Fedora 11 PR は動いたか (VI) DVD篇

今日から6月である。
当初の予定ではとっくに Fedora 11 が正式リリースされているはずだったが、5/26→6/2→6/9とのびのびになり、まだリリースされていない。
とはいえ、もうプレヴュー・リリースからは1か月以上が経ち、F11は自分にとってすっかり過去のこと(笑)になってしまっているが、DVDの扱いについてちょっと書いておきたい。

DVD/CDの作成にはKDEのK3bを利用している。
LinuxにはさまざまなDVD/CD作成のフロントエンドがあるけれど、いろいろ使ってみた結果、機能や使い勝手がいちばんいい感じなのがK3bで、ここ数年はずっとこれを使っている。
ところが、F11PRにしたせいか、ハードウェア環境を変えた(ドライヴは変えていないが)せいか、原因は定かではないが、DVDが焼けなくなってしまった。
そう頻繁に使うわけではないのだが、このままでは困る。
試行錯誤の結果「書き込みモード」が「自動」だとエラーが出るようで、ここを「DAO」に指定してやるとうまくいくことがわかった。
なんで?
よくわからんが、ローカルなハードウェア環境が原因の可能性も高いので、とりあえず放置してみる。
DVDドライヴ(いわゆるマルチドライヴ)は2台載せているが、もともと1台は不調というかダメダメだったので、買い換えて試してみようかと思う。

さて、もうひとつは、DVDの再生。
DVDの再生には、MP3などほかのマルチメディア関連技術同様、めんどくさい権利問題があって、多くの非商用Linuxディストリビューションでは、デフォルトではDVDの再生ができないようにしている。
特にFedoraなどプロプライエタリなソフトウェアを入れないことになっているディストリビューションでは、ここらへんは厳密だ。
とはいえ、いわゆるノン・フリーなソフトウェアも、サードパーティでパッケージ化されて配布されており、今は RPM Fusion あたりに集積しているので、YUMのリポジトリに加えておけば、さほど苦もなくDVDの再生もできる。
ここでDVDやCSSの規格そのものの問題は取り上げないけど、ちょっと古いがここらへんの記事が参考になるか。
www.atmarkit.co.jp/flinux/rensai/linuxtips/299playdvd.html
shino.pos.to/linux/css.html

ところが、ライセンス問題がいよいよこじれてきたのか、単にプレヴュー段階なので作られていないのかはわからないが、libdvdcssだけはFedora11用にパッケージ化されていないようなのだ。
しょうがいないので、自分でソースをRPMにしてインストールする。
いや、べつにRPMにしなくてもいいんだけどさ、気分の問題。

まずはここからソースファイルを入手。
download.videolan.org/pub/libdvdcss/1.2.10/
libdvdcss-1.2.10.tar.bz2 でも libdvdcss-1.2.10.tar.gz でもお好みで。
SPECファイルが同梱されているので、まずはrpmbuildでコンパイルしようとするがエラーが出る。

$ rpmbuild -ta libdvdcss-1.2.10.tar.gz
エラー: ファイル /tmp/libdvdcss-1.2.9.tar.bz2: そのようなファイルやディレクトリはありません

SPECファイルを見ると、古いlibdvdcss-1.2.9.tar.bz2のものをそのまま同梱しているようだ。
なので、tarボールを展開してlibdvdcss.specを書き換えて再圧縮する。
このあたり、今どきのディストリビューションはGUIでできるから簡単だ。

2行目
%define version 1.2.9
→%define version 1.2.10

23行目
Source: %{name}-%{version}.tar.bz2
→Source: %{name}-%{version}.tar.gz

再びrpmbuildするがまたエラー。

$ rpmbuild -ta libdvdcss-1.2.10.tar.gz

伸張ファイルの検査中: /usr/lib/rpm/check-files /home/kasiko/rpmbuild/BUILDROOT/libdvdcss-1.2.10-1.x86_64
エラー: インストール済み(ただし未伸張)ファイルが見つかりました:
/usr/lib64/pkgconfig/libdvdcss.pc

RPM ビルドエラー:
インストール済み(ただし未伸張)ファイルが見つかりました:
/usr/lib64/pkgconfig/libdvdcss.pc

なんだろ、と思って調べてみると、ファイル指定が足りないらしい。
lab.hde.co.jp/2008/10/-orz.html
2000.blog.so-net.ne.jp/2008-06-05-2

92行目あたりの以下のセクションに追加

%files -n %{libname}
(省略)
/usr/lib64/pkgconfig/libdvdcss.pc

めでたく rpmbuild が通って ~/rpmbuild/RPMS/x86_64/ 以下に次のパッケージができあがったのでインストール。
libdvdcss-debuginfo-1.2.10-1.x86_64.rpm
libdvdcss2-devel-1.2.10-1.x86_64.rpm
libdvdcss2-1.2.10-1.x86_64.rpm

DVDの再生だが、Fedora 11 には、マルチメディア再生フロントエンドがたくさんパッケージ化されている。
MPlayer系だけでも、GNOME MPlayer, SMPlayer, KMPlaye があり、ほかにも Xine, GXine, VLC, Totem, Kaffeineなどなど。
ざっと使ってみたところ、どれも一長一短あるが、Qt系のSMPlayerがいちばんいい感じなので、とりあえずはこれを使っている。
ほんとは Amaroc や Audacious にDVD再生機能ががあればいいんだけどな。

SMPlayer
SMPlayerはWindows版などもあるようだ
smplayer.sourceforge.net/

Fedora 11 PR は動いたか (V) サウンド篇

せっかくだからマザーボードに添付されたドライヴァを入れてみようかと思ったら、インストーラがコケて音が鳴らなくなってしまった。
試行錯誤した結果、 /lib/modules/2.6.29.2-126.fc11.x86_64/kernel/sound/ 以下がきれいさっぱり消え失せていることが判明。
結局、カーネルを再インストールして解決。
このような人間が書いている文章だから、以下の記述も、使い手に問題があるのかもしれないと思って読んでいただきたい。
(どういうお願いだ)

さて、Fedora11からデフォルトのサウンド・サーヴァとしてPulseAudioが採用された。

Fedora 11 Overview
properly set up sound sources. These are all exposed in the volume control on the desktop, making for a very confusing user experience. PulseAudio allows us to unify the volume controls in one interface that makes setting up sound easier and more pain-free.

PulseAudioが導入されたのはFedora10からだったように記憶しているが、違ったかもしれない。
と思って調べてみたら、Fedora8からあったぽい。
使ってなかったんだな、きっと。

PulseAudio はアプリケーションごとにサウンドの設定ができるのがウリらしいが、要はWindowsVistaで採用されたサウンド設定なんかと一緒の仕組みである。
実はVistaでもあれが非常に使いにくくてイヤだったのだ。
マシン上にサウンド・デヴァイスが1種だけならいいのだろうが、複数ある場合、非常にやりにくい。
たとえば、録音デヴァイスを選択したり、録音レヴェル調整したりといった設定がわかりにくく、手間がかかる。
(う〜ん、自信ないな…悪いのは自分なのか?)

PulseAudio でも同様のことが言え、しかも、使いにくいだけではなく、音が小さい、ブツブツとノイズが入る、動作が不安定、といった問題がある。
特にQt系アプリケーションとの相性が悪いようで、KDE系では使わないほうがよいようだ。
個人的に致命的なのは、よく使うプレーヤのAudaciousで音が鳴らないこと。
どうも alsa-plugins-pulseaudio にバグがあるようだ。
バッファを調整すればよいようなことを書いてあって、確かにそれで改善したこともあったのだが、なんだか鳴ったり鳴らなかったりで、alsaで鳴らしたほうがずっといい。
www.pulseaudio.org/wiki/PerfectSetup#Audacious
Fedora11PRは日々アップデートしているので、こうした問題もすぐに解決するかもしれないが、とりあえず2009年5月11日時点では、そうした不具合がある。

Fedora10までならば PulseAudio をアンインストールすればよかったのだが、Fedora11ではなぜかGnomeのサウンド設定が PulseAudio と一体化していて、サウンド・サーヴァの選択ができないなのだ (KDEではちゃんと選択できる)。
実は、インストールした時点では、Fedora10と同じサウンド設定ツール (gnome-sound-propaties) があったのだが、アップデートしているうちに gnome-volume-control と置き換えられしまった…ようなのだ。
「ようだ」の連発で申し訳ないが、初期状態に戻して検証するのがめんどくさい、
どうせ正式リリースまでにはまた変わるだろうし。

とりあえず alsa-plugins-pulseaudio だけアンインストールして、alsaを使うアプリケーションではPulseAudioを通さずalsaを直に使うことにする。

ちなみにこれがFedora10までのサウンド設定ツール(gnome-sound-propaties)とミキサ・ツール(gnome-volume-control)。
Fedora10のミキサ・ツール(gnome-volume-control)からはデバイスの選択もできた。

gnome-sound-propaties

gnome-volume-control

こちらがFedora11PRのサウンド設定ツール。

gnome-volume-control F11

gnome-volume-control

gnome-sound-propaties がなくなって、gnome-volume-control に置き換わってしまった。
ヴォリューム調整アプレットの「サウンド設定」でも「システム→設定→ハードウェア→サウンド」でも同じ gnome-volume-control が起動する。
ログインの効果音やイヴェント音といった設定もできなくなってしまった。
Fedora11版の gnome-volume-control ではデヴァイスの選択ができないので、alsaを使っているアプリではalsaのミキサを別に起動しなくてはならない。

こちらは、PulseAudio Volume Control (pavucontrol) というツール。
gnome-volume-control より詳細な設定ができ、デヴァイスの選択も可能なようだが、すぐにクラッシュして使い物にならない。

PulseAudio Volume Control

というわけで、Fedora11PRの、というかGnomeの、というかPulseAudioの使い勝手もろもろでした。
F11PRについて5回にわたってちゃごちゃ書きましたが、全体としては、よくできてるんじゃないでしょうか。
ハードウェアを変えてしまったので単純比較はできませんが、動作が軽くなったという話も聞きます。
わたしの場合は、ハード環境が4年くらい一気に進化してしまったので、そりゃもう、軽快です。
アプリケーションってこんな瞬間的に早く起動するもんだったのね。
ext4のよさはまだ実感できてませんが、OSの起動が速くなったは関係しているのかなあ。
まあ、そういった話はまた追々。

Fedora 11 PR は動いたか (IV) ネット関係とか 篇

Fedora10同様にFedora11PRも、ログインするとなぜかeth0の接続が切れる。
OSのブート時にはちゃんと起動されているデバイスなのだが、どうも解せん。
NetworkManagerを抜いてしまっているせいかもしれない。
仕方がないので、rc.localにnetworkをrestartさせるよう書いておく。

Firefox3.5あれこれ

Fedora11ではデフォルトのブラウザとして、Firefox3.5のβ版がインストールされる。
Firefox3.5はβ版だけに、対応していないアドオンが多い。
それはちょっと困るので、Firefox3.0にしたいというのが人情。
しかし、Fedora11PRではFirefox3.0のパッケージは用意されていない。
正式リリースのFedora11でもたぶん同じだろう。

Fedora10用にはFirefox3.0のパッケージがあり、64bit版もある。
ところが、これを入れるとなると、依存関係の解消するのに入れ替えなければならないパッケージが100以上あったりして、非常に面倒なことになってしまうので、パス。

ならば32bit版のTarボールでFirefox3.0をインストールすればよかろうと思う。
Firefox3.0互換のFlockでもよいだろう。
ところがだ。
なぜか32bit版のFirefox3.0やFlockでは、Atokで日本語入力できないのだ。
非GTKアプリ同様に、.bashrc とか .Xresources とかになんか書いておけばよいのかとも思うが、ようわからん。
検索したところ、Atokではないが、iiimxのバグ(?)としてFedora10環境でも同様の報告がなされていたので、諦めることにした。

消極的な解決策として、使えないアドオンのうち、同機能で3.5対応のあるものはそっちへ乗り換え。
幸い、常時使っているアドオンはだいたい3.5対応が見つかったので、あとは3.5対応は時間の問題と諦めることにした。
3.5対応の代替アドオンがないやつを使ってサイトを見るだけならFlockでも立ち上げればよい。

今回、OS自体は新規インストールしたが、ホーム・ディレクトリはFedora10(32bit)環境から引き継いでいる。
なので .mozilla/plugins/ なんかも旧環境のままだが、プラグインはデフォルトの状態でだいたいOKなようだった。
Flashプラグインは、32bit版でも環境によっては動くのだけど、今の環境ではブラウザごと落ちてしまうので、64bit版のα版を入れる。
こちらは問題なく動作。
labs.adobe.com/downloads/flashplayer10.html

AdobeReader(Acrobat)のプラグインは入れているにもかかわらず、なぜかPDFをブラウズするとEvinceが起動するが、これはかえって望ましい動作なのでよしとする。
Evinceで機能的に不足はないし、動作が機敏であるからして。

Skypeとか

Skypeはオフィシャルに配布されている32bit版が動作するが、これも32bit版ライブラリが必要となる。

# rpm -ivh /tmp/skype-2.0.0.72-fc5.i586.rpm
警告: /tmp/skype-2.0.0.72-fc5.i586.rpm: ヘッダ V3 DSA signature: NOKEY, key ID d66b746e
エラー: 依存性の欠如:
libQtCore.so.4 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています
libQtDBus.so.4 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています
libQtGui.so.4 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています
libQtNetwork.so.4 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています
libXss.so.1 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています
libXv.so.1 は skype-2.0.0.72-fc5.i586 に必要とされています

# yum provides libQtCore.so.4
Loaded plugins: refresh-packagekit
1:qt-4.5.0-14.fc11.i586 : Qt toolkit
Repo : fedora
Matched from:
Other : libQtCore.so.4

同様にほかのライブラリも yum provides で調べて下記パッケージをインストール。

# yum install qt-4.5.0-14.fc11.i586 qt-x11-4.5.0-14.fc11.i586 libXScrnSaver-1.1.3-2.fc11.i586 libXv-1.0.4-2.fc11.i586

依存関係の解消で22パッケージがインストールされる。
サウンドの入出力に問題があったりするが、それはPulseAudioのせいなので、また次回にでも。

CompizFusion

▲CompizFusionを導入して、ワークスペースを一覧したところ。VirtualBoxも問題なく動作。

Fedora 11 PR は動いたか (III) ATOK X3 for Linux 篇

マザーボード ASUS M4A79T Deluxe がLinuxで動作するかどうか不安があったが、あっけなく動いた、という話を書いた。
ところがこのマザーボード、実はちゃんとLinux用ドライヴァがCD-ROMに収録されていたのである。
そんなに心配することはなかったのである。
Express Gate をインストールしようとして初めて気づいたのだが、そういうことはちゃんと商品紹介ページに書いておいてもらいたいものである。
それとも、今どきのマザーボードはLinuxドライヴァが用意されていて当然なんだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
たぶん「Linux Ready」とか謳うと、サポートがめんどくさいんだろうな。
あくまでLinuxのサポートはおまけってことで、こっそりドライヴァを添付しているわけだ(断定)。
でもまあ、もちろんドライヴァはないよりはあったほうがよいわけで、幸いFedora11は苦もなく動いたが、そうじゃないディストリビューションだってあるはず。

Fedora11PR
▲カスタマイズしてしまっているのであまり役に立たないFedora11のスクリーンショット。 一応、右下にATOKパレットが見える。

というわけで、OSはとりあえずちゃんと動いたので、環境整備その1、ATOK X3 for Linux のインストール。
結果から言えば、これもFedora10(x86_64)と同様、ちょっとした手間をかければ問題なく動く。
まずはここらへんを参考にしていただきたい。

備忘録替わりに、段取りを書いておく。
だいたいはrootで非X環境(Control+Alt+F2)の作業になる。
ATOK X3 は64bit対応なのだが、やはりライブラリがないとか場所が違うとかの問題が多々ある。
最初に以下のようにリンクを張っておかないと、インストーラがコケる。

# ln -s /etc/gtk-2.0/x86_64-redhat-linux-gnu/gtk.immodules /etc/gtk-2.0/gtk.immodules
# ln -s /usr/bin/gtk-query-immodules-2.0-64 /usr/bin/gtk-query-immodules-2.0

あとはCD-ROMから通常通りインストール。
アップデータ atokx3up2.tar.gz をダウンロードしておき、/tmpなどに展開、インストール。
サンプルスクリプトで設定ファイルを作成し、起動設定する。
ついでにIIIMF ステータス非表示ツール(iiimf_status_hide.gz)をダウンロードし、/tmpなどに展開し、それもインストール。

# /media/ATOKX3/setupatok.sh
# /tmp/atokx3up2/setupatok_up2.sh
# /opt/atokx3/sample/setting_redhat5.sh
# cp /tmp/iiimf_status_hide /opt/atokx3/sample/

iiimf.conf を編集する。

# vi /etc/X11/xinit/xinput.d/iiimf.conf

コメントアウトしているのがデフォルトの設定である。

IM=iiimx
#XIM_PROGRAM=iiimx
XIM_PROGRAM=/usr/bin/iiimx
XIM_ARGS=-iiimd
GTK_IM_MODULE=iiim
QT_IM_MODULE=xim
#gnome-im-settings-daemon > /dev/null
DISABLE_IMSETTINGS=true
export HTT_DISABLE_STATUS_WINDOW=t
export HTT_GENERATES_KANAKEY=t
export HTT_USES_LINUX_XKEYSYM=t
export HTT_IGNORES_LOCK_MASK=t
export JS_FEEDBACK_CONVERT=t
/opt/atokx3/sample/iiimf_status_hide

前は /opt/atokx3/bin/atokx3start.sh >& /dev/null と書いていたが、DISABLE_IMSETTINGS=true で済むようだ。
ここまでの作業が終わったら、一般ユーザでログインし直し、ターミナルから以下のコマンドを入力する。

# /opt/atokx3/bin/atokx3start.sh

たいていは32bit版ライブラリが足りないというエラーが出るので、そのライブラリをyumでインストールしていく。
足りないライブラリがどのパッケージかは、こんな感じで調べておく。

# yum provides xxxxx
# yum install xxxxxx.i586

足りないライブラリをインストールしていき、iiimx が動作するようになれば問題ない。

$ iiimx
iiimx : Error - iiimx is already running...

…のはずなのだが、ここに落とし穴があった。
一見、ライブラリ不足のエラーが出なくなって、ちゃんとiiimxが動いているようでいても、実は動いていないということがある。
上記の状態になってもAtokが起動しないようならば、いったん、iiimxを停止して、再度起動してみる。

# ps ax | grep iiimx
3007 ? S 0:00 /usr/bin/iiimx -iiimd
# kill 3007
# /opt/atokx3/bin/atokx3start.sh

すると、またまたエラーを吐いていたりするので、yumでライブラリを追加していく。
わたしの環境では、結果的には以下のようなライブラリを追加インストールして(依存関係の解消で結果的にはさらに多くのライブラリが入る)Atokが動くようになった。

# yum install glibc.i686 libSM.i586 libX11.i586 libXt.i586 pam.i586 tcp_wrappers-libs.i586 libstdc++.i586 gtk+.i586 glib.i586 gtk2.i586 libxml2.i586

終わってしまえばこれだけなのだが、上記の落とし穴のせいでまたしてもはまってしまった。


5/12追記

Atokの変換候補の語句説明が、なぜか縦書きになるなどの不具合が確認された。
あまり使わない機能だし、読めないこともないからいいが、こんな感じ。

atok_01atok_02


6/4追記

解決した。

ATOK X3 for Linux が GTK+ 2.16 に対応

Fedora 11 PR は動いたか (II) インストール篇

所有するハードのことを事細かに書くのはあまり好きではないのだが、これも日ごろお世話になっているLinuxコミュニティへのささやかな貢献だと思ってインストール環境を記しておく。

ASUS M4A79T Deluxe (790FX+SB750)
AMD Phenom II X4 955 3.2GHz (Socket AM3)
SILICON POWER DDR3 1333 (PC3-10600 ) 2GB x2

あと5年は使うつもりで、一応最新のものにしてみた。
メモリは安もんだが…って、ほっとけ。

マザーボードも久々に選んだわけだが、今はチップセットとか、表だってスペックに出る基本性能以外の部分もすごく気を遣っているいるのね。
たとえば「日本製アルミ固体タイプコンデンサを使用」とか、冷却機構がどうとか、耐過電圧とか、信頼性を強調するようになっている。
ほんとはオーバー・クロックとかマルチ・グラフィック・カード対応とかはぜんぜん興味がないのに関わらず、このボードを選んだのも、なんか基本設計がちゃんしてそうな気がしたからである。
5年は使うつもりだし(笑)。
あと、オンボードのグラフィックが「ない」のも隠れたポイント。

買う前は気にも留めていなかったのだけど、フロント・パネルのスウィッチ類やLED類のケーブルを接続する際のガイドとなるアダプタ(Q-Connector)だとか、バリなしのフラットなバック・パネル(Q-Shield)だとかは、実際に使ってみるとけっこう便利。
そういう附加機能もウリになっているようだ。
BIOSの更新がBIOSから行えたり、BIOSの更新に失敗した時に書き戻せるようBIOSがツインになっていたり、マザーボード上にセットアップ時のための電源スウィッチがついていたり。
今は当たり前の機能なのだろうが、いやいや至れり尽くせりだ。
USBメモリを使ったBIOS更新なんて、どうせルート・ディレクトリしか認識しないのだろうと思ったら、ちゃんと下の階層まで下りていけるのには驚いた。
…驚くところじゃない?
クイック起動のオンボードLinux”Express Gate”は、Windowsがないとインストールできないらしいので、今のところパス。

ASUS M4A79T Deluxe

www.asus.co.jp/products.aspx?l1=3&l2=181&l3=896&l4=0&model=2818&modelmenu=1
www.unitycorp.co.jp/asus/motherboard/amd/socket_am3/m4a79t_dx/
www.mvkc.jp/product/asus/motherboard/socketam3/m4a79t_deluxe.php

さて、肝心のFedoraの動作だが、特に書くことがないくらい、あっさり動作した。
まずは試しに Fedora 11 Preview Release (x86_64) のLiveCDで起動したところ、普通に起動。
ざっとFedora11PRのデスクトップを見て回る。
次に、ものは試しと、これまでPentium4環境で使っていたFedora10(32bit)の入ったハードディスク(SATA)をつないでみたところ、なんの問題もなく起動。
いやあ、Linuxも進歩したもんだ、なんだ、OSを入れ替える必要がないんじゃないかと思う。
ま、つまらないので、結局はOSも入れ替えたけど(笑)。

いよいよ、Fedora11PR(x86_64)のインストールDVD版の新規インストールであるが、これまたつまらないくらい、あっさりと、なにも躓くことなくインストール完了。
考えてみれば、最新のマザーボードとはいえ、チップセットは初物ではないし、オンボードのLANもサウンドもRealtekのチップで、メジャーどころであるから、そう問題はなかったはずだ。

fedoraproject.org/ja/get-prerelease

ちゅーわけで、次はおなじみAtok格闘篇。

Fedora 11 PR は動いたか (I) 買い物篇

連休というと、ここ数年はPCのメインテナンスとか、ネットワークのメインテナンスとか、そんなことばかりやっている気がする。
いや、数年どころではないな。
初めて事務所のファイル・サーバとしてLinuxを導入したころだから、1997年とか1998年とかそれくらい、もう10年以上になるだろう。
事務所が無人と化し、かつ、自分も暇な時期ということで、5月の連休が選ばれたような気がする。
当時、本業はPC系ライターのWが「専属SE」をやってくれていて、試行錯誤を繰り返しながら、Linuxをインストールしたのもすでに遠い記憶だ。
以来、毎年連休になるとWと2人でPCをバラしてパーツを交換したり、OSを入れ替えたり、ネットワークを組み直したりといったことをやっていた。
年末の大掃除と同様、年中行事のようなものだ。

今年の連休は、自分のメイン・マシンの環境を4年ぶりに一新した。
自作PCが趣味の人間は毎年毎年PCを新調するようだが、強迫的に買い換えやアップ・グレードを唆すハード&ソフト・メーカの策謀に乗る気はしないので、PCを新調するのは4年とか5年に1度である。
80年代〜90年代後半までの、次々と目新しい技術が出てきたPCの発展途上期ならば、次々と新しいマシンに乗り換えたくなる気持ちもわからないではなかったが、90年代末からはそうした画期的かつ狂騒的な変化というのもなくなってしまった。
だいたい、事務職の人間がやる仕事内容なんてこの10年でそんなに変わっていないというのに、なんでこんなにマシン・パワーがないとOSすら動かないのだ。
おかしいではないか。
というような話をもう10年もしているような気がする。

しかし、いくら急激な変化がなくなったとはいえ、5年も経てばさすがにPCのアーキテクチャも様変わりしている。
そもそも自作PCが趣味なわけではないので、情報を常時仕入れているわけでもなく、現在のPCがどういうアーキテクチャになっているのか、CPUやメモリの規格などをイチから調べなくてはならなかったりする。
といっても、PC雑誌を買ってきて購入するほど気合いが入っているわけではなく、ネットでさらっと検索した結果、なんとなく今はAMDが面白そうだという気がして(さしたる根拠はない)10年ぶり(やたら10年という語が多いな)にAMDマシンを組むことにした。
ドライヴ類は買い換えたばかりなので、CPUとメモリとマザーボードの換装となるが、AMDマシンならば、最新かつ最上位のパーツでも5万円程度で済んでしまいそうだ。

問題は最新かつ最上位のパーツでLinuxが動くかどうかであるが、動かなかったらしばらく寝かせておけばいいくらいの呑気さである。
昔はLinuxをインストールするなら「枯れたパーツ」とよく言われたもので、実際そうでなければドライヴァがなくて動かなかったりした。
しかし、ここ数年は素性の悪いパーツでない限り、少し待てばだいたいなんとかなるようだ。
4年間使ってきたマザーボードも、買った当初はオンボードのLANやサウンド・チップを動かすのに苦労したが、1年も経たないうちに自動的に認識して標準ドライヴァで動くようになってしまった。
面倒なことが多いラップトップも、同じような感じだった。
どうせ新規インストールするのだから、最初はちょっと冒険して、出たばかりの64bit版Fedora11のPreviewReleaseをインストールしてみる予定である。
だめだったら、ラップトップで問題なく動作している64bit版Fedora10にすることにしよう、そうしよう、さようなら32bitOSよ。

とか思いながら、久々にいざ秋葉原へ。
おもむろに中央通りを歩いていくと、旧・日通本社ビルの跡地にベールならぬ養生シートを脱いだ巨大ビルが威容を現していてびっくり。
ふとその向かいを見ると、ヤマギワがソフマップになっていたりする。
調べてみると、すでに1年半も前にオープンしていたらしいが、ぜんぜん気がつかなかったよ、用がなかったしな。
ビックカメラの傘下となっただけあり、家電量販店のような店構えである。
潰れたツクモはヤマダに買収されて復活してるし、しばらく行かないといやはや秋葉原も大いに変わっているね、キミ、まったく。
店終いしたまま放置されているラオックス・ザ・コンピューター館はいったいどうなるのだろう。

その半面、小さなパーツ・ショップはどんどんだめになっていきそうな感じ。
昔みたいに怪しい(=面白そうな)バルクのパーツなんてものもあまり見かけなくなり、店頭はリテール品ばかり。
リテール品にしても、昔は大型店よりかなり安く入手できたりしたが、今は大型店舗や通販専門店に価格的に太刀打ちできないことが多い。
かく言うわたしも、いろいろなショップを見て回ったものの、結局、件の大型家電店のようなソフマップで購入してしまった。
だって、いちばん安かったんだもん。
「GW特価」とやらで、下調べした通販価格より安かったのだもの。
しかも、MBとCPUを一緒に買うとさらに値引きなんだもの。
と、なぜに言い訳しているのか。
ま、いい。

次回、インストール篇へ続く。

キミは点呼されたか

インタラクティヴ・ライヴの「三が日」も終わり、はや5日が過ぎた。
ほうぼうのサイトでレポートを見かけるようになり、今さら書くのは後出しジャンケンのようで気が引けるが、まだ「松の内」ということでお許しいただこう。
(って誰に?)
曲目などはライヴ直後にNEWSに掲載したが、ようやく脱力から復活し、感想めいたものを書く気になったのだ。

アルバム・レヴューで「ディストピア3部作」などという言葉を使ったけれど、ライヴを観て、まあ、それもあながちハズレではなく、平沢進なりに「けり」を付けたのだなあ、というのが第1の印象。
Astro-Ho!が「私がこの惑星に来てから9年の月日がたった」と言っているように、起点は2000年なのだ。
アルバム同様、ライヴも「ディストピア3部作」となっているのは間違いない。

ただ、前2作においても、決して自らの内側を問うことを忘れなかったのが、平沢である。
そして、今回はアルバム、ライヴともに、視点は外的事象より、むしろ「内なるディストピア」に向けられている。
ファンクラブの会報インタヴューで平沢は次のような要旨のことを語っている。

  • 『点呼する惑星』は情勢の話ではない
  • 内なるディストピアを放置したまま、外的なディストピアに真剣に立ち向かおうとしている人の滑稽さを描いている
  • (要約は高橋による。ちゃんと読みたい方はGreenNerveにご入会ください)

アルバムでは、聴く者の想像力に任せた部分が大きいが、ライヴではそうした要素がより具体的、直截的に説明されていた。
ここで重要なのは「滑稽さ」というキー・ワードだ。
アルバム、ライヴともに、B級SF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』の「ゆるい」「だるい」世界観やテイストが大きく影響しているわけだが、その核にあるのは「滑稽さ」だろう。
滑稽さ、笑い、というのは、言葉を置き換えると客観性である。

ライヴのもっとも重要なアイテムである「トゥジャリット(詐欺)」は、自らが作り出したものであり、簡単に換言するならば「先入観」ということだろう。
もちろん、平沢自身にはもっと別の考えがあるだろうし、トゥジャリットが壊れた時に何故なかからカンカンに怒った「幼児Lonia」が出てくるのか、とか、3種のペルソナ「AAROM」はなにを意味しているのか、とか、いろいろあるわけだけど、この際、そういうことは深く考えない。
まあ、単純に解釈するならば、怒り・悲しみ・恐怖といった強い感情に支配されている時は、外から自分を見る目を失い、自らの感情に支配されてしまうし、その中心にあるのは幼児性だ、などと言うこともできるが、ぜんぜん違っているかもしれない。
(そっから発展させると、空とか禅とかになりそうだけど、よくわからんしな)
でも、そんなん違っててもいいじゃん、と観客がラクな姿勢で楽しめるところが、今回のライヴのいいところである。

そう、今回のライヴは「説明しすぎない」ところがいいのである。
言葉を換えるなら「詰め込みすぎない」ということだ。

ライヴに日参した某アニメーション監督は、しきりに「バランス」という言葉を使っていたが、確かに今回は、音楽・物語・CG・ 文字情報、ゲストのパフォーマンス、そしてネット参加と、どれもが「いいあんばい」なのであった。
じゃあ、今まではバランスが悪かったのかというと、そういうわけでもなく、あのスタイルなりのバランスはあったと思う。
しかしながら、濃すぎ、言い過ぎ、演出しすぎ、難解すぎ、という側面も確かにあって、すべての要素が過剰なところでバランスを取ろうとしていた、とも言えるだろう。
それでも「Limbo-54」などは、その過剰さの臨界点で実を結んだ最高のパフォーマンスだったと言える。

しかし、そんなことは平沢自身がいちばんよくわかっていて、そもそも前の「Live 白虎野」の時点で、新しいスタイルへ移行したがっていたのである。
できれば物語性を廃して、もっとシンプルな構成にしたいというようなことを言っていただが、結局は「Limbo-54」の延長線上にあるスタイルになってしまった。
要はタイミングである、時機でなかったのだ。

今回のライヴで「風通し」がよくなった最大の要因はやはり、ゲストのSP-2によるパフォーマンス。
彼女達によって肉体性の比重が高まった意味は大きいだろう。
特に道化役 Rang のパフォーマンスは、会場の雰囲気を大きく変えた。
また、物語設定やテキストにも笑いの要素がふんだんに盛り込まれていたために、いわゆるバッド・エンディングでもブルーにならず楽しめた。
「父さん…」なんて古谷徹の声で脳内再生されたが、果たして飛雄馬なのかアムロなのかわからんかったよ。
(あ、飛雄馬なら「父ちゃん」か)

まあ、バッドでも振りだしに戻っただけで、兄弟で暮らせていいね、って感じ。
逆にグッド・エンディングでも「それなりのカタルシス」はあるものの、世界が一変するわけでもなく、そこには日常があるだけ。
また日々を生きるだけだよ、あとは自分でなんとかしてね、と。
そこも『キン・ザ・ザ』っぽいわけだが、非常に見ていて清々しい。
ただ、オチに「私のトゥジャリット」云々の台詞を持ってくるのは、ちょっとずるい気がしたけど(笑)。

さて、今回は楽器回りにも変化があったのは周知の通り。
キーボードがなくなって、とうとう「普通の楽器」はギターだけに。
かわりに登場したのが、レーザー・ハープみたいな新楽器。
名前はまだ無い。

これは、beamz というレーザー光線がトリガーとなって音を出す楽器をバラバラにして組み直し、パーツを附加しているわけだが、チューブラー・ヘルツ、グラヴィトンと続く、伝統の芸風である。
これを買えばすぐに平沢的パフォーマンスができると思ったら、甘い。
実はこのマシン、オリジナル音源を仕込むようにはできておらず、仕様も公開されていないのだ。
本来は発売元が販売する音(曲)をロードするだけになっているので、オリジナルの音を鳴らすには、自分で手を入れなくてはならない。
平沢版は、ハードとソフト、両面からハックした独自仕様なのだ。
にしても、平沢は製品版が出る以前、プロトタイプがWebで発表された段階からコイツに目を付けていたらしいが、いったいどんなレーダーを持っているのか、不思議である。

ミュージカル・テスラ・コイル(Zeusaphone)も今回はパワー・アップ。
前回(PHONON2551)よりもファラデー・ケージを大型化したため、その分、スパークも大きくなった。
もともと設計では150cm以上のスパーク出ることになっていたのだが、ほんとにあんなに大きなスパークが出るとは思わなかった。
疑ってごめんよ、スティーヴ。
しかも、今回は山車に乗って現れる新趣向。
トゥジャリット破壊にもひと役買って電撃をお見舞いした。

アルバム『点呼する惑星』と同様、ライヴ「点呼する惑星」も、この10年を総括すると同時に、新しい方向性を示すものとなった。
2010年代の平沢進がなにを見せてくれるか、非常に楽しみである。

…と、音楽ライターみたいに締めておこう。

春来たりなば夏遠からじ

なんてことはシェリーは書いていないわけだが、あっという間に3月も終わり、もうすぐ4月である。
このぶんではすぐに夏が来てしまいそうだ、イヤだけど。

庭では桃の花が満開だ。
桜と違って桃はなかなか散らず、寒の戻りもあってか、2週間ほど満開状態を維持している。
などと時候の挨拶ではなかった。

1980年代 全ドラマ・クロニクル

80's drama chronicle

学研
TV LIFE編集部/編
2009年3月31日発売
定価 4410円
B5判・368ページ
www.tvlife.jp/

10日ほど前までこのような本の編集作業に忙殺されておりました。
わたしはB5判で分厚くて高額な本の専門編集者なのだろうか(苦笑)。
この本は(あくまで予定だが)1990年代、2000年代も企画されていて、反応がよければ、またすぐに作業が始まる。

オフィシャル・サイトにはまだ情報が上がってないようだが、書店サイトを見ると、なんか値段が違ってるな。
ひょっとすると値下げしたのか値上げしたのか。

www.7andy.jp/books/detail/-/accd/R0403952
www.bk1.jp/product/03089668

正確な情報や表紙写真など、またアップいたします。
1か月ぶり以上の更新ですが、今日はここまで。

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4/6追記
リンクと写真を追加。
価格は4410円(税込)で正しかったようで、上記販売サイトでも修正されていました。

点呼する惑星 (4)

平沢進は「からくりお江戸」に住むのがよいのではないかと思う今日このごろ。
団子はお嫌いか?

8. 可視海

ミドル・テンポのリズム・ボックスのイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

かったるいリズム・ボックスにウィスパー・ヴォイス。
自称スペイシーなボトルネック。
高揚と沈静の両面をもったヘンな曲。
計算された「ゆるさ」や珍しく「甘い」ギターがいい。
ちょっとロキシー・ミュージックを思い出しました。
これまたいかにもインタラクティヴ・ライヴの終盤に位置しそうな、ちょっとヘンな次元を感じる。
「ヘン」しか語彙がないのか。

9. Phonon Belt

ホルンに坊主のオペラ。
アルバム中もっとも美しく懐かしいメロディと歌声に包まれる、もっとも安心して聴けるドラマティックな曲。
歌詞的にも「裏主題歌」と呼びたくなるアルバムを代表するナンバ。
平沢らしい「記憶掘り起こし」手口満載。
まさに「見たこともないのに懐かしい」元型刺戟曲。
これまたライヴのクライマックスに似つかわしい。
…って、クライマックスばっかりか。
ライヴの中盤を盛り上げる曲はないのか…いや、あるけど。
でも、そういやPhantomNotesで本人も書いてたな。


よく思うのだが、私の曲はほとんどが何かのエンディングテーマのように聞こえる。何かが終わり、良くも悪くも全てを綺麗さっぱり置き去りにして異境へ向かう感覚が目標だったりもする。


すごい自己分析力。
これ以上、言うことなし。

10. Astro-Ho!帰還

そしてラストでふたたび奈落へ。
M2に呼応するだるくかったるいワルツ。
ハープが奏でるもの悲しくも美しいメロディが被さった平沢流ジンタPartIIだ。
ここから始まる物語でもよかったのではないかと思えるが、リスナーを奈落へ突き落とし、いやあああああな余韻をぶった切る悲鳴でアルバムは終わる。
キャ→
「パレード」で終わった『白虎野』にも通じるが、あのように重い気分ではなく、あーバカバカしかった、と誰にも看取られず最期を迎えることができた一生だ。

悔やまれるのは「ASTRO-HO-06」が収録されなかったこと。
いや、収録の予定があったとかそういうわけじゃないのだけど、アルバム未収録なんだし。
せっかくアストロ・ホーが主人公なんだし(決めつけ)サウンドもメロディもぴったりこのアルバムにはまると思うのだが。

たぶん続くがいつとは言えぬ。

点呼する惑星 (3)

菊池桃子さんと花粉症と80年代について語らった日は100枚もの写真に映った人物の肖像権をクリアしなくてはならない日。
…と、某三行logを真似てみながら、さあ続き。

点呼する誘惑星

3. 人体夜行

シンフォニックなシンセにかぶさるモジュレートされたブリープ。
ピアノとティンパニが奏でる平沢らしいドラマティックな導入。
どアタマの「頂上に降る雪」でもうやられてしまう曲。
闇。雪。といったフレーズが似つかわしいピアノとハープをバックにした浮遊感のある美しいメロディ。
モジュレートされた声。

視点は天空にある。
天空から地を行く人を見ている。

ディストピアにおいて心安まるシーン。
天空から神が励ましていうような。
悟空を見守る菩薩。
「夜は無尽蔵」「キミは無尽蔵」「道は無尽蔵」と自ら課したリミッタを外そうとする。

4. Mirror Gate

平沢が「ロックン・ロール」と表現したという疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
シンセのピューンというイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

…のはずが、一転して奈落へ、ダーク世界へ。
思い切りハイ・スピードで走り抜けようとして関所の壁に激突したようなシャウト。
まさに鏡像の関。
龕灯返し暗転明転が仕込まれた背反要素を強引にブレイクでつないでひっぱる強引すぎる強引なナンバ。

だしぬけに別キャラ登場。
「通すまじ」って誰が?
ここにも別種の「天の声」が。

アルバム中最も演劇的なナンバ。
コンセプト・アルバムという言葉も古めかしいが、さらに懐かしい「ロック・オペラ」という言葉を久しぶりに思い出した。
しかし、そういうとどうもザ・フーの『四重人格』とかピンク・フロイドの『ザ・ウォール』とかデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』とかを思い浮かべてしまうな。

なんか『P-MODEL』あたりのP-MODELとか『サイエンスの幽霊』あたりのソロを思い出すサウンドですが「夢の島思念公園」のように気持ち悪いほどの陽気さが漂っていてステキです。

5. 王道楽土

テープの逆回転ぽい音のイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

平沢の「常套手段」てんこ盛り。
デスが共演したがるような、ハード・ロック的バロック的大仰な派手世界。

空間的視点ではなく、時間的視点を持ち込んだ曲。
歴史的記憶を呼び覚ます。
紀元前になにがあったか。
堯舜の時代へ。
でも思い出せない。
シャウト!!

6. 上空初期値

「LAYER-GREEN」系列に属する平沢らしい疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
個人的には「山頂晴れて2009」と呼んでもいる。
霧深い山を越えてきて、急に視野が開けたかのような爽快感。
歌詞を読まなくても、サウンドだけでそう感じさせる。
初めて聴いた時からインタラクティヴ・ライヴのクライマックスにいる自分を感じたほど。
平沢自身も自分の作った曲によってイメージを広げて作詞したのではないかと想像する。
「Mirror Gate」のように途中で化け物でも現れたらどうしようか、どこかに突き落とされたたらどうしようか、と疑心暗鬼になるものの杞憂に終わる。

見よ「ようこそ」と聞こえた

と、歌詞も非常に肯定的。
掘削機のようなドラム・ロールにプロペラのエンジン音。
意外なほどに安心して聴ける曲。

7. 聖馬蹄形惑星の大詐欺師

ジンタに誘われて入ったサーカス小屋に歴史の秘密を見た。
古代まで時間と記憶が遡り、神話と伝説を呼び起こす。

アルバム中もっとも派手でノリのいいアストロノーツ的サーフ・サウンド。
60年代エレキ〜70年代ハード・ロック〜80年代ニュー・ウェイヴと平沢音楽史が凝縮。
P-MODELっぽいとも言える。
ぜひ「美術館」もモズライトで弾いてもらいたいものである。

続きは明日だ、さあ、寝よう。

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