思い出すことなど 番外篇 その4

ほんとにこの1年、いろいろあった、いや、ありすぎた。
平凡な人間にしては波瀾万丈の1年だったが、父の49日や義父の1周忌、そして今敏の1周忌が終われば落ち着くだろう。
帰京して2週間、連休も過ぎてそんなふうに思っていた5月8日の昼。
妻と5歳児は「母の日」ということで義母の家へ向かい、わたしは部屋でひとり机に向かっていた。
父の葬儀にぶつかってそれどころではなかった義母の誕生祝いも兼ね、夜はわたしも参加して会食することになっていた。

出かけたばかりの妻からメイルが来て、義母が倒れて救急車で搬送されたという。
義母とは4日前にも買物につきあったばかりであるが、元気にしていた。
貧血かなにかだろうかと思い、お茶の水のN病院へ向かう。

義母は蜘蛛膜下出血だった。
インタフォンに反応がないので訝しく思い、妻が合い鍵で開けるとドア・チェインの隙間から倒れた母の姿が見えたそうだ。
救急隊に鎖を切ってもらい、5歳児とともに救急車で病院まで来たのだという。
5歳にしてはほんとにいろんな経験をしているものである。

翌9日の昼、医師から説明を受ける。
蜘蛛膜下出血の死亡率というのは実は40年前から変わっておらず、1/3は病院へ搬送される前に死亡、1/3は入院後(手術後)に死亡、1/3が助かっている。
義母は搬送時から意識はあり、最初の1/3には入らずに済んだ。
蜘蛛膜下出血というのは、出血そのものの治療はできない。
行うのは再出血の防止手術である。
義母にはいまにも破裂しそうな脳動脈瘤が見つかったので、これを処置しなくてはならない。
蜘蛛膜下出血では、出血後48時間は再破裂の可能性が高く、4日目以降〜14日目くらいは「脳血管攣縮」という血流が途絶える現象が起きやすい。
そのため、脳動脈瘤の手術は通常、蜘蛛膜下出血後2日目〜4日目の間に行う。

だが、義母の動脈瘤は形状と場所がものすごくやっかいであり、すぐに手術できる状態ではない。
動脈硬化も見られ、造影剤を注入することも難しいほどだった。
心筋梗塞の兆候もあり、蜘蛛膜下出血による脳の血流不足を補おうとして心臓への負担が高まっている。
八方塞がり四面楚歌。
遠方に住む義弟も駆けつけたが、手術は明日以降となった。

5月10日、きのうできなかった造影剤を入れての精度の高い撮影をした結果、脳の奥深い位置にある動脈瘤の形状がはっきりわかった。
クリッピングできない可能性が高いうえ、クリップする前に動脈瘤が破裂する可能性もある。
動脈瘤をクリップできない場合や破裂した場合には、血管そのものを縛る必要があるが、それは即ち人工的に脳梗塞を作り出すことになる。
血流確保のためには脳動脈のバイパス手術も同時に行わなくてはならず、現在の心臓の状態ではその大手術に耐えることができそうにない。

5月11日、手術は脳血管攣縮の時期が過ぎた14日目(出血日を0日にカウント)以降に行うことが決まる。
義弟夫婦はいったん帰り、手術に合わせて再度上京することになった。
動脈瘤の手術が済んでいれば脳血管攣縮を防ぐため血圧を上げるそうだが、それもできない。
睡眠薬・痲酔薬を注入し、暗室で安静にし、10日以上は微妙なバランスを保ちながら綱渡りとなる。

眠らされているとはいえ、義母はまったく意識がないわけではなく、半覚醒のような、いわゆる夢うつつの状態にある。
タイミングによっては会話もできるが、、寝ぼけているようなもので、わたしや義弟の顔を見て「ここは北海道? お葬式は?」などと言う。
義弟に会った最後が父の葬式だったので、記憶が飛んでしまったのだろう。
重篤な状態にあることは敢えて知らせていなかったので「畳の上で寝たいねぇ」などとも言う。

手術までの3週間、いつ動脈瘤が破裂するか、逆に攣縮で血流が止まったりで危篤に陥るかわからないという不安に包まれていた。
毎日交代で見舞った妻や義妹は大変だったと思うが、ずっと寝かされていた義母本人も相当な負担であったろう。
もし自分自身が薬で3週間も寝かされたならと想像するに、拷問である。
手術が成功しても歩けるようになるには、かなりの期間を要すると思われた。

2011.05.20

5月30日、9:00から手術スタート。
脳外科の医師全員に加え、バイパス手術を行う血管縫合の専門医や心臓外科の医師、低体温痲酔で代謝を抑える痲酔医など、スペシャル・チームによる万全の体勢が整えられた。
例がないわけではないが、これほど大がかりな手術は珍しいらしい。
事前説明では決して楽観できない旨が伝えられ、妻はたくさんの同意書にサインした。

最悪のケースを想定し、脳の手術前にバイパスで使う腕の血管を摘出する手術も予め行うとのこと。
前腕部には尺骨動脈と橈骨動脈の2本があるので、橈骨動脈をバイパス用に使うらしい。
脳の血管を繋ぎ替えるバイパスだけで済むか、さらに橈骨動脈も使うバイパスも行うかは、手術中に決める。
すべてが手際よく済んでも8時間以上、難儀すれば10時間から12時間の大手術。
成功率は決して高くないが、手術しないで動脈瘤を抱えるリスクよりはずっとましなそうだ。

15時、執刀医より、バイパスは2系統とも行い、これから動脈瘤の手術に入ると経過説明。
21時、ようやく手術室から義母が出てくる。
未就学児は集中治療室に入れないので、5歳児が義母の姿を見るのは3週間ぶりだ。
医師によると、動脈瘤は予想通りクリッピングできない形状であり、2系統のバイパスで血流を確保してから右側の大脳動脈自体をクリップして血流を遮断した。
手術自体は成功したものの、脳梗塞の可能性はあり、バイパスに使用した橈骨動脈にも動脈硬化が見られたという。
バイパスによって脳に血液が行き渡るかどうかは翌朝以降にならないとわからない。

Yusima

5月31日、9:30から医師による説明。
バイパスは功を奏さず、すでに脳の半分に梗塞が見られ、さらには脳全体が腫れる「脳ヘルニア」を起こしている。
脳の腫れが止まらないので、頭蓋骨の右側を外して脳圧を下げる再手術を行った。
たとえ「最善」の結果でも左半身麻痺だと言わる。

6月1日、7:30から医師による説明。
脳圧は下がらず脳幹を圧迫し続け、左脳まで脳梗塞を起こし脳全体が機能していない絶望的な状態。
命が助かる見込みは非常に低く、もし奇跡が起きたとしても植物人間であり、いま現在が危篤と言えるので覚悟はしてほしい。
もって数日と思われるが、危険な兆候が見られてからすぐに息を引き取ることはないので、30分程度で駆けつけられるなら、きょうはまだ病院に詰める段階にはないだろう。
心停止した場合に心臓マッサージなどの延命措置を行うかどうか、家族で話し合って欲しい、と。
極めて異例なことだが妻が泣いていた。

医師の予想に反し、義母はそれから2日経っても3日経っても息を引き取ることはなかった。
そのかわり、交代で付き添う姉弟3人のほうに疲れの色が濃くなってくる。
わたしは食べものや飲みものの差し入れも兼ねて日に1度顔を見せる程度だったが、仕事を休んで上京している義弟に至ってはほとんど病院に住んでいるようである。
といっても仮眠室があるわけでもなく、待合室にソファがあるだけ。
義妹は「もう死に目に会えなくてもいいよ」と弱音を吐くほど。

救急車で搬送されて以来1か月、義母はずっと救急科病棟にいる。
面会は親族のみ、時間も基本的に日に3回と限られている。
心拍数が低下して外に出ていた義弟が急遽戻るということもあったが、持ち直した。
それでも日に日に心拍数、血圧、血中酸素濃度はともに漸次低下し、自発呼吸も減ってきた。

6月5日、日曜ということもあり、妻の妹家族も全員集まっていた。
もしかすると、このまま植物状態になって、しばらく生き続けるのではないかという気がしてきた。
それならばそれで、ずっと病院に詰めている生活は変えなくてはならない。

面会を終えて19時半、2家族で食事をして帰ることになった。
義弟夫婦は滞在中の義母宅にいったん戻っており、病院には2時間ほど誰もいなくなるが、いまの状態ならよいだろうと思えた。
病院の近くの店に入り、料理が出てきたころ、病院からの電話が鳴った。
妻と義妹だけすぐに戻る。
もう慣れっこになった感じで残った者は急いで食事を平らげ、病院へ向かった。
しかし、病室へ入るとすでに義母の息はなかった。
義弟夫婦もかけつけていたが、誰も死に目には会えなかったらしい。
ずっと誰か彼かいるように努めてきたのに、どうしてこういうタイミングなのだろう。

レア・ケースということで病院側では解剖の希望もあったが、葬儀が大幅にずれそうだったので断った。
6月6日に通夜、7日に葬儀、8日に前倒しの初七日と駆け足で執り行われ、10日には父の納骨のため帰郷する。
1年間で3回も骨を拾うなんて5歳児にとっても忘れられない経験だろう。
わたしは3歳で祖父で亡くたが、葬式前後の非日常の記憶はいまでも強く残っている。

たまたま母の日だったから発見が早く命が助かってよかったね、と倒れた当初は言っていた。
けれど、1か月も夢うつつの状態でベッドに寝かされ、長く辛い手術を受け、頭蓋骨を外されたまま死を迎えるよりも、むしろ発見が遅れていたほうが幸せだったのではないか。
もちろん、発見時に死んでいたら、それはそれで悔やんだことだろうし、手を尽くせたからこそそう思うのではあるが。
せめて手術前に一度はっきりと覚醒させて親子の会話をさせることはできなかったろうか。
長い長い夢を見ながら義母はなにを思っていたのだろう。

義母の死に関しては、父の死よりも「残念な気持ち」は強い。
父は90や100まで生きるのではないかと思っていたものの、80歳という享年は平均寿命に達しているし、子から見て充実した晩年を送れたとは思う。
義母の場合は、まだ72歳であり、義父が逝って10か月にも満たない。
4月ころだったか「ようやくお父さん(義父)の死を受け入れるようになった」と言っていたのが印象に残っている。
子供(妻や妹弟)からすれば、父は結婚してからずっと母に苦労のかけ通しであり、父の死により母はようやく「解放」されたはずだった。
これから好きなことをやり、悠々自適に暮らすはずだった。
こんなに早く逝くなんて、身の回りのことがなにひとつ自分でできない義父が義母を連れていったに違いない。
皆がそう思った。
ところが、入院中に見つかった義母の日記には、義父を失った淋しさが切々と書かれていたのである。

2011.06.11

6月11日、晴れ渡った丘陵の墓地に父の骨を納めた。
納骨のあと、母や姉、弟家族とともに阿寒へ向かった。
数日前まで母は行かないと言っていたのだが、妻が気晴らしに行きたいというので気が変わったようだ。
阿寒には、母は父とともになんども来ているし、義父や義母と一緒に来たこともある。
1か月半前に手をとって一緒に泣いてくれたひとが逝ってしまうなんて信じられないと母はこぼした。
父のワゴン車に乗るのもこれで最後。
母は運転できないし、車検も切れるので処分することになっている。
泊まったホテルは、震災後に海外からの観光客が激減したためもうじき閉館する予定だ。
なんだかすべてがお誂え向きに終わりに向かっている気がしたが、ま、いい。
東京へ戻ってもより深い終末感に覆われているのだし、そう簡単に終われやしないのだから。

akan

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