正しい齢45とは

四本淑三の「テレビを捨てよ、動画サイトを観よう」が面白い。
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この伝でいくと、アニメ絵が嫌いで電子工作が好きなわたしはまっとうな「齢45にもなる大人」ということになる。
いや、誤解なきよう。
わたしはアニメ絵とアニメ声が嫌いなだけで、アニメーションが嫌いなわけではない。

アニメ版『鉄腕アトム』とともに生まれたわたしは、TVアニメとともに育ってきたようなものである。
TVアニメ黎明期であるから、輸入アニメもたくさん放映されていたが、これも名作揃い。
TVに育てられたといっても過言ではなく、アニメ漬けの毎日だったように思う。
TVだけでは飽きたらず『東映まんが祭り』には毎年連れていってもらい、びっくりしたニャアである。

しかし『宇宙戦艦ヤマト』を最後に、熱心にTVアニメを見ることはなくなってしまった。
中学へ入り、興味の中心がTVから音楽へ移ってしまったせいだろうが、今思うと当時は大人向けのマンガはあっても、大人向けのTVアニメというのがほとんど存在しなかった(ルパン第1シリーズくらいか?)という理由もあったのではないかと思う。

であるから高校に入って『機動戦士ガンダム』が放送され、クラスの一部の特殊な人々の間で熱心に語られていたこともオンエア時には知らなかった。
あとになって、将来アニメ監督になる同級生に教えてもらい、再放送で観た時には『ヤマト』からたった4年でアニメはこんなにも進歩したのか、と驚いたものである。

80年代に入ると、押井守や宮崎駿の擡頭で「大人も観られる」アニメもさかんに作られるようになったが、しかし、それでまたアニメの世界へ戻ってきたかいうと、そういうことはぜんぜんなかった。

いわゆるアニメ絵とアニメ声の成立である。
他人の性癖のケチをつけるつもりはないが、触角のような髪型をしたり、猫のような耳をしていたりするとなぜに嬉しいのかさっぱり理解できない。
いや、わたしがいくら伊武雅刀ふうに「アニメ絵が嫌いだ」と言ったところでどこにもなにも影響するまいが。
あれがどうにも生理的に受け付けられなかったために、かの『新世紀エヴァンゲリオン』もリアルタイムでは観る気が起きなかったが、ずいぶんあとの「一挙再放送」でうっかり引っかかってしまった。

その後、アニメ監督になった男とからきいた話だと、今の若いスタッフに「アニメ絵やアニメ声が生理的にイヤ」とか言っても、まったくその意味が理解されないことが多いらしい。
というのも、すでにアニメのデフォルトがアニメ絵とアニメ声になっているため、あれが80年代後半から90年代にかけて形成された特殊な表現様式だとは認識されておらず、それ以外の表現様式をもったアニメーションのほうが特殊である、ということになってしまうらしい。
そういえば「アニメ絵」という言葉を最初に知ったのは、かの『サルでも描けるまんが教室』のなかでの竹熊健太郎先生の言葉であるが、いったい誰が発明したんだろう。

ついでに言えば、落差の大きな表情の変化や場面転換に用いられる極端なデフォルメをはじめとする、おたく受けする(と思われる)マンガ由来の(と思われる)アニメの表現技法も、いやなんである。
8頭身のキャラがいきなり3頭身になったりするのはたぶん、たがみよしひさあたりから始まったと思われるが、あれ、当時からいやだったな。
あと、羞恥の記号的表現であるところの顔の輪郭からはみだした斜線なんかは、80年代の少女マンガから始まったと思われるが、竹熊先生よろしく「漫符に頼るなあ!!」と叫びたい気分である。
であるからして、今どきの「萌え絵」にいたっては、もう鳥肌もんで気味が悪いのである。
初音ミクはあのキャラクターがあってこそのものなのだろうが、あんなキャラがないほうがよっぽどいいと思う層だってあるはずである。

だが、ひょっとしてこれは観ないで損しているかも、と思わされたのが、件の四本淑三の「テレビを捨てよ、動画サイトを観よう/なぜ我々は『けいおん!』に萌えてしまうのか?」なのである。
たとえば、青池保子のマンガのように、最初は絵柄に拒否反応を示しながらも、読んでみると面白くてヤミツキになったマンガだってある(いちいち例が古いね)。
食わず嫌いはいけないと育てられたではないか。

あれ、観たほうがいいですか?

他人の性癖のケチをつけるつもりはないが、なぜに触角のような髪型をしたり、猫のような耳をしていたりすると「萌える」のかさっぱり理解できない。

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