音のミゾからハロー 番外篇 デヴィッド・ボウイ

ボウイが逝った。

自分が受けた衝撃と喪失感にむしろ驚いている。
もし、ボウイが2013年に『The Next Day』でカムバックしなかったら、もし、それがあんなに素晴らしい作品でなかったら。
もし、死の2日前の誕生日に新譜『★ (Blackstar)』をリリースしなかったら、もし、それがあんなに素晴らしい作品でなかったら。
こんなふうに感じはしなかっただろう。
ボウイの最後の策略にまんまと引っかかったのだ。

考えてみれば、ぼくがボウイを真剣に聴いていたのは1977年から1982年のたった5年間なのである。
出会いが『”Heroes”(英雄夢語り)』というのは幸福だった。
そこから『Low』『Station to Station 』と遡った。
クラフトワークやニュー・ウェイヴを聴きはじめたころだったので、タイミングもよかった。
たしかそのあとに聴いたのが、名作の誉れ高き『 The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト/屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群)』であるが、最初は「なんだこれ」である。
よく書いているが、ぼくはフォーク・ソングやアコースティック・ギターの弾き語りがほんとに苦手で、この作品世界に入り込むには年月がいった。
ライヴ盤を聴いてからは「Five Years」や「Rock’N’Roll Suicide」も好きになったものの、いまでも、フォークっぽい初期ボウイは苦手である。
同時期のアルバムでは『Hunky Dory』『Aladdin Sane』のほうが好きなくらいである。
ソウルやファンクも苦手なわたしではあるが『Young Americans』『Station to Station』でのいんちきくさいプラスティック・ソウルは大好きである。

しかしながら、ありがちな話ではあるがEMI移籍後のディスコ路線『Let’s Dance』でがっくりし、83年の来日公演 SERIOUS MOONLIGHT TOUR で決別してしまった。
あの剃刀のような「Breaking Glass」を鈍ら刀のようなディスコ・アレンジで聴かされ、ミーハーにも憤ったわけだ。
つまりは、自分にとってのデヴィッド・ボウイはRCA時代のデヴィッド・ボウイなのである。
あー、ありがち、
それでも、もうライヴをやるのはこれが最後という触れ込み(ボウイはそんなことばっかり言ってる)だったので1990年「Sound + Vision Tour」は行ったりしたのである。
そう、すっかり忘れていたが行ったのだ。
東京ドームで観るボウイはやっぱり自分にとってはただのショウでしかなく、どうもしっくりこなかった。
タダ券で酒宴に盛り上がる広告代理店のグループが不愉快だったことくらいしか覚えてない。
自分にとってのボウイのライヴは、岩谷宏のレヴューでしか知らない73年のジギーと、NHK『ヤング・ミュージック・ショー』でしか知らない78年の Low And Heroes Tour である。

そんなこんなで幾星霜、30年ぶりに聴いた新作が『The Next Day』というわけである。
ジャケットからして『”Heroes”』を意識したとわかる作品だが、サウンドが似ているわけではない。
自らの最高傑作を超えるという意味あいだろうが、60代半ばのボウイが歌うラヴ・ソング(だよね?)にやられてしまった。
ザ・ビートルズの「When I’m Sixty-Four」の年齢を超えたボウイが「Valentine’s Day」を歌うわけである。

(↑ぜんぜん違った/2020.04.13)

ここからボウイ熱が再燃し、それまでアナログ盤でしか持ってなかったRCA時代の作品をCDで買い直し、昨年は迷ったけれどもボックス・セットも買って、やっぱり初期フォークのボウイは苦手だと再認識したりしていた。
さてさて『Tonight』(1984)から『Reality』(2003)まで20年間のブランクも埋めるかね、などと思い、なぜか『Earthling』を聴いてがっくりきたりしていたのである。
『★ (Blackstar)』を聴いたあとその思いは強まり『The Buddha Of Suburbia 』『.Outside 』あたりは押さえておこうかと思っていたのである。
正月にT.REXをまとめ買いしてしまったので、来月はボウイかなぁと思っていたのである。
話は逸れるが、T.REXというかTyrannosaurus Rex時代のマーク・ボランが好きになったのはつい数年前である。フォーク嫌いなのでずっと敬遠していたのであるが、ぜんぜんフォークじゃないというか。わたしはフォーク嫌いというより単にボブ・ディラン系が苦手なのかもしれない。アコースティック・ギターでも、Tyrannosaurus Rexはよいです。

閑話休題、ボウイである。

実を言うと、なぜ10代でボウイにあれだけ入れ込んだのか自分でもわかっていない。
それがわかりそうな気がして『The Next Day』『★ (Blackstar)』を聴いていたのかもしれない。

ボウイは70年代におけるロックという概念やイデオロギーを体現していた。
ロックはメディアであり、自分自身もまたメディアであると明示した初めてのミュージシャンである。
それまでもやもやとして曖昧だったロックの概念をはっきりと示し、音楽以上のなにかがあるのではないかという幻想を確信に変えた。
だからこそ、イデオロギー雑誌であった時代の『ロッキング・オン』の看板であった。
強くあるより美しくあれとか、ボウイをメディアとした、岩谷宏の表現もかなり重なっていたと思う。

ちなみに、すっかり名前負けしている株式会社ファッシネイション社名は、ぼくじゃなくて別なスタッフがつけたもので、候補に上がった時には曲名の「Fascination」だと思って「いいんじゃないかな」と言ったのだけど、彼としては「Changes」のフレイズからとったらしい。
「Changes」の Strange fascination, fascinating me♪ ってところ。
まあ「Fascination」の Fascination comes around♪ ってことでもいいのだけど。

そういう意味では、デヴィッド・ボウイの死はロックの死であり、だからこそ、自分でも驚くくらいの衝撃を受けたのだ。
『The Next Day』『★ (Blackstar)』を聴いて、老いや死をテーマにできるミュージシャンはボウイくらいだろうと感じた。
若者にとっての甘美な死の誘惑ではなく、老いと隣り合わせの死。
ボウイほど若くして死ぬことを望まれた(自分自身も一時期はそう望んでいたであろう)ミュージシャンはいない。
「レッツ・ダンス」以降は、RCA時代に死んでいたら伝説になったのにと本気で言うやつも少なくはなかった。

ぼくも一時期はちょっとそうは思ったけれども、かつてのように自分が納得できる作品ができなくてもがき続け、試行錯誤を続けるボウイ(ぼくにはそう見えた)は、100まで生きてほしいと思うようになった。
この先、すごい作品ができちゃったりすることはないかもしれないが、生き続ける姿を見せてほしいと思っていた。

そう思っていたら『The Next Day』がリリースされたのだ。
それは驚くだろう。
ほかのどのミュージシャンも表現できなかった老いや死を引き受けたロック。
ほんとにやってしまった。

『The Next Day』『★ (Blackstar)』の意味がわかるには、まだ20年はかかるかもしれないが、いまは聴き続けるしかない。
などと37.7度の熱でぼーっとしながら思っている。

IMAG0601(書き終わって測ったら、37.9度まで上がってた…)

(結局、38.7度まで上がった…インフルエンザであった…)

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