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キミは点呼されたか

インタラクティヴ・ライヴの「三が日」も終わり、はや5日が過ぎた。
ほうぼうのサイトでレポートを見かけるようになり、今さら書くのは後出しジャンケンのようで気が引けるが、まだ「松の内」ということでお許しいただこう。
(って誰に?)
曲目などはライヴ直後にNEWSに掲載したが、ようやく脱力から復活し、感想めいたものを書く気になったのだ。

アルバム・レヴューで「ディストピア3部作」などという言葉を使ったけれど、ライヴを観て、まあ、それもあながちハズレではなく、平沢進なりに「けり」を付けたのだなあ、というのが第1の印象。
Astro-Ho!が「私がこの惑星に来てから9年の月日がたった」と言っているように、起点は2000年なのだ。
アルバム同様、ライヴも「ディストピア3部作」となっているのは間違いない。

ただ、前2作においても、決して自らの内側を問うことを忘れなかったのが、平沢である。
そして、今回はアルバム、ライヴともに、視点は外的事象より、むしろ「内なるディストピア」に向けられている。
ファンクラブの会報インタヴューで平沢は次のような要旨のことを語っている。

  • 『点呼する惑星』は情勢の話ではない
  • 内なるディストピアを放置したまま、外的なディストピアに真剣に立ち向かおうとしている人の滑稽さを描いている
  • (要約は高橋による。ちゃんと読みたい方はGreenNerveにご入会ください)

アルバムでは、聴く者の想像力に任せた部分が大きいが、ライヴではそうした要素がより具体的、直截的に説明されていた。
ここで重要なのは「滑稽さ」というキー・ワードだ。
アルバム、ライヴともに、B級SF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』の「ゆるい」「だるい」世界観やテイストが大きく影響しているわけだが、その核にあるのは「滑稽さ」だろう。
滑稽さ、笑い、というのは、言葉を置き換えると客観性である。

ライヴのもっとも重要なアイテムである「トゥジャリット(詐欺)」は、自らが作り出したものであり、簡単に換言するならば「先入観」ということだろう。
もちろん、平沢自身にはもっと別の考えがあるだろうし、トゥジャリットが壊れた時に何故なかからカンカンに怒った「幼児Lonia」が出てくるのか、とか、3種のペルソナ「AAROM」はなにを意味しているのか、とか、いろいろあるわけだけど、この際、そういうことは深く考えない。
まあ、単純に解釈するならば、怒り・悲しみ・恐怖といった強い感情に支配されている時は、外から自分を見る目を失い、自らの感情に支配されてしまうし、その中心にあるのは幼児性だ、などと言うこともできるが、ぜんぜん違っているかもしれない。
(そっから発展させると、空とか禅とかになりそうだけど、よくわからんしな)
でも、そんなん違っててもいいじゃん、と観客がラクな姿勢で楽しめるところが、今回のライヴのいいところである。

そう、今回のライヴは「説明しすぎない」ところがいいのである。
言葉を換えるなら「詰め込みすぎない」ということだ。

ライヴに日参した某アニメーション監督は、しきりに「バランス」という言葉を使っていたが、確かに今回は、音楽・物語・CG・ 文字情報、ゲストのパフォーマンス、そしてネット参加と、どれもが「いいあんばい」なのであった。
じゃあ、今まではバランスが悪かったのかというと、そういうわけでもなく、あのスタイルなりのバランスはあったと思う。
しかしながら、濃すぎ、言い過ぎ、演出しすぎ、難解すぎ、という側面も確かにあって、すべての要素が過剰なところでバランスを取ろうとしていた、とも言えるだろう。
それでも「Limbo-54」などは、その過剰さの臨界点で実を結んだ最高のパフォーマンスだったと言える。

しかし、そんなことは平沢自身がいちばんよくわかっていて、そもそも前の「Live 白虎野」の時点で、新しいスタイルへ移行したがっていたのである。
できれば物語性を廃して、もっとシンプルな構成にしたいというようなことを言っていただが、結局は「Limbo-54」の延長線上にあるスタイルになってしまった。
要はタイミングである、時機でなかったのだ。

今回のライヴで「風通し」がよくなった最大の要因はやはり、ゲストのSP-2によるパフォーマンス。
彼女達によって肉体性の比重が高まった意味は大きいだろう。
特に道化役 Rang のパフォーマンスは、会場の雰囲気を大きく変えた。
また、物語設定やテキストにも笑いの要素がふんだんに盛り込まれていたために、いわゆるバッド・エンディングでもブルーにならず楽しめた。
「父さん…」なんて古谷徹の声で脳内再生されたが、果たして飛雄馬なのかアムロなのかわからんかったよ。
(あ、飛雄馬なら「父ちゃん」か)

まあ、バッドでも振りだしに戻っただけで、兄弟で暮らせていいね、って感じ。
逆にグッド・エンディングでも「それなりのカタルシス」はあるものの、世界が一変するわけでもなく、そこには日常があるだけ。
また日々を生きるだけだよ、あとは自分でなんとかしてね、と。
そこも『キン・ザ・ザ』っぽいわけだが、非常に見ていて清々しい。
ただ、オチに「私のトゥジャリット」云々の台詞を持ってくるのは、ちょっとずるい気がしたけど(笑)。

さて、今回は楽器回りにも変化があったのは周知の通り。
キーボードがなくなって、とうとう「普通の楽器」はギターだけに。
かわりに登場したのが、レーザー・ハープみたいな新楽器。
名前はまだ無い。

これは、beamz というレーザー光線がトリガーとなって音を出す楽器をバラバラにして組み直し、パーツを附加しているわけだが、チューブラー・ヘルツ、グラヴィトンと続く、伝統の芸風である。
これを買えばすぐに平沢的パフォーマンスができると思ったら、甘い。
実はこのマシン、オリジナル音源を仕込むようにはできておらず、仕様も公開されていないのだ。
本来は発売元が販売する音(曲)をロードするだけになっているので、オリジナルの音を鳴らすには、自分で手を入れなくてはならない。
平沢版は、ハードとソフト、両面からハックした独自仕様なのだ。
にしても、平沢は製品版が出る以前、プロトタイプがWebで発表された段階からコイツに目を付けていたらしいが、いったいどんなレーダーを持っているのか、不思議である。

ミュージカル・テスラ・コイル(Zeusaphone)も今回はパワー・アップ。
前回(PHONON2551)よりもファラデー・ケージを大型化したため、その分、スパークも大きくなった。
もともと設計では150cm以上のスパーク出ることになっていたのだが、ほんとにあんなに大きなスパークが出るとは思わなかった。
疑ってごめんよ、スティーヴ。
しかも、今回は山車に乗って現れる新趣向。
トゥジャリット破壊にもひと役買って電撃をお見舞いした。

アルバム『点呼する惑星』と同様、ライヴ「点呼する惑星」も、この10年を総括すると同時に、新しい方向性を示すものとなった。
2010年代の平沢進がなにを見せてくれるか、非常に楽しみである。

…と、音楽ライターみたいに締めておこう。

点呼する惑星 (4)

平沢進は「からくりお江戸」に住むのがよいのではないかと思う今日このごろ。
団子はお嫌いか?

8. 可視海

ミドル・テンポのリズム・ボックスのイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

かったるいリズム・ボックスにウィスパー・ヴォイス。
自称スペイシーなボトルネック。
高揚と沈静の両面をもったヘンな曲。
計算された「ゆるさ」や珍しく「甘い」ギターがいい。
ちょっとロキシー・ミュージックを思い出しました。
これまたいかにもインタラクティヴ・ライヴの終盤に位置しそうな、ちょっとヘンな次元を感じる。
「ヘン」しか語彙がないのか。

9. Phonon Belt

ホルンに坊主のオペラ。
アルバム中もっとも美しく懐かしいメロディと歌声に包まれる、もっとも安心して聴けるドラマティックな曲。
歌詞的にも「裏主題歌」と呼びたくなるアルバムを代表するナンバ。
平沢らしい「記憶掘り起こし」手口満載。
まさに「見たこともないのに懐かしい」元型刺戟曲。
これまたライヴのクライマックスに似つかわしい。
…って、クライマックスばっかりか。
ライヴの中盤を盛り上げる曲はないのか…いや、あるけど。
でも、そういやPhantomNotesで本人も書いてたな。


よく思うのだが、私の曲はほとんどが何かのエンディングテーマのように聞こえる。何かが終わり、良くも悪くも全てを綺麗さっぱり置き去りにして異境へ向かう感覚が目標だったりもする。


すごい自己分析力。
これ以上、言うことなし。

10. Astro-Ho!帰還

そしてラストでふたたび奈落へ。
M2に呼応するだるくかったるいワルツ。
ハープが奏でるもの悲しくも美しいメロディが被さった平沢流ジンタPartIIだ。
ここから始まる物語でもよかったのではないかと思えるが、リスナーを奈落へ突き落とし、いやあああああな余韻をぶった切る悲鳴でアルバムは終わる。
キャ→
「パレード」で終わった『白虎野』にも通じるが、あのように重い気分ではなく、あーバカバカしかった、と誰にも看取られず最期を迎えることができた一生だ。

悔やまれるのは「ASTRO-HO-06」が収録されなかったこと。
いや、収録の予定があったとかそういうわけじゃないのだけど、アルバム未収録なんだし。
せっかくアストロ・ホーが主人公なんだし(決めつけ)サウンドもメロディもぴったりこのアルバムにはまると思うのだが。

たぶん続くがいつとは言えぬ。

点呼する惑星 (3)

菊池桃子さんと花粉症と80年代について語らった日は100枚もの写真に映った人物の肖像権をクリアしなくてはならない日。
…と、某三行logを真似てみながら、さあ続き。

点呼する誘惑星

3. 人体夜行

シンフォニックなシンセにかぶさるモジュレートされたブリープ。
ピアノとティンパニが奏でる平沢らしいドラマティックな導入。
どアタマの「頂上に降る雪」でもうやられてしまう曲。
闇。雪。といったフレーズが似つかわしいピアノとハープをバックにした浮遊感のある美しいメロディ。
モジュレートされた声。

視点は天空にある。
天空から地を行く人を見ている。

ディストピアにおいて心安まるシーン。
天空から神が励ましていうような。
悟空を見守る菩薩。
「夜は無尽蔵」「キミは無尽蔵」「道は無尽蔵」と自ら課したリミッタを外そうとする。

4. Mirror Gate

平沢が「ロックン・ロール」と表現したという疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
シンセのピューンというイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

…のはずが、一転して奈落へ、ダーク世界へ。
思い切りハイ・スピードで走り抜けようとして関所の壁に激突したようなシャウト。
まさに鏡像の関。
龕灯返し暗転明転が仕込まれた背反要素を強引にブレイクでつないでひっぱる強引すぎる強引なナンバ。

だしぬけに別キャラ登場。
「通すまじ」って誰が?
ここにも別種の「天の声」が。

アルバム中最も演劇的なナンバ。
コンセプト・アルバムという言葉も古めかしいが、さらに懐かしい「ロック・オペラ」という言葉を久しぶりに思い出した。
しかし、そういうとどうもザ・フーの『四重人格』とかピンク・フロイドの『ザ・ウォール』とかデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』とかを思い浮かべてしまうな。

なんか『P-MODEL』あたりのP-MODELとか『サイエンスの幽霊』あたりのソロを思い出すサウンドですが「夢の島思念公園」のように気持ち悪いほどの陽気さが漂っていてステキです。

5. 王道楽土

テープの逆回転ぽい音のイントロを聞くとそれだけでわくわくしてくるのはわたしだけでしょうか。

平沢の「常套手段」てんこ盛り。
デスが共演したがるような、ハード・ロック的バロック的大仰な派手世界。

空間的視点ではなく、時間的視点を持ち込んだ曲。
歴史的記憶を呼び覚ます。
紀元前になにがあったか。
堯舜の時代へ。
でも思い出せない。
シャウト!!

6. 上空初期値

「LAYER-GREEN」系列に属する平沢らしい疾走感あふれるスピーディでドラマティックな展開。
個人的には「山頂晴れて2009」と呼んでもいる。
霧深い山を越えてきて、急に視野が開けたかのような爽快感。
歌詞を読まなくても、サウンドだけでそう感じさせる。
初めて聴いた時からインタラクティヴ・ライヴのクライマックスにいる自分を感じたほど。
平沢自身も自分の作った曲によってイメージを広げて作詞したのではないかと想像する。
「Mirror Gate」のように途中で化け物でも現れたらどうしようか、どこかに突き落とされたたらどうしようか、と疑心暗鬼になるものの杞憂に終わる。

見よ「ようこそ」と聞こえた

と、歌詞も非常に肯定的。
掘削機のようなドラム・ロールにプロペラのエンジン音。
意外なほどに安心して聴ける曲。

7. 聖馬蹄形惑星の大詐欺師

ジンタに誘われて入ったサーカス小屋に歴史の秘密を見た。
古代まで時間と記憶が遡り、神話と伝説を呼び起こす。

アルバム中もっとも派手でノリのいいアストロノーツ的サーフ・サウンド。
60年代エレキ〜70年代ハード・ロック〜80年代ニュー・ウェイヴと平沢音楽史が凝縮。
P-MODELっぽいとも言える。
ぜひ「美術館」もモズライトで弾いてもらいたいものである。

続きは明日だ、さあ、寝よう。

点呼する惑星 (2)

Green Nerve 会員には新譜と一緒に会報25号も届いているであろう今日このごろ。
続きを書くといたしましょう。

点呼する惑星

しかし、今回のアルバムは非常にレヴューしにくいのである。
平沢進自身が微に入り細に入り、というか、微細過ぎてどの部分が拡大されているかわからなかいような、親切なんだか嫌がらせなんだかわからない解説を、サウンドと歌詞の両面でやっているので、どうも書きにくいのだ。
特にサウンド面などは、客観的事実も多く書かれているので、生半可なことは書けないのである。
そんなPhantomNotesに加え、さらに会報では、自問自答(ノリツッコミ)漫才のような全曲解説までしちゃているのであるから、なおさら書きにくい。
まあ、作り手の解説が常に「正解」とは限らないが、まだ読んでいない方は、まずはこちらを読むことをお薦めする。
noroom.susumuhirasawa.com/modules/phantom/

…はい。
読みましたか?

では、こちらのレヴューは主観で逃げることにする。

「相反する複数の要素が同居した奇妙な世界」は、サウンドでも表現される。
もう、地味なんだか派手なんだかよくわからない。
この多彩なひねくれ度合は、ここ10年で最高値を記録している(計測はあくまでわたしの体内)。
「白虎野」のようなキャッチーな曲を求める向きにはいかがなものかと思うが、これはかえって初期で去っていったリスナーを呼び戻すのではないか。
古い技法も新しい技法もすべて同じ面に並べられ、新しいサウンドを紡ぎ出す素材となっている。
もう不意打ちが当然の連続で、フツーの曲展開が続くとどこかからなにか出てきやしないかとどきどきする始末。
機関(からくり)屋敷に放り込まれた気分。
出てくる時に頭がおかしくなっているか正常に戻っているかは人次第。
お代は見てのお帰り。
まずはこちらをご賞味あれ。


王道楽土

85秒で巡る『点呼する惑星』ツアー

というわけで、以下、初聴雑感。

1. Hard Landing

異世界へのドアを開く、導入的インスト。
メガフォンから響く「点呼」のアラート。
テルミンのような、というか、カーロスのようなレトロで不安定なシンセ。
重厚なシンフォニーにティンパニ、コーラス。
曇天の惑星に大気圏突入し、宇宙から惑星へ。
いつの間にか別の曲になっているようだ。

2. 点呼する惑星

重厚なオープニングから一転、思わず笑いたくなる。
「徒労」「シーシュポスの岩」「賽の河原」といった言葉が浮かぶ、タイトル・チューンとなったSF仕掛けのジンタ。
平沢流「美しき天然」か(ぜんぜん違う)。
ヴィブラ・スラップ(キハーダ)やシロフォンといったおもちゃ楽器。
バックではシンセのヘンな音がこれでもかと効果音的に流れる。
重荷を背負ったかったるい気鬱な調子から一転し「天の声」のように典雅なメロディ。
同じ舞台上でまったく違うシチュエーションが展開される芝居さながら。
『キン・ザ・ザ』はもちろんのこと、テリー・ギリアム作品なんかも思い浮かんでしまう。
…って、実は『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』くらいしか観てないんだけど、ほんとは『バンデットQ 』あたりが近いのだろうか。

では、昼休み終了(笑)。

点呼する惑星 (1)

2003 蛮行と戦争の恐怖で制御される惑星 ―― BLUE LIMBO
2006 枯れシダ教に支配された世界 ―― Live 白虎野
2009 メガホン・タワーから日に1000回ものコール

今年の惑星は点呼する!!

Planet Roll Call 点呼する惑星
2009年2月18日発売
ケイオスユニオン(TESLAKITE)
CHTE-0046
01. Hard Landing
02. 点呼する惑星
03. 人体夜行
04. Mirror Gate
05. 王道楽土
06. 上空初期値
07. 聖馬蹄形惑星の大詐欺師
08. 可視海
09. Phonon Belt
10. Astro-Ho!帰還

平沢進の『BLUE LIMBO』『白虎野』に続く、ディストピア3部作(例によって勝手に命名)の完結篇。
その途中には、核P-MODEL名義の『ビストロン』という「番外篇」もあったわけで、21世紀の最初の10年はディストピアの告発と克服に充てられたとも解釈できる。
ひとつの契機となったであろう9.11も随分と遠い記憶となってしまった。

また本作は、ある「物語」をベースにしたコンセプト・アルバムでもある。
ただし、Phantom Notes に記されたセルフ・ライナーノーツによると、リスナーの自由な解釈を阻害しないよう、その「物語」はいったん解体され、アルバムにはその骨子と断片のみが残されたらしい。
平沢がアルバム制作後に断片を再構築した物語は次のインタラクティヴ・ライヴで明らかになる。


荒涼とした平地が果てしなく続く「点呼する惑星」。
文明の気配はなく、しかし不気味に並ぶ無数のメガホン・タワーは日に何度も点呼を繰り返す。
何処に居ようとも届く点呼の声に、その男の脳ははっきりとした「世界」を作り出す。
男はその「世界」に住んでいるのだと信じていたのだが…。
彼は、地図にはない地の果てを目指す旅に出た。


私はこのアルバム『点呼する惑星』を作るにあたって、ある物語を作った。
しかし、それは創作の地図として作ったに過ぎず、伝えたいメッセージとして在ったものでは ない。
これは音楽の作品である。物語は音楽の流れを整えるために解体され、断片化された。
まずは音楽として楽しんでもらいたいと思う。
「点呼する惑星」の物語は、リスナーの数だけ有っていいのだ。(平沢進)


(以上、オフィシャル・サイト NO ROOM より)
noroom.susumuhirasawa.com/modules/artist/rollcall.html

M10「Astro-Ho!帰還」が示すように、これは地球に帰還したAstro-Ho!の物語なのかと思い、うっかり「地球オチ」の名作ディストピアSF『猿の惑星』を思い出してしまったが、そう単純な話でもないらしい。
「Astro-Ho!」とは、99年にP-MODEL名義で公開されたMP3「Astro-Ho (narration Ver.)」に登場し、平沢が「宇宙の捨て子」と呼ぶキャラクタで、2006年には平沢進名義で公開された亜種音TV Vol.14「ASTRO-HO-06」で再登場した。
「宇宙の捨て子」からは「宇宙の孤児」という言葉も浮かぶが、ハインラインはあまり関係がなさそう(アルファ・ケンタウリは出てくるけど)。
平沢版「コンスタント」「トム大佐」「トーマス・ジェローム・ニュートン」と言い換えてもいいだろう。

作品のイメージに重要なヒントとなったのが、平沢が常にフェヴァリットに挙げるロシアSF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』なのは言うまでもない。
さらに加えるならば同じロシアSF映画『惑星ソラリス』あたりか。

個人的に思い浮かべたSF映画に『ミクロの決死圏』がある。
この映画では潜水艇か宇宙艇のような乗り物が不思議な空間を旅するが、そこは宇宙でも海中でもなく、人間の体内なのである。
べつに「実は体内だった」オチというわけではないが、インナー・スペースもアウター・スペース同様に不思議な世界であることを幼児だった自分に教えてくれた。


あなたが人より遠くへ行けないのは、あなたが描いた地図のせいだ。


Phantom Notes 2009年1月22日 新譜世界断片高倍率拡大図7 より
noroom.susumuhirasawa.com/modules/phantom/index.php?p=116

結局、この世界を形作っているのは自分のイメージであり、自分の脳内イメージから逃れられない。
『マトリックス』などもそうだが、結局、ディストピアを形作っているのは、自分のイマジネイションなのである。
ジョン・レノンに言われなくても、養老孟司に言われなくても、そうなのである。
いや、言われてもいいんだけど。

これは「Live 白虎野」でもそうだったが、ディストピアから脱出するには「支配者を討つ」のではなく、自分自身と対決するしかない。
その意味では、平沢進というひとは一貫している。
恐怖のパレードも「キミの名の下に」やって来るのだ。
他人のせいなんかにしないのである。

『BLUE LIMBO』『白虎野』と続いたせいか、平沢進は陰謀論のひとだと思われている節もある。
陰謀論というのはSFのようなもので、通常の世界観とは違う、もうひとつの視点を得るという意味ではたいへん面白いし、フリー・エネルギーなんかと同様に平沢の想像力をかき立てるひとつの素材になったであろうことは想像に難くない。
ただ、平沢はオカルト信者のような「ロマンチスト」ではないし、そっち方面には意外なほど(残念なほど?)醒めた視点を持っている。
そんなに平沢進は「いい人」でも「おめでたい人」でもない。
そんなことは平沢リスナーなら百も承知だろう。
いや、性格が悪いわけではないが(笑)。

現実感を削ぎ落として、異世界での物語に仕上げているものの、そこには恐ろしい現実の鏡像がある。
とはいっても、ガチガチにシリアスなものはなく、主人公と思われる主観的存在を「バカじゃねーの」と天空あたりから見ている客観的存在がある。
きっちり組み上げた物語ではなく、積極的に穴だらけでバカバカしい。
これは『キン・ザ・ザ』を観たことがある者ならば納得の「質感」である。

点呼する惑星 (0)

さて、いよいよ明日は平沢進『点呼する惑星』の発売日である。
新譜は発売日前日には店頭に並ぶのが通例であるから、もう多くのリスナーがアルバムを手にしたことだろう。
発売日より前に入手することを、和製英語でフライング・ゲット、略してフラゲと言ったり書いたりするらしいが、略する前の和製英語ですら意味不明なのに、加えて略するともう何語であるかさえわからなくなる。
こういう元は隠語のような仲間内でのみ使っていた言葉が一般化するのは、自らが所属する閉鎖的な小さなコミュニティ内でしか通用しない言葉を「外の世界」でも無頓着に使うことから広がっていくのだろうが、きっとコドモかイナカモノなんだろうな。

そういえば流行語になった(させた)らしい、アラサーとかアラフォーとかいうのも、いかにもイナカモンの集まりの広告業界が言い出しそうなフレーズである。
そういえばキンクリとかロバフリとか略する不届き者がいるが、いったいなんなのだろう。
ピーガブにいたっては蔑称のような気さえするが、ここまでくるとちょっとだけ面白い。
そういえば一時期、ムスタングをマスタング、ムーグをモーグに言い換えたように、ピーター・ガブリエルをピーター・ゲイブリエルに言い換えようという動きがメーカ主導であったけれども、根付かなかったな。
それならば、ピーゲブか。
もう妖怪の名前だよ。
それより前に、レッド・ツェッペリンをレッド・ゼプリンと言い換えたほうがよいように思うが、福田一郎先生は喜んでも渋谷陽一先生は喜ばないだろうな。

話が逸れた。

今回は発売日にはレヴューを書き上げて、一気にレヴュー・コーナーに掲載しようと思っていたのだが、なかなかそうもいかない。
またいつものように、だらだらと思いついたことを書き綴って、忘れたころにまとめ直して、レヴュー・コーナーに載せることとしよう。

税関はいつまで休んだか

インフルエンザのおかげで予定外に長く取ることになってしまった正月休みの楽しみにと、壊れてしまった Psion Series 5 の修理をすることにした。
もちろん、そんなもののパーツは国内で普通に売られているわけがないので、海外(イギリス)から買うことになる。
しかし、ちょっと考えが甘かった。
郵便物の通関を行う税関はお役所であり、12/27から1/4までの年末年始はたっぷりとお休みになるらしいのである。
郵便物の通関業務が日曜祝日や土曜午後が休みということは知っていたが(これも初めて知った時は驚いた)まさか、9日間にわたって休もうとは思わなかった。
おかげで、元日に成田に着いた荷物は今日(5日)まで寝かされるはめに。
ネットでトラッキングしたところ、ようやく本日昼に通関を終え、現在は近所の配達局まで輸送中である。

ちなみにに、12/27に東京からドイツへ向けて発送した荷物は、12/29にフランクフルトへ到着し、ちゃんと1/2には配達されている。
生活習慣の違いはあるとはいえ(向こうはクリスマスに休むだろう)日本のお役所ももう少しなんとかしてもらいたいものである。
郵政民営化でサーヴィスが向上しても、これでは意味なしである。
せめてEMSくらいは、休日関係なく通関業務をすべきではなかろうか。

これが趣味のものであったからまだいい。
仕事関係であれば、EMSなんぞ使わずUPSなりFedExなりDHLなりを使うだろう。
それらのいわゆる国際宅配便は、通関業者も兼ねているので、休日も関係なく通関業務を行っており、荷物を寝かせるようなことはしない。
EMSより割高とはいえ、ビジネス用途なら背に腹は代えられない。

そういえば、昨年の平沢進のライヴ PHONON 2551 で使った Musical Tesla Coil Zeusaphone は、本番3日前になってようやくリハーサル・スタジオに届いたのだが、もし FedEx を使っていなかったら本番に間に合わなかったかもしれない。
輸入代行業者(笑)としては、実にはらはらさせられた。
国内では極めて珍しいブツであったため、通関に引っかかって中身をチェックされることになったが、通関を終えた荷物はいちはやく引き取りたいむね相談すると、配達先の変更だの、特別便だのとさまざまなオプションを用意してくれた。
もちろん有料だけど。
パーツごと4個の箱に詰められた Zeusaphone が届いた時には万歳三唱したものである。

Zeusaphone の制作者によると、テスラ・コイルを楽器としてライヴで使用したミュージシャンは、世界で平沢進が初めてなそうである。
それもそのはず、Zeusaphone 自体が売れたのもこれが初めてらしい(笑)。
ただでさえ怪しいテスラ・コイルを「電子楽器」だと言い張って、よく通関をパスしたものである。
テスラ・コイルで「演奏」したわけではないが、日本におけるテスラ・コイル研究者/パフォーマの第一人者、薬試寺美津秀さんが作った巨大テスラ・コイルがチューブのコンサートで使われた例はあるそうで、ひょっとすると、それが「前例」になったのかもしれない。

通関をパスしたとはいえ、Zeusaphone が果たしてほんとにネット上の映像で見たようにバリバリ働いてくれるのか、組み立ててスウイッチをオンした途端に感電や電磁波で黒こげにならないか、たとえ派手に動いてくれたとしても会場側に「やめてくれ〜!!」と言われやしないか、などなど心配したが、結果から言えば大成功である。
にしても、紙切れ1枚というAmigaの周辺機器並みに簡素なマニュアルで、よくぞちゃんと組み立てて稼働させられたものだ。
感電を恐れずMIDI機器を接続・調整してくれた音響スタッフに感謝。
もちろん、最終的にサウンドを奏でたたのは演奏者自身なわけで、いくらAmigaで慣れているとはいえ、コンピュータのハングアップももろともせず、変態な機器をよくぞ使いこなしたものである。

今回はステージの広さの都合で、ファラデー・ケージは125cm四方、高さ310cmというサイズに縮小されたが、本来は250cm四方であり、放電の規模もケージのサイズまで大きくなる(予定)。
次の活躍が楽しみである。

ヒラサワはキャパに並んだか

SP-2

11月1日。
そろそろ平沢進の単行本『SP-2』が書店に並んだころだろうと、事務所近くの紀伊國屋書店渋谷店まで行ってみた。

まず、新刊コーナーを探してみる。
ない。
タレント本コーナーを探してみる。
ない。
タレントの写真集コーナーを探してみる。
ない。
サブカルチャーのコーナーを探してみる。
ない。
文学・エッセイのコーナーを探してみる。
ない。

うーむ。
店員にきいてみることにする。
店員はPCで検索したのち、この本でよいかと画面を確認させてくれる。
では、ちょっとお待ちをと、若い男性店員はすでにわたしが見て回った書棚を探しに行く。
もちろんない。

男性店員は先輩と思われる女性店員に相談する。
こんどはふた手に別れて探しに行く。
すみませんね、ほんとは客じゃないんです、担当編集なんです、すみません。
と心でつぶやきつつ、レジ前に佇んで店員の動向をうかがう。
なかなか発見されない。
店員はアート本や芸術系写真集のコーナーを眺め回している。
そうか、そういうコーナーもあったなと思って遠目に見ていると、覚えのある背表紙が書棚の上にほうに棚差しになっているではないか。
店員の目は素通りしてしまったようなので、書棚へ進み、自分の手で取る。
「これです、これ」

隣はロバート・キャパの写真集である。
名誉ではある。
しかし、営業的なことを考えるはなはだ困ったことである。
広い書店の奥まったところにある芸術系写真集のコーナーの上のほうに棚差しでは、客の目に留まる機会は非常に少ない。
せめて平台に置いてもらいたい。
理想を言えば、ロバート・キャパの隣ではなく、話題の新刊コーナーでファン・ジニ写真集であるとかB’z20周年記念本であるとか、そうした大型本と一緒に並べていただきたいのである。

書店への営業対策を考えつつ、手に取った本を申し訳なさげに書棚へ戻して紀伊國屋を後にしたのだった。
手間をかけさせてしまった店員さん、ごめんなさい。

さて、困ったのはリアル店舗だけではない。
ネット書店でも困ったことはいろいろある。

まず、最大手のAmazonであるが、配本日である10/29に”SP-2″で検索したところ、出てこない。
“SP-2 タイ””SP-2 ニューハーフ”などで検索してもヒットせず、ようやく”SP-2 平沢”で出てきた。

11/3現在ではAmazonでも”SP-2″だけでヒットするようになったが、この時点では”SP-2―タイのニューハーフ?いいえ「第2の女性」です”と、ページに掲載されたタイトルをC&Pして検索してもヒットしなかったのである。
10/29時点では『SP波動法株式攻略読本 (相場読本シリーズ2) 』とか『剣客商売 (2) (SPコミックス―時代劇シリーズ)』とか、どこがSP-2なんだか遠いにもほどがあるようなものばかりヒットしていた。
Amazonの検索システムの詳細は知らないが、きっとGoogleなどと同様に、単純な全文検索結果ではなく、実際にリンクをクリックした結果が検索結果の順位に反映されたりするシステムなのろう。

紀伊國屋やセブンアンドワイなどでは、早い時期から”SP-2″でちゃんとヒットしていたし、読者にとってはそっちのほうがありがたいのではないかと思う。
bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=SP-2
www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32154489
www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032154489&Action_id=121&Sza_id=B0

ちなみに、ビーケーワンは”SP-2″ではヒットせず”エスピーツー”でなくてはならないようだ。
www.bk1.jp/product/03049458

八重洲ブックセンターでは”エスピー ツー”とキーワードを分けなければヒットしなかった。
yaesu-book.jp/netshop/index.cgi?ses_id=&allkey=%2Bauthor%3A%CA%BF%C2%F4%BF%CA&key=&top=0&cd=51&btob_flg=$bto_flg$&predsp_id=41&dsp_id=42&nextdsp_id=41&popdsp_id=&bid=2230174

面白いのは三省堂で、各店のどのコーナーに置いているのかまで、検索結果で表示される。
やっぱり、写真、美術書、アートにくくられるのか。
www.books-sanseido.co.jp/reserve/zaikoDetail.do?pageNo=1&action=%8D%DD%8C%C9&isbn=4309908063

また、Amazonは一般書店と異なる流通システムをとっているせいか、11/3現在、本の内容紹介が掲載されていない。
本来は取次経由で注文票や本の内容紹介は各書店へ伝播しているはずなのである。
表紙写真もAmazonでは11/2か11/3にようやく掲載されたが、それ以前はなかったので、しょうがなくユーザ投稿の形で掲載した。
そういえば、一部のネット書店では、サブタイトルが途中で切れてしまう現象があって、登録システムのせいだとは思うが、謎である。

www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3667577/s/~6b19cf0ce
books.yahoo.co.jp/book_detail/32154489
(と思ったら、とりあえずYahoo!ブックスは修正されているようだ)

表紙写真といえば、どうもよくわからないのが、ネット書店によって掲載写真が違っている点である。
本来は、出版社側から配布されている写真、この本で言えば上に掲載したのと同じ写真がネット書店でも掲載されているはずなのであるが、上記リンクを見てもらえればわかる通り、まちまちなのである。
たぶんオフィシャルな写真がちゃんと届いていなかったために書店もしくは流通が独自に撮影(スキャン)したと思われるが、みなさん手間をかけさせて済みません。

ec2.images-amazon.com/images/I/41puqtKuq5L._SS500_.jpg
img.7andy.jp/bks/images/b9/32154489.JPG
bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4309908063.jpg
(紀伊國屋なんかはシュリンクの上からスキャンしたようだ)

でも、そういえば『改訂復刻版 音楽産業廃棄物』でも、Amazonなど表紙写真はオフィシャルのもではなかったなあ。
どういう原因なのか、こんどはちゃんと調べてみることにしよう。

こうしたことは、もちろん書店側に一方的な非があるわけでない。
今回は発行元と発売元が異なるので、連携の問題もあるかもしれないし、営業的な問題かもしれない。
制作担当である、わたしの責任もあるかもしれない。
今からできる対策はしておき、今後の反省材料としたい。

と、いつになく真面目に締めてみる。

SP-2は微笑んだか

平沢進、初の著作『SP-2』が今月末に刊行される。
3日ほど前、ようやく刷り上がってきたので、見本を届けてもらった。
編集者としてこの半年つきあってきた本なので他人事ではなく、思うことは多々あるのだが、そういう話はまた追々。

SP-2

  • SP-2 タイのニューハーフ? いいえ「第2の女性」です
  • 執筆・撮影: 平沢進
  • 発売日: 2008年10月31日(地方によって前後します)
  • 本体価格: 3500円(税別)
  • 発行: ケイオスユニオン 発売: 河出書房新社
  • ISBN 978-4-309-90806-9 C0095
  • B5変形(四六倍判) 上製 全208ページ(カラー104ページ)
  • 仕上がってきた本を手にとってまず思うのは、重たい、ということである。
    もちろん束見本で重さはわかっていたのだが、中が真っ白の束見本と違い、ちゃんと印刷されて中味のある本であるからして、手にとって読もうとする。
    数ページめくっているうちに、手にずっしり重さを感じ、さらにページをめくっていると、腕がだるくなってくる。
    重量にして1kg以上、こりゃあ、机なしでは読み続けられない本である。
    もちろん、床に置いて寝ころんでページをめくってもよいが、間違っても中空に持ち上げようとしてはいけない。
    うっかり顔面に落下しようものなら、怪我をするかもしれない。

    さらに気になるのは、本の汚れである。
    この本は布(クロス)張りになっており、布というのは皮脂や汚れを吸い取る性質がある、これ当たり前。
    よく手を洗って読書に臨まないと、本が手ぬぐいのようになってしまう。
    コーティングされた巨大な帯があるので、その部分を持つようにすれば本体に汚れがつきにくいが、そうすると帯で微笑むFiat嬢に汚れがついてしまう。
    かようなことが気になる向きには、トレーシングペーパーなどでカヴァーをすることをお薦めしたい。
    変形サイズゆえ、市販品でぴったりのカヴァーは入手困難と思われる。

    ところで先日、タイ王国を訪問したので、ぜひともFiat嬢に会うべく彼女が連日出演するゴールデン・ドーム・キャバレー・ショウ(といっても飲み屋ではなくシアター)へと向かったのであるが、なんとその日は休み。
    巻末を飾るKukkai嬢、Gun嬢の演技を堪能して帰ってきたのであった。

    DEVOは半ズボンをはいたか

    8月11日(月) DEVOの来日公演(渋谷AX)へ行ってきた。

    DEVOのフェスティヴァル参加での来日については年頭に某レコード店オーナーからきいていたが、それはぜんぜん行く気はしなかった。
    40代にとっていわゆる夏フェスなどというものは地獄である。
    しかも、DEVOはニュー・ウェイヴのリスナーにとって最重要用バンドのひとつだが、実はわたし、そんなに思い入れがない。
    アルバムだって揃えていない。
    だが、単独公演もやるらしいと聞いて迷った。
    どうしようかな〜、武道館も観てないしな〜。
    でも、前座があるし、スタンディングだしな〜。
    と、考えあぐねていたら、まだAXの2階席が空いていることがわかり、決心。
    死ぬ前に1回は観とこ。

    前座はポリシックス。
    考えると彼らもメジャー・デビューから10年である。
    たとえばロックン・ロールやブルーズというジャンルの音楽は「極める」という言葉が似つかわしく、同じ音楽スタイルを40年続けていたっていいことになっている。
    しかしながら、初期DEVOや初期P-MODELのようなパンク/ニュー・ウェイヴ、バンド・スタイルのテクノ・ポップというのは初期衝動の最たるもので、同じスタイルを延々と続けるもんではない。
    変化してナンボである。
    しかしながら、彼らはそれをひとつの「芸」「スタイル」として10年以上続けているのである。
    初期ルースターズはよく「どの曲がカヴァーでどの曲がオリジナルかわからない」と言われたものだが、ひとつのスタイルとして完成したR&Bというジャンルは、そういうもんだろう。
    ところがポリシックスの場合、ニュー・ウェイヴでありながら、カヴァーなんだかオリジナルなんだかわからない曲ばかりやっているし、そもそもオリジナリティなんか目指していないのではないかと思う。
    これはこれで偉い。

    さて、45分ほどでポリシックスは終了。
    前の席にはシャンプーの折茂さんとPEVOさん。
    セット・チェンジして22:00。
    DEVOのヒストリーを追ったようなPVのリミックス上映に続いていいいよメンバー登場。

    げ……太っている。

    Webで顔写真しか見ていなかったのでわからなかったが、ボブ1号とサポート・ドラムであるジョシュ・フリーズ(ドラマーは事前にアナウンスされたジョシュではなかったというもある)以外、つまりマーク、ジェリイ、ボブ2号の3人は巨漢と言っても過言でないほど太っている。
    先日も学生時代の友人に「ピストルズ行かないの?」と訊かれて「でぶっちょ4人組になったピストルズなんか行かないよ、P.I.L.は観てるし」とか答えたところだったのだが、DEVOよ、お前もか。
    www.clubdevo.com/mp/live.html

    前半はでぶっちょ3人がキーボード、それにギター、ドラムという編成。
    「THAT’S GOOD 」「PEEK-A-BOO!」「WHIP IT」とか、3rd以降の曲をやったと記憶している。
    紙でできたツナギがはち切れんばかりである。
    しかし、なんかこれはこれでコミカル度、変態度が増していていいような気がしてくるから不思議だ。

    にしても、うまいバンドなんだなと妙に関心する。
    マークも驚くほど声が出ている。

    中盤からは、ギターx2(時にx3)、ベース、キーボードという初期編成へチェンジ。
    「SECRET AGENT MAN」「UNCONTROLLABLE URGE」「SATISFACTION」「MONGOLOID 」「JOCKO HOMO」といった1st〜2ndのナンバーで突っ走る。
    そう、ツナギを破き、半ズボンになり、疾走したのだ、初老と言っても過言ではない、でぶっちょ3人が。
    マークは「SATISFACTION」でエフェクターをくっつけたヘンなギターを弾いたり、はたまた「MONGOLOID」で放送禁止のパフォーマンス(そもそも曲そのものがアレだ)も見せたり、メンバー全員でビニール製のカツラ(?)かぶったり、サーヴィスしまくり。
    「変態バンド」「元祖テクノ・ポップ」のイメージが強いDEVOであるが、ライヴだオーソドックスなギター・バンドの側面を顕わにする。
    うっかりヴェンチャーズとか、寺内タケシとブルージーンズといったものまで連想してしまうパフォーマンスだ。

    本篇ラストが「GATES OF STEEL(鉄の扉)」で、アンコール1曲目が「FREEDOM OF CHOICE(自由という名の欲望 )」というのも、個人的に非常に好きな曲なので盛り上がった。
    アンコールのラスト「BEAUTIFUL WORLD」をオカマのBooji Boy(?)パフォーマンスで締めくくったマークだが、ケーキはコントのようにメンバーの顔にぶつけるかと思ったら、やらんかったね。

    とにかく、ほんとに観ておいてよかったと素直に思えるライヴであった。
    DEVOがこんなにすごい「ライヴ・バンド」であるとは、知らずに死ぬとこでしたよ。
    どうもわたしは「アイディア先行の頭でっかちバンドだから演奏なんてできません」という彼らが擬装していた「イメージ」にまんまとだまされていたらしい。
    初来日当時は、武道館でどうするの、ライヴなんて行ったってしょうがないじゃん、くらいに思っていた。
    ヘタなのに上手いフリするミュージシャンは多いけど、その逆を演じなくてはならないとは、ポリスにも通じる。
    ぜんぜんタイプは違うけど。

    そして、ライヴを観ながら、来年で結成30周年を迎えるP-MODELのことを考えたりもした。
    もしも平沢進がこのライヴを観ていたら、80年代P-MODELを再結成してもいいじゃないかと思ってみたりしたんじゃなかろうか。
    やんないだろうけど(笑)。