
 新作『夢みる機械』に関する本の編集だろうか。あるいは作品制作が暗礁に乗り上げてしまってなんらかの相談事だろうか。まあ、久しぶりに一緒に食事をするのもいいかもしれんな。呑気にそんなことを考えていた。
 翌21日。昼に引っ越し先の契約を終えたあと、今家へ向かった。
 入るとふたりとも大きな円い座卓にかしこまった雰囲気で座っている。近ごろの忙しさ具合はどうだとか、調子はどうだとかいつもの挨拶に続いて、いつになく切り出しにくそうに言った。
「いや、暑いなかわざわざ来てもらって悪いな。実は最近、杖なしじゃ歩行が困難になっちゃって」
 義父が脳卒中で倒れる前に跛をひいていたことを思い出し、まさか…と思う。だが、答えはさらに最悪だった。
「おれ、膵臓癌でさ、もって半年、悪くて3か月って言われたんだ。もう骨まで転移してて、年越せそうにないんだよ」
 待ちかまえていたかのように京子さんがわっと泣き崩れる。
 なんのコントだ。一気に現実感が遠のく。

 3日前に検査結果を知らされたばかりで、まだ側近のプロデューサーである原さんにしか話していないという。2月末にライヴに会った際にも足腰が痛むとかそういう話はきいていたが、お互い40代も半ば、身体にガタが来ても不思議ではないと思っていた。
 健康診断のひとつも受けていればなどといまさらながらのつまらぬ問いを発すると、膵臓癌はたとえ健康診断を受けていても見つかりづらい癌であり、見つかった時には手遅れというケースが多いと言う。彼の場合も痛みに耐えかね、3月から5月にかけてさまざまな検査を重ね、ようやくのこと膵臓癌であると判明したそうだ。その時々で胸膜炎だの加齢による関節痛などとも言われたが、4月末には膵臓癌の疑いが指摘されて精密検査をしたらしい。

 手の施しようがないと言いながら化学療法や放射線療法を勧める医師。効果のほどを説明することもなく、それが定番のコースであり、そうするのが世の習いであるかのように話す。対して彼は「煙草が吸えない」「食事が不味い」という2点だけで入院は拒み、通院を決めたという。わたしも正しい選択だと思った。
 実はこれより先の5月6日、わたしの父が肺癌の手術を受けたばかりであった。その際に担当した外科医は予防的な放射線療法や化学療法はお薦めしないと言葉を濁しながらも言った。効果がないとは言わないが、80歳近い年齢を考えれば放射線療法や化学療法はリスクのほうが遙かに大きいということだった。
 膵臓癌と肺癌では事情が違うだろうし、年代も異なるので同列には語れまいが、治癒や延命という効果の保証はまったくなく、確実に副作用の保証だけはされている治療を受けても仕方がないだろう。

 ついては、人生の後片付けのためのサポートをしてはくれまいか、というのが彼の頼みだった。手始めに作品の著作権管理をする会社を作りたいという。
 そのくらいの手伝いは簡単にできるし、幸いといおうか、本来であれば幸いではないのだが、仕事は詰まっていない。そもそも癌にならずとも、彼くらい著作を抱える立場であれば会社を作るのは当然であり、以前からそういう話はしていたのである。
 そのほかにも、彼はあれやこれやと懸案事項や依頼事項を語り、もろもろの相談相手、コンサルタント役になってくれと言い、先々においては改めてインタヴューをし、過去の文章をまとめ、彼の人生の総決算をコンテンツ化してほしいという。わたしはもちろんすべて引き受けた。

 制作中の新作『夢みる機械』は脚本はあがっているもののコンテはまだ途中。自分が死んでしまえばどうせ制作中止になるだろうが、いまは対外的な問題もあるし、制作スタッフにも病気のことは伏せている。公表できる段階になれば、自分のサイトで闘病記を発表するのもいいかもしれない。などなど。
 ひととおり彼が話したところで、死ぬ準備も必要だけれど、生きる準備も必要ではないか、とわたしは言った。父の癌について相談した折りにさる人物からいただいたアドヴァイスの請け売りではあるが、末期癌から生還した例はよくきくし、ただ死を受け入れるのではなく、免疫力を高めるとか、毒出しするとか、やれることはやってみようではないかと。
 徒に確証もない希望を語るのはどうかとは思うが、そんな話をせずにはいられなかった。
 彼も本来は前向きな人間である。わたしの話に興味をもってくれたようだ。

 今家をあとにして駅までの道、歩きながら泣いた。
 こんなことに巻き込んでしまってすまんな、と彼は言ったし、重たいものしょわしちゃってごめんね、と京子さんは涙声だった。
 しかし、いち早く打ち明けられ、相談され、頼みごとをされたことはむしろ嬉しかったし、誇らしくもあった。彼とは30年のつきあいだが、初めてほんとうの友人になれた気がした。
 あとになって京子さんも「初めて夫婦になった気がした」ということを言っていたけれども、同じ思いがあったのだろう。

「おれ、おまえしか友達いないからさ」
 3か月の間に、そんな言葉をなん度か口にしたことがある。もちろん彼には仕事仲間はたくさんいるし、仕事を通じた友人やともに闘った盟友・戦友のような存在もいる。また、遠く離れて会う機会が減ってしまった友人もいる。しかし、身近にいる仕事外の友人、という意味では適当な人材がなかったのだろう。だからこう答えることにしていた。
「お互いさまだよ」

03.

 5月30日。晴れわたった午後。
 新宿のホテルのこぢんまりとしたミーティング・ルームで「元気と自信を注入する会」が開かれた。
 彼の病気のことを平沢さんに話したところ、ぜひ力になりたいというありがたい反応があり場を設けることにしたのだが、実はこのころには彼すでに「元気」であった。
 もちろん肉体的には元気ではないが、精神的には「ハイ」であった。
 たとえ悲観してもけっして自暴自棄になる人間ではなかったが、やれることはやる、という力が湧出してきたようだった。わたしも2冊ばかり免疫に関する本を送ったりしたが、彼、そして京子さんは文字通り必死になって癌と闘う方法を模索していた。
 標準的な西洋医学がお手上げというのなら、非標準的な西洋医学がある。東洋医学もあれば、代替医療もある。眉に唾せねばならないものも多かろうが、まさにダメモトである。標準的な西洋医学だけを信じ、伏して死を待つことはない。

 そうした彼にとってもっとも「良薬」であったのは、平沢進の音楽である。これほど生きる力を与えたものはなかったろう。そして、平沢さん自身もまた不思議とひとを元気にさせる力があった。
「癌? そんなのは風邪みたいなもんですよ。絶対に治ります」そう言って笑う平沢さんの言葉には、彼だけでなく京子さんも原さんも力づけられたはずだ。
 ああ、彼の癌は治るんじゃないかな。不思議な安堵があった。
 いや、実のところ彼の死に至る病を受け止めるには重たすぎて、助けを求めたのはわたし自身でもあったのだ。自分自身が少しでも楽になりたくて平沢さんを呼んだのだ。以来、どれだけ平沢さんが力になってくれたことか。力になる、というより、一緒に闘ってくれたと言ったほうがよいかもしれない。

 今は言った。標準ではない生き方をしてきた自分には平沢さんの逸脱した音楽が合っていたように、標準ではない医療が合っているのかもしれない。死の恐怖の前につい標準に合わせようとしたが、これからは自分に合ったやり方を見つけていきたいと。

 この場は終始明るく、笑いに満ちていた。

新説P-MODEL史

本日発売の『キーボード・マガジン 2010年10月号 AUTUMN』の特集「アーティスト列伝 P-MODEL」を電子書籍よろしくPDFで読んでいる。
自分で言うのもなんだが面白い。
いや、自分で書いたところ以外が面白い。

メインであるP-MODEL歴代キーボード・プレーヤの取材記事は感心することしきり、発見も多い。
さすが四本淑三だ。
機材知ゼロ・楽器知ゼロのわたしでは「プレーヤの心ライター知らず」でこうはいかない。
というか、いままでこういう側面から捉えたP-MODELの包括的記事ってなかったのではないか。
キーボード・プレーヤを軸として機材面・サウンド面から見たP-MODEL史。
ほんと新しいP-MODEL像が見えてくるといっても過言ではない。

取材には同席させてもらったのだが、田中靖美というひとは音楽から離れていてもミュージシャン的かつノン・ミュージシャン的でめちゃくちゃカッコよかった。
同行した特集企画者・中井敏文(モノグラム)感涙。
よく似ていると言われる初期XTCと初期P-MODELだが、同じフレーズも同じ音色も使ったことはないそうで、似て聞こえるとすれば、バンドのアンサンブルのせいであろう、と。

國崎晋編集人が特別寄稿したコラム「跳ねる田中靖美」も名文だなあ。

詳細な解凍P-MODELのサウンド解説ってのも初めてじゃないかな。
ライヴはほとんどシークエンサ任せだとみんな思ってたはず(自分だけか?)だが、リアルタイムで処理していた部分も多かったという。
ヤスチカのキックが実は音は出ていなくてシークエンスのテンポを作るためのトリガーだったとか、驚き。
あの「キーボード要塞」は伊達ではなく、裏では信じられないほどキテレツなことをやっていたらしい。
あ、詳細は記事を読んでくださいね。
そういえば記事にはならなかったけど、80年代のことぶき光がいっつもライヴでガム噛んでたのは、緊張感を高めるための彼なりの工夫だったらしい。

中野泰博Mecano店長による全アルバム・レヴューもものすごい勢いで「P-MODEL早わかり」できちゃう力作。
スペースの都合で入れられなかったけど、廃盤となっている解凍P-MODELの2作は「ゴールデン☆ベスト」というカップリングで入手可能なので、ぜひMecanoで買おう。

話は前後するが、自分で書いたP-MODEL略史も、細かいことは忘れて短くまとめることで実は自分なりに発見があった。
これまで見えなかった骨格が見えたというか。
けど、あんまり書けることじゃないなあ。
要は『パースペクティヴ』でP-MODELはいったん終わってるってことなんだけど、わかるひとにはわかるよね。
掲載された文章自体はビギナー向けで新しい情報なんかないので、予備知識がある方は2ページとばしてください。
あ、その2ページにも写真は珍しいのもあるか。
ほかのページも含めて書籍『音楽産業廃棄物』には載っていないレア写真がけっこうあります。
よく見る写真にしてもやっぱり大きいと迫力が違うしね。

一応、ラストには平沢進のインタヴューもあって、例の煙に巻く名調子で楽しませてくれる。
いつも感心するのは、この記事によらず田中靖美と平沢進の発言というのは、申し合わせたように整合性がとれていること。
不思議に思って平沢進に質問してみたことがあるのだが「なぜ田中とはP-MODELを共有できたかがわかるでしょ」との答え。
P-MODELはノイズと誤用のバンドである、か。
最後の最後で14ページにわたる大特集を台無しにするような「オチ」までつけてくれてちゃってる。

キーボード・マガジン
キーボード・マガジン 2010年10月号 AUTUMN 2010.年9月10日発売 リットーミュージック