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電子書籍と呼ばれて

5年前に改訂版を出した『音楽産業廃棄物』を再改訂してデータ版で復刊することにした。
世間的に言えば「電子書籍」というやつになるのだろうが恥ずかしいのでそうは呼ばない。

本題に入る前に「電子書籍」のおさらいをしておこう。
世間様の言うところの電子書籍をめぐる昨今の論議というのは、3つのレイヤがごちゃまぜになっていることが多い。

(1)コンテンツ
(2)デヴァイス
(3)流通販売

(1)は本の中身であるが、ヴューア(ソフトウェア)とそれに対応したファイルフォーマットと密接な関係にあり、標準化規格から独自規格までいろいろ。
(2)はKindleやNookなどの読書に最適化された専用デヴァイス、iPadなどスレイトPCと呼ばれる読書もできる汎用デヴァイス。
(3)はAmazon(Kindle), Barns & Noble(Nook), iBookstore(iPad)といったデヴァイスと紐付きのオンライン・ストアや実店舗のサーヴィスが中心だが、Googleのように世界中の書籍のデータベース化という特殊な野望もある。

この3つのレイヤはそれぞれ複雑に関連しあっているし、Kindleにいたっては読書専用デヴァイスを指すこともあれば、さまざまなプラットフォームに対応したソフトウェアを指す場合もあり、話がごっちゃになりやすいのは確かだ。
しかし、実はこれ、ほんとはどれをとっても新しい話ではない。
単に「役者が揃った」というだけである。
もちろん、携帯音楽プレーヤも音楽用ファイルフォーマットも90年代からあったにもかかわらず、一般に普及したのはAppleがiPodとiTunesをセットで送り出したから、という歴史的事実はあるし、書籍ヴューアや書籍ファイルフォーマットにも起爆剤は必要だろう。
それがいまなのかもしれない。
ただ、電子書籍が斜陽の日本の出版産業をさらに窮地に追い込むとか、逆になんとかしてくれる救世主だとか、そういう筋合いのものではない。

電子書籍とかいっても、トドのつまりはWebコンテンツをオフラインでの閲覧に最適化したうえでどう課金するか、という話になってくる。
いや、トドのつまり、というより、そもそもの出発、オボコことはじめがそうだったはずなのである。
にもかかわらず「電子書籍って動画や音楽も入れ込めるし、ほら、こーんなこともできちゃう。すごいでしょ」などという紹介がされたりする。
アホか。
あなたWebページを見たことないんですか。
情報誌の電子雑誌化に至っては意味不明だ。
いまある旅行・食・音楽・演劇などの情報サイト、チケット販売サイトの類はいったいなんだというのだ。

PCのWebブラウザでも、小説を読むことはできる。
しかし、PCのモニタは長時間見ていると目が疲れるし、ポータブルではないので「読書」には向かないうえに、紙と違ってWeb上の「情報」はなかなか金を取りにくい、さてどうするか。
そういう話だったはずだ。

実際、電子書籍のオープンな標準フォーマットである ePub も中身はXHTMLである。
個人的には将来 ePub は HTML5 と統合されていく可能性が高く、過渡期のフォーマットだと思っている。
逆にWebページも雑誌のレイアウト並みに縦書き・横書き混在の複雑なレイアウトが組めるように進化していくだろう。

紙媒体がデジタル化することで、音楽のようにメジャーとマイナー(インディーズ)の境界が希薄になって面白い動きが出てくる可能性は高いし、商売の方法も変わっていくだろうが、メジャー音楽産業がダメなままダメになっていったように、中身がダメなものはダメである。
有能な編集者はますます希少価値化し、会社に守られていたようなダメ編集者は消えていく。
などということを言うと我が身に翻って唇寒し。

あまりに前置きが長かった。
本題の書籍『音楽産業廃棄物』のデジタル化についてである。

電子書籍といっても既存の書籍のデジタル化と新しい書籍を企画する場合とでは、発想も方法も異なってくる。
テキスト主体であるのか、画像主体であるのか、テキストと画像の組み合わせが複雑か単純か、といった本の中身によっても作り方は異なってくる。
また、部数が多ければ各プラットフォーム版を作ることもできるだろうし、特殊な層に向けた内容であればiPad専用アプリケーションなどもあり得るだろう。

書籍『音楽産業廃棄物』の場合は読者の数が限られる本であるからして、PCからスレイト、スマートフォンなど多岐にわたるデヴァイスに向けた汎用の標準フォーマットにするしかない。
特定のプラットフォームに向けた独自フォーマットなど論外である。
内容的にはレイアウトが複雑で、写真と文章が入り組んでいるページが多く、縦書き・横書きも混在している。
こうした本をデジタル化に際して完全に組み直して可変レイアウトにすることも可能は可能だが、それには新しい本を作るのと同じくらい時間と労力、言い換えれば金がかかる。
部数が少ないということは予算が少ないということで、デジタル化にかけられる費用も限られてくるのため、それもあり得ない。
既存の印刷データがそのままデジタル化されることが望ましい。
そういうことで条件を絞っていくと、PDFしかないのが現状である。
英語であればePubでもできないこともないだろうが、日本語は縦書きすら標準化されていない。

というわけで『音楽産業廃棄物』は古式ゆかしきPDFフォーマットでデジタル化されることとなった。
というか、印刷データはもともとデジタルなのであり、デジアナ変換されているのが紙の本なのだ。
デジタル・データそのままデジタル出力しているに過ぎない。
初版が99年の本のためフォントやファイル形式が古く、印刷会社泣かせではあるが。

また初版本から『音楽産業廃棄物』には附録CD-ROMがついていて、そこに書籍本体を組み込むことも可能だというのもPDFにした理由のひとつである。
附録に本体を収録するとは本末転倒だが、それもまた時代的である。
考えてみれば、前回の改訂版も本来は紙ではなくこういう形でデジタル版で出す予定であったのだ。

ほんとは販売形式もダウンロードだけにして思い切り安くすればいいじゃないかと思っていたのだが、周囲にリサーチしたところ反対意見が多く、パッケージ版も作ることにした。
さらにパッケージ版には印刷用PDFデータも収録する。
印刷用PDFデータというのはトンボが入ったアレで、印刷会社へ持ち込めば私家版書籍を1冊作ることができるというものだ。
印刷費はオンデマンドでも1冊数万円はするだろうから、実際に印刷するひとはそういないとは思うが、個人使用の範囲を超えて複製されても困るし、印刷用データを売った例はあまりないのではないか。
こういうことを許可してくれるところが平沢進らしいところだ。
なんと画期的。

ただし、予約が集まらなければパッケージ版は出ませんので、みなさんよろしくお願いします。

moderoom.fascination.co.jp/modules/release/miwd.html

shop.fascination.co.jp/

pbook_1st
初版 音楽産業廃棄物
P-BOOK2
改訂復刻版 音楽産業廃棄物

横川理彦 x 中野テルヲ 邂逅

横川理彦x中野テルヲ
one-s-one II 〜唯一無二のソロアーティストによる競演〜
2010年3月24日(水)渋谷SONGLINES

昨年の「DRIVE TO 2010」出演以来、活性化してきている中野テルヲ。
4-Dやソロのほか、さまざまなコラボレイションで多彩な活躍を見せる横川理彦。
ふたりがジョイントするというので行ってきた。

P-MODEL3代目ベーシストと4代目ベーシストの共演でもあり、個人的にはP-MODEL30周年記念イヴェントの一環である。
中野テルヲのライヴを観るのは2002年1月の表参道FAB以来10年ぶり、横川理彦ソロは学芸大学trayで観たのが5年ほど前であったろうか。
会場のソングラインズはカフェの一角にミニ・ステージがあるといった風情で弾き語りが似合いそうでもあるが、客入れはポップ・グループ(笑)。

まずは横川理彦がいつものようににこやかに登場。
今回はカヴァー4曲をインプロヴィゼイションで展開。
シーケンサーのリズム・トラック上に、ヴォーカル、サイレント・ギター、生ヴァイオリン、シンセサイザーなどをリアルタイムに重ねてループし、その上にさらに音を重ねてループ、さらに音を重ねて…というPCのメモリの限界に挑戦という手法。
というと非常に実験的なようだが、どれもすべて「心地いい」サウンド。
ただし、エレクトリックなノイズが嫌いでなければだが。
特に「口(くち)ドラム」で音を増やしていく「BABY’S ON FIRE」なんて、エンタテインメント性が高く楽しいし、楽曲のテーマ解説MCでも笑わす。
さすが映画のサウンドトラックからノイズまで音楽的バックボーンが幅広いマルチ・プレイヤーである。
「円熟したニュー・ウェイヴ」とでも表現したくなるヴェテランならではの場数を踏んだパフォーマンスだ。

横川理彦
01.WEIRD FISHES (Radio Head)
02.LOVE LOCKDOWN (Kanye West)
03.BABY’S ON FIRE (Brian Eno)
04.REQUIEM POUR UN CON (Serge Gainsbourg)

10年ぶりの中野テルヲであるが、機材の中心は変わらずUTS(Under Techno System)だ。
UTSはP-MODELだった高橋芳一による自作楽器で、センサーによって鳴ったり光ったりするシロモノ。
音がなければ手刀で居合いをやってるかのようである。
世界でただひとりの「ミスター・センサー・マン」によるセンサー・パフォーマンスだ。
「レッツ・ゴー・スカイセンサー」はやらなかったけど、おなじみ「ウーランストラッセ節」「RAM Running」「Uhlandstr On-Line」は披露。
めくるめく発振音と奇妙にねじれたメロディの上を這う「端正な」ヴォーカル。
指でフレームを作ってポージングする「フレーム・バッファ I」もそんな中野ポップ節が楽しめる新曲だが、収録の限定盤「PILOT RUN vol.1」は残念ながら完売。

トリビュート・アルバム収録のクラフトワーク「コンピュータ・ラブ」や、FLOPPYのアルバム『PROTOSCIENCE』でリミックスした「meta色吐息」といったカヴァーも。
全体にダブ的手法のアレンジが多く、びしょびしょのエコーと楽曲の解体具合が気持ちよかった。
そういえば中野テルヲのアルバム『Dump Request 99-05』には「コンピュータ・ダブ」なんてのも収録されてるのだった。
終演後に話をうかがったところ、やはり元ニュー・ウェイヴ少年としてはダブが大好きだったそうである。

中野テルヲ
01.ウーランストラッセ節
02.RAM Running
03.フレーム・バッファ I
04.Run Radio IV
05.Uhlandstr On-Line
06.meta色吐息
07.コンピュータ・ラブ

中野ソロのあとは、アンコールのような形で、といっても間はおかずにセッション・タイム。
同じP-MODELに在籍していたとはいえ、時期が重なっていないので共演は初めてのはず。
もっとも、横川理彦の在籍時に中野照夫(当時)はP-MODELのスタッフをやっていたので、気心は知れている。
1曲目は横川理彦のギターで、えーと、なんだこれ、ロンバケ?
と思ってあとで調べたらロング・バケーションの「LEGS (SWEETIE MIX)」のリアレンジだったもよう。
よく覚えてたもんだ、ファンなのか。
ラストにはなんとP-MODEL『カルカドル』収録の「PIPER」という平沢進・作詞/横川理彦・作曲のナンバー。
横川理彦はヴァイオリンとヴォーカル、想像だけどたぶんトラックも加えている。
記憶ではP-MODEL時代のライヴでも横川理彦のヴォーカル・パートもあったはずと思ったが、どうやら錯誤であったらしく、アルバムを聴き直したら平沢進しかヴォーカルをとっていなかった。
あてにならないもんだ、ファンじゃないのか。

追記: あとで中井さんにきいところ、P-MODELのライヴでは横川さんがヴォーカルをとって、平沢さんはソデに引っ込んでいたような記憶があるとのこと。
録音物がないので確証はもてないが、わたしの記憶が捏造されたわけではなかったのかもしれない。

追記2: 還弦主義サイトに1985/12/26ロフト音源の「PIPER」が投稿された。
やはり横川ヴォーカルであったようだ。
8760.susumuhirasawa.com/modules/ooparts/index.php/photo/144/

横川理彦 x 中野テルヲ
01.Legs More Sweetie
02.Piper

というわけで2時間のステージは終了。
終演後には、三浦俊一高橋芳一といった元P-MODELのメンバー、シャンプー折茂昌美FLOPPY戸田宏武(P-MODELの『ANOTHER GAME』で道を踏み外したらしい)らが集まった。

以上、敬称略。
曲目はライヴを企画した中井敏文(モノグラム)のサイトより。

いつまで残っているかはわからないが、Ustreamのアーカイヴはこちら。

中野テルヲx横川理彦

www.ustream.tv/channel/teruo

横川理彦
www.manuera.com/altoki/j-yokogawa.html

中野テルヲ
www.din.or.jp/~teru-o/

次回ライヴはC・J・ラモーンのベースが盗まれたことでも有名な高円寺HIGHで。

Teruo Nakano Solo-Live 2010
6月20日(日)東京・高円寺HIGH
開場 17:30/開演 18:00
blog.seal-s.com/2010/02/post-8.html

アルバム『Dump Request 99-05』に再プレスは在庫あり。
seal-s.com/dr99-05/

フリー・ソフトウェアとしての平沢進

「ASCII.jp」に、四本淑三による平沢進インタヴューが掲載された。

ソロデビュー20周年記念・平沢進ロングインタビュー【前編】
「私は平沢進だぞ。平沢唯じゃない」 本人に聞いてみた
ascii.jp/elem/000/000/482/482115/

ソロデビュー20周年記念・平沢進ロングインタビュー【後編】
平沢進が語る、音楽の新しいスタンダード
ascii.jp/elem/000/000/484/484998/

近年の平沢進の立ち位置や態度というものを知るうえで格好のインタヴューであり、類がないほど優れた平沢分析になっているだけも素晴らしいのだが、既存の音楽産業の問題点やネットを中心とした新しい音楽シーンを知るという意味では、平沢進に興味のないひとも読むべきテキストになっている。

そこでちょっと便乗する形で、インタヴューでもキイ・ワードとなっている「フリー・ソフトウェアとしての平沢進」について少し書いてみたい。
「フリー・ソフトウェアとしての」といっても、平沢進は音楽そのソースコードにあたる出力前の音楽データを公開しているわけでもないし、GPLやCCに則って音楽配信しているわけでもない。
再配布や改変については(建前上は)制限が加えられている。
だから、ここで言うのはもちろん厳密な言葉の意味での「フリー・ソフトウェア」ということではない。
ここでフリーでオープンというのは、態度や心意気の話である。
だからこそ、書籍『音楽産業廃棄物』のP-MODEL篇を「Open Source」と名付けた。

さらに、ここに「ハッカー・スピリット」という言葉を加えてもいいだろう。
「必要なら、ないものは作っちゃう」「とりあえず用が足りればよい」という感じでガシガシやっちゃう「hack」という言葉のイメージはここらへんをご覧いただきたい。

山形浩生 Hackについて
cruel.org/freeware/hack.html

平沢進のハック精神を知るために、ちょいと82年にまで遡る。
このころ平沢は、自作サンプリング・マシンの「ヘヴナイザー」をP-MODELのライヴで使っていた。
ヘヴナイザーは83年リリースのP-MODEL『不許可曲集』や84年リリースの旬「(I)-Location」などの作品でも使われ、業界関係者から「平沢は宝くじに当たったに違いない」とウワサされたそうである。
当時、サンプリングマシンはジ・アート・オブ・ノイズなどのサウンドで知られるようになったが、数100万円〜1000万円もする高価なシロモノで、平沢進にそんなものを買う金があるはずもなく、徳間ジャパンにもそんな機材を買う資金はないだろうから、いったいどうやってあのサウンドを作ったのだろうといぶかしく思ったというわけだ。

ご参考
www.asahi-net.or.jp/~AH9Y-NKJM/NAIYO/comment/text_e.html

つまり、そのサウンドを聴いた者は、イミュレータだのシンクラビアだのを使ったのかと思ったわけだが、もちろん実際にはヘヴナイザーに同等の機能があったわけではない。
エヴァンスのテープ・リヴァーヴの消去ヘッドにオン/オフのスウィッチをつけ、シンセサイザーのゲートブロックを通したというシロモノで、デジタルなサンプリング・マシンよりはむしろメロトロンに近いアナログ機材だったわけだ。
しかし、ここで重要なのは、貧乏を努力と創意工夫で乗り越えたということではない(笑)。
自分の望む効果さえ得られれば、あり合わせの素材でかまわない、という態度である。
そのうえ世間を騙せたら愉快というひとの悪さ。
これは今まで続く平沢進の一環した態度である。

──ライヴではデジタルのシーケンサーは使ってなかったんですか。
中野 持ってなかったんじゃないかな。シンセサイザーに内蔵の簡単なものはありましたけど、それをドラムと同期したりするっていうことはなかったです。「カルカドル」のイントロとかはテープでしたよ。
高橋 「OH MAMA!」とか。
中野 「OH MAMA!」はすごかっただろう。間奏の女性コーラスの部分って、カセット・テープのポン出しなんですよ。同期もなにもしてないんですよ。高橋くんが演奏しながらやってるんですよ。頭出しも勘なんですよ。シーケンス的なものも手弾きでやったりとか。私なんか「おやすみDOG」の16ビートの単調なフレーズを、ずーっと生でやってましたから。
高橋 今だったら、シーケンサー使ってなんとなくやってるところを、全部肉体労働でこなしてたんですよね。
中野 でも、あれは必然です。P-MODELは、今ある機材や素材の中でやりくりするっていう。原始的だし、乱暴だし、それを疑いもしないし。そこがよかったのかもしれないんですけれども。
──あ、基本的な発想がね。なければ作るとかね。
中野 自作派ですね。なきゃ作るっていうのは、いい考えですよね。
高橋 長ーい30mのMIDIコードとかも必要で、でも売ってなかったりするじゃないですか。そういう時って3人で半田付けしてたりとか。
(書籍『音楽作業廃棄物』中野テルヲ/高橋芳一対談より)

インタラクティヴ・ライヴにしろ、ソーラー・ライヴにしろ、広告代理店が入り、巨大スポンサーがついて、金に糸目を付けずに、機材やスタッフを使いまくってやったとしても、それは意味がないことだと平沢はよく言う。
リスナーに「自分にもできる」と思わせないと意味がないのだと。
初期のインタラクティヴ・ライヴなんて、コンピュータの素人である平沢が自分でスクリプトを組んでAmigaにやらせたわけだが、スポンサーの名乗りを上げた某有名国産コンピュータ・メーカに対して平沢が「同じことできますか?」ときいたところ、うなだれて帰っていったそうである。
しかしながら、平沢リスナーは、自分たちなりに「似たこと」ができるようなシステムを考えて、インタラクティヴ・ライヴの「コピー」までやってしまったのだ。

すべてそうだなのだ。
なるべくなら民生機を使って、なるべくならプロ用機材を使わない。
なるべくならフリー・ソフトウェアやフリーウェア、無料のサーヴィスなどを活用したい。
こういう姿勢はほんと変わらない。

だからこそ、以前のインタラクティヴ・ライヴはPeerCastでP2P中継したし、今年はUstreamやStickamでライヴ中継し、Skypeを使ってユーザをつないだ。
オフィシャル・サイトの構築に XOOPS Cube や WordPress, ZenCart といったフリー・ソフトウェアを使っているのもそのためだ。
やろうと思えば、誰だって投稿サイトやSNSを利用するなり、自分でポータル・サイトを作るなりして、音楽配信なんてできるのである。

ハードディスク・オーディオ・レコーダが民生機となった時点で、ローランドのVSシリーズ(Digital Studio Workstation) を導入し、プライヴェート・スタジオでの制作に完全にシフトした。
音が悪いと言うリスナーもいたけれども、MP3にしてもなんにしても、平沢はツールとしてそれらを使うことに意義を見出していた。

Amigaのシーケンス・ソフトの Bars&Pipes は現在オープンソースのフリー・ソフトウェア BarsnPipes として配布されているが、自ら「フリー・ソフトウェアで作曲するプロ・ミュージシャン」と平沢は誇らしげに語る。
さすがに音源ソフトやDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)はプロ用を使っているが、素人で手が出ないというほどではない。
そして、プロ用機材や高いソフトウェアを使用する時、平沢は恥ずかしそうにする。

冒頭で掲げたインタヴュー記事で平沢進は自己分析して次のように語っている。

  • 音楽の「資本主義と相容れない性質」をある程度、体現できているということです。
  • 平沢は「管理された商品」に見える一方で「フリーウエア」にも見えるという矛盾。ここにそういう現象の芽があると思えますね。
  • そういう質感を持たなけりゃいけないんだよね、ミュージシャンは。

そうした「平沢進像」を作り上げているひとつの要因が、ここまで書き連ねてきた平沢進の態度である。
フリー・ソフトウェアやオープンソースといった概念は、90年代までは、空想的社会主義のような理想主義と見られていたはずだ。
しかしながら、現在では従来の資本主義的ビジネスモデルを根底からひっくり返すような革命を起こしてしまった。
もはや、パッケージ・ソフトを売るだけの商業形態は半ば崩れてしまっている。
これは音楽についても同じである。

MP3配信を始めた当初、平沢進は「昔ならたくさんの血が流れたような劇的な変化が、ネットのなかでは無血で静かに進行している」と語っていた。
そうした変化を音楽シーンに波及させてしまった一端を、平沢進は確実に担っている。

なお、文中ではわざと「フリー・ソフトウェア」と「フリーウェア」をごっちゃにして書いたが、本来は違うものです。

言葉の力 (ii)

オウム真理教が社会問題化していたころだから、もう10年以上前になるだろう。
当時、オウム関連の報道で頭角を現していた新聞記者上がりの自称フリー・ジャーナリストが、TVで「私は自分の目で見たことしか信じない」と言っているのを観て「正気か!?」と思ったことがある。
メディアを通じて表現している者とは思えない自己矛盾も甚だしい思い上がりだ。

確かに、メディアを通した表現というのは、フィクションもノンフィクションもドラマもドキュメンタリも、等しく虚構性を帯びる。
メディアを介した情報というのは、すべて虚構だと思ったほうが健全である。
しかし、自分で直截見聞きした情報に虚構性がないかと言えば、肉体というメディアを通じている以上同じであるし、人間は自分自身を認識するのでさえ、言葉というメディアを介さなければならない。
情報というのは、すべて虚構であると思ったほうがより健全である。
結局、そうした情報=虚構をどう処理し、判断し、コミュニケートするか、ということでしかない。

twitterというメディアが面白いのは、なぜわかりきった自己の行為をわざわざ書くか、ということである。「日記」と言うには短すぎる日々の断片や行為の断片の記述。もちろん「フォロー」による他者とのコミュニケーションもあるだろうし、使いようによっては、ジャーナリズムとして機能させることも可能だ。
しかし、そうしたシステムに先んじてあるのは、自己とのコミュニケーションである。自己の相対化、意識化という点でtwitterには意味がある (このあたり、橘川幸夫vs田口ランディのトーク・ライヴでも話題に上ったらしい)。

メディアとはなんなのか、コミュニケーションとはなんのか、ということを少しでも考えたことがあるならば、自分の見たことしか信じないなどという妄言を吐くことはできないだろう。人は虚構を信じ、虚構を通じてコミュニケーションすることでしか、生きることはできない。もし虚構を否定するならば、そこには果てしない孤独が広がっている。

自分の目だけを信じる、と言ったところで、実はそこに根拠なんてないのだ。
『マトリックス』でも観るといい。
他人の目を信じ、耳を信じ、皮膚感覚を信じ、言葉を信じる、という代理体験のための一種の「契約」みたいなものがなければ、メディアは存在し得ない。
自分自身で世界中をくまなく旅することは不可能に近いし、歴史的な体験となっては完全に不可能である。
しかし、それを可能にしてくれるのがメディアだ。
他者=メディアを信じるからこそ、図書館だって、インターネットだって成り立つ。

恥ずかしながらネタばらしすると、自分のこうしたメディア認識に最も影響を与えたのは、30年前に読んだ渋谷陽一の初単行本『メディアとしてのロックン・ロール』(ロッキングオン増刊/79年)であったりする。恥ずかしついでに引用してみよう。

 人間は常に自分自身を特殊化したがる。限られた生のなかで所有する事のできる肉体はひとつだけであり、精神もひとつだけである。それを特殊化するなと言う方が無理かもしれない。
(中略)
 しかし人は特殊化と絶対化の中でのみ孤独なのだ。
 特殊な40億の個は、孤独な40億の個であり、相対化された普遍的な個は、何十億あろうとも個である限界を超えている。すべての表現者の努力は、その普遍的な個を獲得する為の闘いでもあるのだ。そしてメディアとはその最も有効なる最終兵器である。

さらに引用を続けよう。

 我々は1冊の書物によって、その書き手と何十年も共に暮らした人より深いコミュニケーションを得ることが可能である。自分自身の経験からも、優れた表現者との本当の出会いは、その人と具体的に知り合うことではなく、その人の表現と出会う事でだと断言できる。それは身近な他者においても同じである。
(中略)
 僕はロッキング・オンのスタッフである岩谷、橘川、松村と長い間共に仕事をしてきたし、友人としてもつきあってきた。しかし、3人の精神の核に触れたと実感できるのは彼らの文章を読んだ時である。まさにその事によってのみ僕は読者と対等なのである。メディアにおいて受け手と送り手とが対等であるとはそうした事であり、これは表現の基本構造であり、コミュニケーションの基本構造でもある。
(渋谷陽一/メディアとしてのロックン・ロール 4 より)

先の投稿で弟のことを書いたのは、なにもいい話にまとめようとしたわけではなく(笑)。実はそういうことを言いたかったわけだ。
さらに言えば書籍『音楽産業廃棄物』も編集方針も、実はそういうところにあったりする。

P-MODELデビュー20周年の一大イヴェント“音楽産業廃棄物”から10年。
この9月から1年間にわたる平沢進SOLO20周年/P-MODEL30周年記念イヴェント“凝集する過去 還弦主義8760時間” スタートした。
自分のこのイヴェントに対するスタンスも、やはり10年前と同じようなものである。
ある1曲、ある1枚のアルバムを前にした時、そこには聴き手のキャリアもバックボーンも関係のない、普遍的なコミュニケーションがあるはずなのだ。

言い忘れたこと

だからさ、いつも言ってるでしょ。
「日食」じゃあ、日本食堂の略だって。
まあ、今は日本レストランエンタプライズとかってわけのわかんない会社名に変わったから、国鉄民営化後世代には馴染みはないだろうが、昔は世界一不味くて高い親方の日の丸レストラン・チェーンとして名を馳せていたんだから。
と思って検索したら、その不味さは博物館級だったらしく、鉄道博物館に陳列されておる。
www.nre.co.jp/tenpo/16981/16981menu.html

ということはどうでもよろしい。
戦後の造語であるところの「日食」はキモチワルイという話だ。
この代用漢字というやつほど気持ちが悪く、罪深いものはない。
これならまだ「日しょく」とか開いたほうがまだマシだ。
いや、これも相当に気持ち悪いな。
潔く「にっしょく」としていただきたい。
だいたい「むしばむ」と「くう」じゃ、ぜんぜん意味が違うでしょ。
なのに音が同じというだけで用字を変えるなんて乱暴過ぎる。

そういえば昔の衛星放送はTV欄に「食のため放送休止」とかって書いてあって、まじめに「職員の食事休憩」かと思ったものだが、あれは「蝕のため」なんだよな、天文用語の。
間違った用字が誤解を生む好例だ…違うか。

そもそも国家が言葉の成り立ちを無視し、国民に誤った知識を押しつけようとしているのだから犯罪的だ。
そのお先棒を担ぐ大手マスコミはマスゴミと言われてとも仕方あるまい。
長年の歴史のなかで言語の使用者が誤用を重ねて、意味や表記が転じていくのは言葉の必然であるが、かようにして国家規模の策謀で言語を破壊した例はない…というのは大嘘で、おとなり中華人民共和国の漢字事情はもっとひどいが、他所の国だからほうっておく。
というわけで2132年になったらまた怒りたいと思う。

そういえばNEWSのほうには書いておいたけど、平沢進のアルバム『SIREN』と『救済の技法』がボーナストラック入りのHQCDとして再リリースされた。
HQCDと似たようなものにSHM-CDというのもあるらしいが、どちらも聴いたことがないので、音質についての言及はできない。

UHQCDプロモーションWEB


columbia.jp/hqcd/
shm-cd.co-site.jp/

記録方式の違いではなく、記録メディアの品質の差ということだが、それで果たしてどれだけ音質の差が出るのか。
眉唾とまでは言わないが、それなりの再生装置がなくては差がわからないであろうというのは想像に難くない。
次世代CDの規格がDVDオーディオとSACDに分かれてぜんぜん普及しないってのがこういうよくわからんメディアの出てくる原因なのだろうが、DVDオーディオとSACD、どちらにしろくだらないコピープロテクトはかかってるわけで、DVDビデオ同様に「再生の自由」すら保証されていない。
私的複製権なんてもってのほか、勝手に再生しただけで泥棒呼ばわりのメディアなんて、なんだかなあ、もういいよ、という気がしてくる。
いずれにしても聴いたことがないものの話題は広げようがないので次。

P-MODELのアルバム『舟』が「オンデマンドCD」で出た。
条件付ではあるが、これはけっこういいことなんじゃないかと思う。
そもそもCDというメディアはオンデマンドに向いているにも関わらず、なんで昨年になってようやく商品化されたのだろう。
ぜんぜんオンデマンドに向いていない出版(書籍)の分野のほうが昔からオンデマンドに熱心だったのだから不思議だ。
いや、不思議ってことはないんだけど、出版界以上に音楽界がダメってこったろうなあ。
そもそも今は各社がこぞって参加している音楽配信事業だって、10年前は「つぶしちゃえ」というのが業界の趨勢であったのだ。
オンデマンドCDというのも、そういうダメな業界が死蔵しているコンテンツをなんとかしようとようやく考え始めたということの表れだろう。
単にごく一部の社員の気の利いたアイディアかもしれないし、TV放送のオンデマンドに触発されたのかもしれないけどね。

書籍に限らず、映像や音楽を含めた広義の出版(プレス)界全体に言えることだが、増刷(再プレス)しないくせに権利だけは死んでも手放さないため、コンテンツが世の中に出回らずに死蔵されるというケースは多い。
権利は手放したくないけど、少数を売ってもペイしないからプレスしない、というのは企業の論理としてわかる。
しかし、ならば、ほかで製品化したいという時には出版権なり原盤権なりを貸してやりゃあいいじゃないかと思うが、法外な値段をふっかけて、話をつぶしてしまう。
これでは権利を有する側、借りる側、どちらにとっても損になるはずなのだが、コンテンツの「相場」を崩したくないのだろうか。

このような得をするわけでもない企業のよくわからない事情によって死蔵されたコンテンツは数多く、動画投稿サイトが救済の場になっていたりするから皮肉なものだ。
違法コンテンツだらけの動画投稿サイトにおいても、暗黙の諒解、暗黙のルール、一種の「仁義」として、製品化されていて入手が容易なものはアップロードしない、ということがあるようだ。
金を出せば手に入るコンテンツをアップロードするやつも、タダで欲しがるやつも軽蔑される。
ちょっと屈折したモラルのようなものがある。

というわけで、死蔵されるくらいなら、こうやってオンデマンドでプレスしてくれるほうがありがたい。
ただ、ここから一歩進んで、CDオーディオのISOイメージをダウンロード販売してくれれば、販売する側も購入する側ももっと手間がかからず簡単に済むのにな、とは思う。
LinuxなどOSの配布は今やDVDのISOイメージのダウンロードが一般的であるし、DVDビデオなんかもISOイメージによる販売が行われている。
なぜにCDだけこのような販売形態を取れないのか謎だが、10年前は「MP3はそれ自体悪」としていた業界であるからして、コピープロテクトをかけられないとか、じゃんじゃん焼かれて売られては困るとか、いらんことをいっぱい考えているのだろう。
オンデマンドCDが出てきただけでもマシである。

そうこうくだらないことを言っているうちにブラザーのプリンタ複合機が壊れてしまった。
ほんとに故障は呼応する。
困ったもんだ。

ということではなく、話は「ネットブックは100円PCじゃない」という方向へ向かうのだが、長くなりすぎたので、また改めて。

周年 その2

「周年」というタイトルで期待して読んだら椅子の話でがっかり、という方もいるかもしれないので、一応書いておこう。
そう。
2009年は「P-MODELデビュー30周年&平沢進デビュー20周年」なのである。
というよりも、個人的には「音楽産業廃棄物10周年」という感慨のほうが強い。
「P-MODELデビュー20周年&平沢進デビュー10周年」という文章をさんざん書き散らして(散らした…は語弊があるな)から、もう10年が経ったのだ。
恵比寿の事務所が思い出されることであるよ。
まあ、それだけなんだけど。

個人的な30周年記念事業としては、消えゆくメディアに記録された重要文献を保存し直す、ということをちょっとやってみた。
平たく言うと、カセットテープやMDに記録された音源をMP3化する、という作業だ。
ベータやVHSのテープをDVD化する作業は、1度チャレンジしてすぐ挫折してしまった。
めんどくさいんだもん。
だから今回のMP3化も、たぶん挫折するであろう。
それでも、15枚ほどのMDは仕事の片手間にMP3化してみた。
MP3レコーダをオーディオ専用機につなげる方法もあるが、それでは仕事しながらというわけにはいかないし、どうせMP3レコーダでダビングしても、PCにコピーして編集することになるので、最初からPCにMD録再機をつなげてリアルタイム・エンコードしている。
ちなみに使っているレコーディング・ソフトはこれ。
Audacity
audacity.sourceforge.net/

実はわたし、MDというものを日常的に使った経験はない。
書籍『音楽産業廃棄物』の編集時に、方々から収集したレア盤やライヴ・テープなどの資料用音源を整理するためにポータブルMD録再機を購入し、その後は『太陽系亞種音』の資料用音源の整理に使ったくらいである。
P-MODELのために買ったと言っても過言ではないだろう。

そういうわけでMDはめったに使用しないのですっかり忘れていたが、手持ちのポータブルMD録再機は内蔵電池だとばかり思っていたら違っていて、実はガム型の充電池なのであった。
でもって、数年ぶりに取り出してみると、案の定、液漏れしていた。
充電池の液漏れというとAmigaのマザーボードの死亡原因の第1位だが、その心配ばっかりしていちゃだめだったのだ。

MD収録音源を劣化することなくMP3化するには、光でデジタル接続すべきなのではあるが、残念ながら手持ちのポータブルMD録再機にはアナログのライン出力があるのみである。
またこの方法は劣化がないとはいえ、アナログ同様、収録時間と同じだけの時間がダビングに費やされるわけで、めんどくさいことに変わりはない。
そこで調べてみるとやはりあるんですね、USB接続でMDのデータを吸い出せる録再機が。

ソニー MZ-RH1
www.sony.jp/products/Consumer/himd-rec/
k-tai.impress.co.jp/cda/article/stapa/29128.html

スタパ齋藤氏も大絶賛であるが、わたしの場合、ダビングが必要なのはたかだか20枚程度で、しかもマスタはほかのひとが持っている。
そのために3万円も使う気がしない。
しかし、世の中にはそうしたニッチな需要に応えるひともいるようで、オークションには1週間2000円とか「レンタル」の形でMZ-RH1が出品されていたりする。
すごいな。
ま、それさえ面倒なので借りなかったけど。

今思えば、MDなんかじゃなく、最初からMP3にしておけばよかったのだが、アナログ・プレーヤとPCをつなげたり、それをMP3にエンコードしたりするのが非常に面倒だったのだ。
当時はまだポータブルMP3レコーダはなかったし、机上でカセットテープをMDにダビングするのですらめんどくさかったんだから。

今回はなんか「めんどくさい」の連発だな。
さて、こんどはカセットテープのMP3化でもしようかな、と思ったら、テープがからんでワカメになってしまった。
どうやら、かつて愛用したカセットテープのポータブル録再機も、これまた数年間使用していないうちに走行系がダメになってしまったらしい。
せっかく電池は抜いていたのに。
作業に入る前から挫折してしまったよ。

キミは点呼されたか

インタラクティヴ・ライヴの「三が日」も終わり、はや5日が過ぎた。
ほうぼうのサイトでレポートを見かけるようになり、今さら書くのは後出しジャンケンのようで気が引けるが、まだ「松の内」ということでお許しいただこう。
(って誰に?)
曲目などはライヴ直後にNEWSに掲載したが、ようやく脱力から復活し、感想めいたものを書く気になったのだ。

アルバム・レヴューで「ディストピア3部作」などという言葉を使ったけれど、ライヴを観て、まあ、それもあながちハズレではなく、平沢進なりに「けり」を付けたのだなあ、というのが第1の印象。
Astro-Ho!が「私がこの惑星に来てから9年の月日がたった」と言っているように、起点は2000年なのだ。
アルバム同様、ライヴも「ディストピア3部作」となっているのは間違いない。

ただ、前2作においても、決して自らの内側を問うことを忘れなかったのが、平沢である。
そして、今回はアルバム、ライヴともに、視点は外的事象より、むしろ「内なるディストピア」に向けられている。
ファンクラブの会報インタヴューで平沢は次のような要旨のことを語っている。

  • 『点呼する惑星』は情勢の話ではない
  • 内なるディストピアを放置したまま、外的なディストピアに真剣に立ち向かおうとしている人の滑稽さを描いている
  • (要約は高橋による。ちゃんと読みたい方はGreenNerveにご入会ください)

アルバムでは、聴く者の想像力に任せた部分が大きいが、ライヴではそうした要素がより具体的、直截的に説明されていた。
ここで重要なのは「滑稽さ」というキー・ワードだ。
アルバム、ライヴともに、B級SF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』の「ゆるい」「だるい」世界観やテイストが大きく影響しているわけだが、その核にあるのは「滑稽さ」だろう。
滑稽さ、笑い、というのは、言葉を置き換えると客観性である。

ライヴのもっとも重要なアイテムである「トゥジャリット(詐欺)」は、自らが作り出したものであり、簡単に換言するならば「先入観」ということだろう。
もちろん、平沢自身にはもっと別の考えがあるだろうし、トゥジャリットが壊れた時に何故なかからカンカンに怒った「幼児Lonia」が出てくるのか、とか、3種のペルソナ「AAROM」はなにを意味しているのか、とか、いろいろあるわけだけど、この際、そういうことは深く考えない。
まあ、単純に解釈するならば、怒り・悲しみ・恐怖といった強い感情に支配されている時は、外から自分を見る目を失い、自らの感情に支配されてしまうし、その中心にあるのは幼児性だ、などと言うこともできるが、ぜんぜん違っているかもしれない。
(そっから発展させると、空とか禅とかになりそうだけど、よくわからんしな)
でも、そんなん違っててもいいじゃん、と観客がラクな姿勢で楽しめるところが、今回のライヴのいいところである。

そう、今回のライヴは「説明しすぎない」ところがいいのである。
言葉を換えるなら「詰め込みすぎない」ということだ。

ライヴに日参した某アニメーション監督は、しきりに「バランス」という言葉を使っていたが、確かに今回は、音楽・物語・CG・ 文字情報、ゲストのパフォーマンス、そしてネット参加と、どれもが「いいあんばい」なのであった。
じゃあ、今まではバランスが悪かったのかというと、そういうわけでもなく、あのスタイルなりのバランスはあったと思う。
しかしながら、濃すぎ、言い過ぎ、演出しすぎ、難解すぎ、という側面も確かにあって、すべての要素が過剰なところでバランスを取ろうとしていた、とも言えるだろう。
それでも「Limbo-54」などは、その過剰さの臨界点で実を結んだ最高のパフォーマンスだったと言える。

しかし、そんなことは平沢自身がいちばんよくわかっていて、そもそも前の「Live 白虎野」の時点で、新しいスタイルへ移行したがっていたのである。
できれば物語性を廃して、もっとシンプルな構成にしたいというようなことを言っていただが、結局は「Limbo-54」の延長線上にあるスタイルになってしまった。
要はタイミングである、時機でなかったのだ。

今回のライヴで「風通し」がよくなった最大の要因はやはり、ゲストのSP-2によるパフォーマンス。
彼女達によって肉体性の比重が高まった意味は大きいだろう。
特に道化役 Rang のパフォーマンスは、会場の雰囲気を大きく変えた。
また、物語設定やテキストにも笑いの要素がふんだんに盛り込まれていたために、いわゆるバッド・エンディングでもブルーにならず楽しめた。
「父さん…」なんて古谷徹の声で脳内再生されたが、果たして飛雄馬なのかアムロなのかわからんかったよ。
(あ、飛雄馬なら「父ちゃん」か)

まあ、バッドでも振りだしに戻っただけで、兄弟で暮らせていいね、って感じ。
逆にグッド・エンディングでも「それなりのカタルシス」はあるものの、世界が一変するわけでもなく、そこには日常があるだけ。
また日々を生きるだけだよ、あとは自分でなんとかしてね、と。
そこも『キン・ザ・ザ』っぽいわけだが、非常に見ていて清々しい。
ただ、オチに「私のトゥジャリット」云々の台詞を持ってくるのは、ちょっとずるい気がしたけど(笑)。

さて、今回は楽器回りにも変化があったのは周知の通り。
キーボードがなくなって、とうとう「普通の楽器」はギターだけに。
かわりに登場したのが、レーザー・ハープみたいな新楽器。
名前はまだ無い。

これは、beamz というレーザー光線がトリガーとなって音を出す楽器をバラバラにして組み直し、パーツを附加しているわけだが、チューブラー・ヘルツ、グラヴィトンと続く、伝統の芸風である。
これを買えばすぐに平沢的パフォーマンスができると思ったら、甘い。
実はこのマシン、オリジナル音源を仕込むようにはできておらず、仕様も公開されていないのだ。
本来は発売元が販売する音(曲)をロードするだけになっているので、オリジナルの音を鳴らすには、自分で手を入れなくてはならない。
平沢版は、ハードとソフト、両面からハックした独自仕様なのだ。
にしても、平沢は製品版が出る以前、プロトタイプがWebで発表された段階からコイツに目を付けていたらしいが、いったいどんなレーダーを持っているのか、不思議である。

ミュージカル・テスラ・コイル(Zeusaphone)も今回はパワー・アップ。
前回(PHONON2551)よりもファラデー・ケージを大型化したため、その分、スパークも大きくなった。
もともと設計では150cm以上のスパーク出ることになっていたのだが、ほんとにあんなに大きなスパークが出るとは思わなかった。
疑ってごめんよ、スティーヴ。
しかも、今回は山車に乗って現れる新趣向。
トゥジャリット破壊にもひと役買って電撃をお見舞いした。

アルバム『点呼する惑星』と同様、ライヴ「点呼する惑星」も、この10年を総括すると同時に、新しい方向性を示すものとなった。
2010年代の平沢進がなにを見せてくれるか、非常に楽しみである。

…と、音楽ライターみたいに締めておこう。

点呼する惑星 (4)

平沢進は「からくりお江戸」に住むのがよいのではないかと思う今日このごろ。
団子はお嫌いか?

8. 可視海

ミドル・テンポのリズム・ボックスのイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

かったるいリズム・ボックスにウィスパー・ヴォイス。
自称スペイシーなボトルネック。
高揚と沈静の両面をもったヘンな曲。
計算された「ゆるさ」や珍しく「甘い」ギターがいい。
ちょっとロキシー・ミュージックを思い出しました。
これまたいかにもインタラクティヴ・ライヴの終盤に位置しそうな、ちょっとヘンな次元を感じる。
「ヘン」しか語彙がないのか。

9. Phonon Belt

ホルンに坊主のオペラ。
アルバム中もっとも美しく懐かしいメロディと歌声に包まれる、もっとも安心して聴けるドラマティックな曲。
歌詞的にも「裏主題歌」と呼びたくなるアルバムを代表するナンバ。
平沢らしい「記憶掘り起こし」手口満載。
まさに「見たこともないのに懐かしい」元型刺戟曲。
これまたライヴのクライマックスに似つかわしい。
…って、クライマックスばっかりか。
ライヴの中盤を盛り上げる曲はないのか…いや、あるけど。
でも、そういやPhantomNotesで本人も書いてたな。


よく思うのだが、私の曲はほとんどが何かのエンディングテーマのように聞こえる。何かが終わり、良くも悪くも全てを綺麗さっぱり置き去りにして異境へ向かう感覚が目標だったりもする。


すごい自己分析力。
これ以上、言うことなし。

10. Astro-Ho!帰還

そしてラストでふたたび奈落へ。
M2に呼応するだるくかったるいワルツ。
ハープが奏でるもの悲しくも美しいメロディが被さった平沢流ジンタPartIIだ。
ここから始まる物語でもよかったのではないかと思えるが、リスナーを奈落へ突き落とし、いやあああああな余韻をぶった切る悲鳴でアルバムは終わる。
キャ→
「パレード」で終わった『白虎野』にも通じるが、あのように重い気分ではなく、あーバカバカしかった、と誰にも看取られず最期を迎えることができた一生だ。

悔やまれるのは「ASTRO-HO-06」が収録されなかったこと。
いや、収録の予定があったとかそういうわけじゃないのだけど、アルバム未収録なんだし。
せっかくアストロ・ホーが主人公なんだし(決めつけ)サウンドもメロディもぴったりこのアルバムにはまると思うのだが。

たぶん続くがいつとは言えぬ。

点呼する惑星 (3)

菊池桃子さんと花粉症と80年代について語らった日は100枚もの写真に映った人物の肖像権をクリアしなくてはならない日。
…と、某三行logを真似てみながら、さあ続き。

点呼する誘惑星

3. 人体夜行

シンフォニックなシンセにかぶさるモジュレートされたブリープ。
ピアノとティンパニが奏でる平沢らしいドラマティックな導入。
どアタマの「頂上に降る雪」でもうやられてしまう曲。
闇。雪。といったフレーズが似つかわしいピアノとハープをバックにした浮遊感のある美しいメロディ。
モジュレートされた声。

視点は天空にある。
天空から地を行く人を見ている。

ディストピアにおいて心安まるシーン。
天空から神が励ましていうような。
悟空を見守る菩薩。
「夜は無尽蔵」「キミは無尽蔵」「道は無尽蔵」と自ら課したリミッタを外そうとする。

4. Mirror Gate

平沢が「ロックン・ロール」と表現したという疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
シンセのピューンというイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

…のはずが、一転して奈落へ、ダーク世界へ。
思い切りハイ・スピードで走り抜けようとして関所の壁に激突したようなシャウト。
まさに鏡像の関。
龕灯返し暗転明転が仕込まれた背反要素を強引にブレイクでつないでひっぱる強引すぎる強引なナンバ。

だしぬけに別キャラ登場。
「通すまじ」って誰が?
ここにも別種の「天の声」が。

アルバム中最も演劇的なナンバ。
コンセプト・アルバムという言葉も古めかしいが、さらに懐かしい「ロック・オペラ」という言葉を久しぶりに思い出した。
しかし、そういうとどうもザ・フーの『四重人格』とかピンク・フロイドの『ザ・ウォール』とかデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』とかを思い浮かべてしまうな。

なんか『P-MODEL』あたりのP-MODELとか『サイエンスの幽霊』あたりのソロを思い出すサウンドですが「夢の島思念公園」のように気持ち悪いほどの陽気さが漂っていてステキです。

5. 王道楽土

テープの逆回転ぽい音のイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

平沢の「常套手段」てんこ盛り。
デスが共演したがるような、ハード・ロック的バロック的大仰な派手世界。

空間的視点ではなく、時間的視点を持ち込んだ曲。
歴史的記憶を呼び覚ます。
紀元前になにがあったか。
堯舜の時代へ。
でも思い出せない。
シャウト!!

6. 上空初期値

「LAYER-GREEN」系列に属する平沢らしい疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
個人的には「山頂晴れて2009」と呼んでもいる。
霧深い山を越えてきて、急に視野が開けたかのような爽快感。
歌詞を読まなくても、サウンドだけでそう感じさせる。
初めて聴いた時からインタラクティヴ・ライヴのクライマックスにいる自分を感じたほど。
平沢自身も自分の作った曲によってイメージを広げて作詞したのではないかと想像する。
「Mirror Gate」のように途中で化け物でも現れたらどうしようか、どこかに突き落とされたたらどうしようか、と疑心暗鬼になるものの杞憂に終わる。

見よ「ようこそ」と聞こえた

と、歌詞も非常に肯定的。
掘削機のようなドラム・ロールにプロペラのエンジン音。
意外なほどに安心して聴ける曲。

7. 聖馬蹄形惑星の大詐欺師

ジンタに誘われて入ったサーカス小屋に歴史の秘密を見た。
古代まで時間と記憶が遡り、神話と伝説を呼び起こす。

アルバム中もっとも派手でノリのいいアストロノーツ的サーフ・サウンド。
60年代エレキ〜70年代ハード・ロック〜80年代ニュー・ウェイヴと平沢音楽史が凝縮。
P-MODELっぽいとも言える。
ぜひ「美術館」もモズライトで弾いてもらいたいものである。

続きは明日だ、さあ、寝よう。

点呼する惑星 (2)

Green Nerve 会員には新譜と一緒に会報25号も届いているであろう今日このごろ。
続きを書くといたしましょう。

点呼する惑星

しかし、今回のアルバムは非常にレヴューしにくいのである。
平沢進自身が微に入り細に入り、というか、微細過ぎてどの部分が拡大されているかわからなかいような、親切なんだか嫌がらせなんだかわからない解説を、サウンドと歌詞の両面でやっているので、どうも書きにくいのだ。
特にサウンド面などは、客観的事実も多く書かれているので、生半可なことは書けないのである。
そんなPhantomNotesに加え、さらに会報では、自問自答(ノリツッコミ)漫才のような全曲解説までしちゃているのであるから、なおさら書きにくい。
まあ、作り手の解説が常に「正解」とは限らないが、まだ読んでいない方は、まずはこちらを読むことをお薦めする。
noroom.susumuhirasawa.com/modules/phantom/

…はい。
読みましたか?

では、こちらのレヴューは主観で逃げることにする。

「相反する複数の要素が同居した奇妙な世界」は、サウンドでも表現される。
もう、地味なんだか派手なんだかよくわからない。
この多彩なひねくれ度合は、ここ10年で最高値を記録している(計測はあくまでわたしの体内)。
「白虎野」のようなキャッチーな曲を求める向きにはいかがなものかと思うが、これはかえって初期で去っていったリスナーを呼び戻すのではないか。
古い技法も新しい技法もすべて同じ面に並べられ、新しいサウンドを紡ぎ出す素材となっている。
もう不意打ちが当然の連続で、フツーの曲展開が続くとどこかからなにか出てきやしないかとどきどきする始末。
機関(からくり)屋敷に放り込まれた気分。
出てくる時に頭がおかしくなっているか正常に戻っているかは人次第。
お代は見てのお帰り。
まずはこちらをご賞味あれ。


王道楽土

85秒で巡る『点呼する惑星』ツアー

というわけで、以下、初聴雑感。

1. Hard Landing

異世界へのドアを開く、導入的インスト。
メガフォンから響く「点呼」のアラート。
テルミンのような、というか、カーロスのようなレトロで不安定なシンセ。
重厚なシンフォニーにティンパニ、コーラス。
曇天の惑星に大気圏突入し、宇宙から惑星へ。
いつの間にか別の曲になっているようだ。

2. 点呼する惑星

重厚なオープニングから一転、思わず笑いたくなる。
「徒労」「シーシュポスの岩」「賽の河原」といった言葉が浮かぶ、タイトル・チューンとなったSF仕掛けのジンタ。
平沢流「美しき天然」か(ぜんぜん違う)。
ヴィブラ・スラップ(キハーダ)やシロフォンといったおもちゃ楽器。
バックではシンセのヘンな音がこれでもかと効果音的に流れる。
重荷を背負ったかったるい気鬱な調子から一転し「天の声」のように典雅なメロディ。
同じ舞台上でまったく違うシチュエーションが展開される芝居さながら。
『キン・ザ・ザ』はもちろんのこと、テリー・ギリアム作品なんかも思い浮かんでしまう。
…って、実は『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』くらいしか観てないんだけど、ほんとは『バンデットQ 』あたりが近いのだろうか。

では、昼休み終了(笑)。