思い出すことなど 番外篇 その3

4月19日、葬儀屋と打ち合わせ。
明日20日は友引で火葬場が休みなので、通夜は明日、葬儀は21日とする。

葬儀にかんして、父は無宗教の「音楽葬」を希望し、友人の神主が建てた共同墓所に埋葬して欲しいと遺言していたという。
「葬式ではベートーヴェンの第5をかけて欲しい」というような話は自分も父が元気な時分から聞いていた。
しかし、祖父母を弔っている寺とは長いつきあいだし、仏壇には毎日欠かさず手を合わせ、命日や盆は寺に参詣してきた父である。
まさか本気とは思っていなかった。
きくと、父は代替わりした住職と折り合いが悪く、あの寺には葬ってほしくないと強く言っていたらしい。
祖父母のためにはわざわざ浄土宗の総本山である知恩院を参拝するほどだったが、自分自身は信心深いわけでも浄土宗に帰依しているわけではなかったということか。
それにしても、息子が意外に思ったほどであるから、親類はさぞかし驚くことだろう。

初めて知ったことだが、会費制結婚式で知られる北海道は、葬式もそれに近い。
新聞の死亡広告を見て大勢集まってくるくるらしい。
このために新聞を止められないという声もあるくらいで、広告せずに親族のみでこじんまりとやる葬儀は珍しいようだ。

なにごとも「規格外」というのはめんどくさい。
日本で葬式するなら「仏教でふつうに」というのがもっとも簡単。
遺される者のことを考えるなら「無宗教で」とか「戒名はいらない」とか「親族だけでこじんまりと」とか「音楽ばんばんかけて」なんて遺言してはいけない。
特にイナカは人間関係がめんどくさいんだから。
オーダー・メイドの葬式をやるなら、むしろ大手の葬儀社のほうがフレキシブルに対応してくれるのでよい。
マニュアルでは「無宗教」のケースも想定しているらしく、ちゃんと相談に乗ってくれるし、結婚式みたいにスムーズに進行する専業司会者もいるので、坊主抜きの葬式では助かる。

式次第は決まり、祭壇だの花だの棺だの霊柩車だのといったものも選んだ。
面倒なのは親戚だと思っていたのだが、実はいちばん面倒なのは母親であった。
親戚はたとえ不愉快に思ったとしても直に文句を言ってくることは滅多にないが、母はくどくどと同じことを繰り返して言う。
自分自身がかなり規格外な人間であるにも関わらず、母にはその自覚がまったくなく、常に世間体を過度に気にするので手に負えない。
「無宗教で音楽葬というのがお父さんの希望だったから。これはね、はっきり言ってたから」と自分も納得づくだったはずなのに、あとになって、やはり線香くらい置いたほうがいいのではないか、あのひとはお寺と昵懇だから怒らいだろうか、などと言い始める。
参列者は親族だけと言っていたのにどんどん増える。
そういうことなら、遺言は無視して普通に仏式でやればよいではないかと姉弟ともども憤慨する。

無宗教の通夜・葬式は「間がもたない」というのがいちばん困る。
そのため読経のかわりに、なにかやらなければならない。
父親の場合は「音楽葬」という希望だったので、姉が選曲に従って音楽をMP3プレーヤに仕込む。
「なんだかんだ言って、いちばん好きなのはベートーヴェンの第5」と言っていた父だが、葬儀には合わないとのことで外された。
葬儀屋はPAについてよくわからないというので、会場まで行って装置を確認し、電気屋にMP3プレーヤを接続するケーブルを買いにいく。

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4月20日、寒いと思ったら氷点下。
午前中に納棺。
東京では腐敗防止のためもあるのか死ぬとすぐに棺に納めるが、こちらでは通夜当日までは布団に寝かせておく。
納棺時には「湯灌」といって、親族が遺体を拭く。
東京でも「清拭」といって葬儀屋や納棺師が同じようなことを行うが、地方によってはほんとうに「入浴」させる習慣があるそうだ。

午後、父が親しくしていた神主が来て位牌がわりの「霊璽」に「御霊遷し」をしてくれる。
葬式自体はは無宗教だが、内々に家でやることになった。
神主も通夜には一般の列席者とともに参列してくれる。
この神主はもともと普通のビジネス・マンだったのが、神社の娘と結婚し、神社を継ぐことのなったという。
父と友人づきあいがあったといっても、神社の娘はわたしの小学校の同級生であり、父とは親子ほど年が離れている。

葬儀場ではまず司会の女性と打ち合わせ。
親族が取材される形で、どんどんメモをとっていく。
自分の仕事を見ているようである。

通夜は、司会者の挨拶、故人略歴紹介、黙祷、音楽鑑賞タイム、列席者の献花、食事しながらのご歓談タイムという流れ。
丸テーブルに椅子が置かれ、ほとんど結婚披露宴である。
青と白を基調にした祭壇の装飾は華やかだが過度ではなく、なかなか上品で好ましい。
音楽はベートーヴェンの交響曲3番・6番、ピアノ協奏曲第5番、ドヴォルザークの『新世界より』など。
司会者は、やや演出過多な語り口ではあったが、許容範囲ではあるし、うまい。
たった30分程度の取材でうまくネタを盛り込んだストーリを作るものだと仕事がら感心する。
しまいには、うっかり涙を誘われたりもする。
「自慢の弟でした」という伯母の言葉。
死に直面しても涙は出なかったが、あれこれと思い出すとやはり来るものはある。

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4月21日、寒いけどいい天気。
葬儀場の仮眠室という名の大広間で朝を迎える。
いまどきのイナカの葬儀場というのは旅館みたいになっていて、風呂、アメニティ、寝巻きなどが完備されている。
どこの地方でもそうなっているのかはわからないが、こういうのは初めてで驚かされた。
外気温零下1℃の極北でTV付きのジェット・バスに浸かりながら現実感の希薄なニュースを見る。
湯上がりのコーヒーが美味しい。

葬式は通夜よりさらにシンプル。
司会者挨拶、黙祷、詩の朗読、献花、お別れの儀、出棺。
BGMはチャイコフスキーの『悲壮』やベルリオーズの『幻想交響曲』など。
相談もなしに勝手に入れられた「911で死んだ消防士の詩」とやらの朗読には怒りそうになったが、間がもたないからしょうがないかと諦めることにした。
(なお、これはあとで調べたら911とは無関係な「最後だとわかっていたなら」という詩だった)
幼いころは釜に入れる時が愁嘆場の絶頂だと思っていたのだが、いまは棺に花入れる「お別れの儀」がもっとも盛り上がる場面である。

火葬場は新しく、煙突もない「無煙ロースター」である。
エントランスもモダンで、中庭には大きな石のオブジェが置いてあったりする。
友引の翌日だったため非常に混みあっており、そのためかぜんぜん話が通っていなかった。
焼き上がって骨を拾いに行くと、坊主と焼香セットが待っていてひと悶着。

この地で骨を拾うのは幼少時以来だが、東京とはまったく流儀が違う。
壺ではなく白木の箱に直入れするのが主流というのには驚いた。
納骨時に壺へ移すらしいが、道東の風習だという。
火葬場ではなく葬儀社のスタッフが骨を拾うというのにも激しく驚かされたが、これはこの葬儀社だけの流儀らしく、ふつうはやはり隠坊さんがやるそうだ。

父は癌で痩せ衰えて死んだが、骨は立派に残っており、量も多かった。
背が高かったので棺はLサイズにしたが、骨箱は普通サイズだったため、なかなか骨が収まらなくて難儀した。
東京では細かい骨は処分して主だった骨だけ詰めることが多いし、参列者が拾うのも1回とか2回である。
ここでは、すべての骨を詰め切るまで列席者が何巡もするし、骨が入りきらないと親族が棒で骨を砕くこともやらされる。
「元気になって釣りに連れてってくれるって言ってたのに、嘘つき」と繰り返していた5歳児も、熱い熱いと言いながら骨を拾う。

底が焦げそうなほど熱い「骨箱」を抱え、ふたたび葬儀場へ戻り会食。
父が死んで疲れがどっと出たのか、母は風邪をこじらして喉を痛めて声が出ないため、喪主に代わって挨拶をする。
しゃべりは下手だが、適当に起承転結をつけて話を作るのは得意なほうである。

大量の籠花とともに帰宅。
霊璽はあるのでまだ祭壇の空間的には寂しくないが、線香も鈴もないと、家で拝む時でもほんと間がもたない。

姉は仕事のやりくりをしてこのまま連休に入るということだが、すぐに帰京するのはさすがに母親が心配であるし、役所や銀行などの手続きもある。
自分も家族だけ先に帰して数日残ることにする。
今敏の菩提寺に焼香しにいく時間もできた。

父の遺品を整理しようと思ったら、自分の通知表だの図画工作など過去の遺物が大量に発掘された。
父は整頓壁のあるほうでなんでもインデクスをつけて分類しておくような人間であるが、その半面、ものを捨てられず、なんでもとっておく癖がある。
特にこうしたものは、子供の思い出の品ということで保管してあったのだろう。
しかし、この家もやがては処分することになるのだろうし、こうしたものも少しずつ整理・処分していくことにする。
自分の過去そのものが整理されていくようで、悪い気はしない。

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