twitterでサベツ発言をしたからといって、Twitter社が糾弾されたという話はあまりきかない。
糾弾されるのはtweetした個人である。
これってすごく健全なことだよなあ、といまさらながら思う。
いわゆる出版・放送の禁止用語というのは、公権力に規制されているわけではなく、メディア側の自主規制である。
経緯はいろいろあるが、受け手である個人や団体から批判・非難・糾弾されると対応が面倒だから、というのがいちばんの理由だ。
つまり、受け手は、文章を書いた個人や発言した個人ではなく、メディアを運営する組織を批判・非難・糾弾するわけである。
文章を書いた個人や発言した個人にダイレクトにアクセスする手段がない以上は仕方のないことだし、編集権を持つメディアには掲載・放送した責任が生じる。
組織が責任を取るということは、日本では無責任を意味することが多い。
しかし、誰もが投稿可能なインターネット上のメディアでは、有名・無名を問わず情報を発信した個人にほぼすべての責任が生じるし、批判・非難・糾弾の対象となるのも個人である。
twitterなり、facebookなり、Google+なり、メディア側に対応すべき責任が生じるのは、明らかな犯罪行為とみなされた投稿があった場合くらいである。
むしろ責任問題が生じるのは、本来は個人のために設計されたメディアを組織が利用する場合ではないか。
twitterの公式アカウントなどはいい例で、いわゆる「なかのひと」が個人ノリでtweetしていることも多い。
あれっていつか問題が起きるよなあ、と思っていたらやっぱり起きた。
公式アカウントを名乗りながら、個人が単に面白がってやっているようなのは、どうにも違和感があるし、いざ問題が起こった時に組織の側はどう責任を取るか考えているのだろうか。
例の事件のように、管理不行き届きを認めつつも、委託先が勝手にやったことだからと言って切り捨てて終わりではないか。
委託ではなく社員が公式アカウントを運用していて問題を起こしたとしても、表向きはいろいろ言うだろうが、実質的には誰もなにも責任を取らずに終わるのではないか。
フレンドリなキャラクタを演出することはマーケティング的にアリなんだろうけど、ほんとに意図してやろうとするなら、それなりの計画と技術が必要だ。
自分自身これまでtwitterの公式アカウントをいくつか運用してきたが、自社はともかく、他社のアカウントでは恐くて余計なことなんか言えない。
いわゆる公式アカウントでは、敢えて事務的なtweetを心がけている。
もし個人ノリを出すならクライアントと綿密な打ち合わせをして、キャラクタ設計をするだろう。
公式アカウントのなかには、tweetのあとに括弧で担当者名を入れたり、プロフィルに注意書きを記載している場合もある。
これはまだ考えられているほうだが、それならなぜ個人のアカウントでtweetしないのかと思う。
あくまで印象であり統計をとったわけではないが、海外の企業を見ると、所属を明らかにしたうえで、業務に関することも個人が個人の責任でtweetしていることが多いようだ。
日本ではソフトバンクなんかもそんな感じだが、あまり一般的ではない。
サポート窓口に言えばいいようなことをtwitterで質問してくる阿呆がいるせいもあるだろうが、組織は組織、個人は個人、仕事は仕事、プライヴェートはプライヴェートでアカウントを使い分けていることが多い気がする。
公式アカウントで悪ふざけするのは、逆に個人として外に自己をさらさないで済むからではないか。
自分自身とは「別キャラ」だからこそ、ウケ狙いのことが言える。
なんという日本的倒錯。
facebookはそうしたやり方ができにくいシステムになっているが、そのせいか日本でfacebookはなかなか広まらない。
Google+は、twitter的な「ゆるさ」とfacebook的な「かたくるしさ」の中間に位置すると言われている。
それはそうだと思う。
しかし、日本には、組織やキャラクタの裏に隠れることなく、誰もが個人として存在し、個人として発言するような文化的土壌はほとんどない。
もともとの設計思想を超えた使われ方ができる「余地」がないと日本での普及は難しいのではないかと思ったりもする。
逆に欧米には2chのような巨大な匿名掲示板がない。
あれは日本もしくはアジア特有の文化なんだろう。
などということを書いていながら、わたしもネット上で顔(比喩ではなく写真という意味で)をさらしたりしていない。
シンボル・マークの裏に隠れていると言えなくもない。
顔を出すことのメリットはまったく浮かばないがデメリットはいくらでも浮かぶ、という単純な理由に加えて、なんとなく「恥ずかしい」という性格的問題があったりするわけで、ま、自意識過剰の裏返しなんだろうけど。
潔く顔さらさないとダメですか、鎮zさん。