言葉の力 (ii)

オウム真理教が社会問題化していたころだから、もう10年以上前になるだろう。
当時、オウム関連の報道で頭角を現していた新聞記者上がりの自称フリー・ジャーナリストが、TVで「私は自分の目で見たことしか信じない」と言っているのを観て「正気か!?」と思ったことがある。
メディアを通じて表現している者とは思えない自己矛盾も甚だしい思い上がりだ。

確かに、メディアを通した表現というのは、フィクションもノンフィクションもドラマもドキュメンタリも、等しく虚構性を帯びる。
メディアを介した情報というのは、すべて虚構だと思ったほうが健全である。
しかし、自分で直截見聞きした情報に虚構性がないかと言えば、肉体というメディアを通じている以上同じであるし、人間は自分自身を認識するのでさえ、言葉というメディアを介さなければならない。
情報というのは、すべて虚構であると思ったほうがより健全である。
結局、そうした情報=虚構をどう処理し、判断し、コミュニケートするか、ということでしかない。

twitterというメディアが面白いのは、なぜわかりきった自己の行為をわざわざ書くか、ということである。「日記」と言うには短すぎる日々の断片や行為の断片の記述。もちろん「フォロー」による他者とのコミュニケーションもあるだろうし、使いようによっては、ジャーナリズムとして機能させることも可能だ。
しかし、そうしたシステムに先んじてあるのは、自己とのコミュニケーションである。自己の相対化、意識化という点でtwitterには意味がある (このあたり、橘川幸夫vs田口ランディのトーク・ライヴでも話題に上ったらしい)。

メディアとはなんなのか、コミュニケーションとはなんのか、ということを少しでも考えたことがあるならば、自分の見たことしか信じないなどという妄言を吐くことはできないだろう。人は虚構を信じ、虚構を通じてコミュニケーションすることでしか、生きることはできない。もし虚構を否定するならば、そこには果てしない孤独が広がっている。

自分の目だけを信じる、と言ったところで、実はそこに根拠なんてないのだ。
『マトリックス』でも観るといい。
他人の目を信じ、耳を信じ、皮膚感覚を信じ、言葉を信じる、という代理体験のための一種の「契約」みたいなものがなければ、メディアは存在し得ない。
自分自身で世界中をくまなく旅することは不可能に近いし、歴史的な体験となっては完全に不可能である。
しかし、それを可能にしてくれるのがメディアだ。
他者=メディアを信じるからこそ、図書館だって、インターネットだって成り立つ。

恥ずかしながらネタばらしすると、自分のこうしたメディア認識に最も影響を与えたのは、30年前に読んだ渋谷陽一の初単行本『メディアとしてのロックン・ロール』(ロッキングオン増刊/79年)であったりする。恥ずかしついでに引用してみよう。

 人間は常に自分自身を特殊化したがる。限られた生のなかで所有する事のできる肉体はひとつだけであり、精神もひとつだけである。それを特殊化するなと言う方が無理かもしれない。
(中略)
 しかし人は特殊化と絶対化の中でのみ孤独なのだ。
 特殊な40億の個は、孤独な40億の個であり、相対化された普遍的な個は、何十億あろうとも個である限界を超えている。すべての表現者の努力は、その普遍的な個を獲得する為の闘いでもあるのだ。そしてメディアとはその最も有効なる最終兵器である。

さらに引用を続けよう。

 我々は1冊の書物によって、その書き手と何十年も共に暮らした人より深いコミュニケーションを得ることが可能である。自分自身の経験からも、優れた表現者との本当の出会いは、その人と具体的に知り合うことではなく、その人の表現と出会う事でだと断言できる。それは身近な他者においても同じである。
(中略)
 僕はロッキング・オンのスタッフである岩谷、橘川、松村と長い間共に仕事をしてきたし、友人としてもつきあってきた。しかし、3人の精神の核に触れたと実感できるのは彼らの文章を読んだ時である。まさにその事によってのみ僕は読者と対等なのである。メディアにおいて受け手と送り手とが対等であるとはそうした事であり、これは表現の基本構造であり、コミュニケーションの基本構造でもある。
(渋谷陽一/メディアとしてのロックン・ロール 4 より)

先の投稿で弟のことを書いたのは、なにもいい話にまとめようとしたわけではなく(笑)。実はそういうことを言いたかったわけだ。
さらに言えば書籍『音楽産業廃棄物』も編集方針も、実はそういうところにあったりする。

P-MODELデビュー20周年の一大イヴェント“音楽産業廃棄物”から10年。
この9月から1年間にわたる平沢進SOLO20周年/P-MODEL30周年記念イヴェント“凝集する過去 還弦主義8760時間” スタートした。
自分のこのイヴェントに対するスタンスも、やはり10年前と同じようなものである。
ある1曲、ある1枚のアルバムを前にした時、そこには聴き手のキャリアもバックボーンも関係のない、普遍的なコミュニケーションがあるはずなのだ。

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