思い出すことなど 番外篇 その1

2011年4月18日、父が死んだ。
早いものであれから1か月。
あと半月もすれば納骨である。


と書いたものの、その後、思いもよらぬ事態が発生し、さらに2か月半が過ぎた。
とっくに納骨も終え、いまは8月だ。


2010年3月に肺癌(扁平上皮癌)が見つかり、連休明けの5月6日に神奈川県立がんセンターで父は左上葉切除の手術を受けた。
地元の病院は心許ないとのことで、父はネットで情報を蒐集し、自分で決めた。
姉の住む横浜から近いということと手術の実績、最終的には電話応対の好印象が決め手になったとか。
手術前の検査ではIB期と見られていたが、切ってみればIIB期、再発時に聞いた話では実は腺癌も見つかっていたらしい。

手術に先立つ4月29日、父母、弟家族とともに金沢自然公園へ行った。
すぐに息が切れるので丘のうえまでの坂道をゆっくり昇っている姿が辛そうではあったが、男女ふたりの幼い孫と一緒に過ごす楽しそうな父を見る最後の機会ともなった。

父の手術後、もうそれでわたしは治ったと思っていた。
10年くらいあとには再発することもあるだろうが、当面は大丈夫であろうとさしたる根拠もなく安心していた。
いや、安心したかったのである。

6月4日には自宅の引っ越しがあって慌ただしく、その後は末期癌の友人にかかりきりだった。
ほかのことは考えたくなかったのである。

退院後に父は母や姉と一緒に箱根・湯河原へ行って湯治し、6月20日には北海道へ帰っていった。
自宅へ戻ってすぐに写真の整理をしてCD-Rで送ってきている。
まったく律儀な父だ。

この年の記録的な猛暑は北海道にも及び、メイルのログに見返すと、釧路で30℃を超えたのは生まれて初めてだと父もたいそう驚いている。
ログをたどっていたら、父から届いた最初のEメイルにいきあたった。
ヘッダを見ると2000年11月20日18:10とある。
父にPCを贈ったのはたしか前年の1999年だったと思う。
当初はまったく使う気がなかったようだが、囲碁のネット中継を見たくて使いはじめた。
思えばPCという贈り物は数少ない親孝行だったかもしれない。
もっとも、PCの使い方を問われるたびにケンカのようになってしまったが。
父は新しもの好きで融通性・理解力がある反面、自分の非を認めたがらない頑固な側面があった。

手術で摘出した組織検査の結果、リンパ節からも癌細胞が見つかった。
転移・再発の可能性も充分あるIIIA期だったらしい。
父自身も手術は成功してもう治ったものと思っていたので、相当に落ち込んでいた。

6月8日、恩人編集者の母の訃報があり、7月8日、先輩編集者が遺体で発見された。
8月16日、義父が逝き、8月24日、友が逝った。

10月10日、今敏の納骨でKON’STONEの京子さん、原さんとともに釧路へ。
父は喉に痛みが残っており、体調が悪いと言いつつも、わたしが行くと床を払った。
4か月ぶりに会う父は、快方へ向かっているように見えたし、そう思いたかった。
「今くんの奥さんにはなんて言葉をかけたものか、辛くて会えないなあ」と言っていたものの、帰りにはクルマで空港まで送ってくれた。
京子さんたちを迎えに行ったホテルでブライダル・コーナーを眺めながら「あんなドレスを着せてあげたかったな」とつぶやく。
孫の花嫁姿を見ることは叶わないと諦めていた。

もともと父には成人病の前兆はなにもなく、食事も野菜と魚が中心で絵に描いた健康食だった。
昔から「疎まれながらも100まで生きるね(笑)」と周囲も自分も言っていたのである。
母なぞ「お父さんだけは癌にならない」と思っていたそうある。

2010.10.11

12月20日、激しい胸の痛みと呼吸困難を訴え父は救急車で搬送された。
心臓疾患も疑われたが、肺癌の再発および転移が確認される。
医師は、もう末期であり積極的治療は不可能だという。
10月にはレントゲンで「肺に小さな影」が見つかったが、医師は精密検査をせず「様子を見ましょう」と言われたそうだ。
父からはこんなメイルを受け取っていた。

8/12
昨日の定期検査の結果、CT、腫瘍マーカー共に異常なし。

10/21
今日は午前に膝、肩に痛め止めの注射をしてきた、まだ効いているようで楽。
帰りに「腰を忘れてた」残念。

11/10
腰痛、肩、背中の痛みで苦しんで安眠が出来ず且つ、おまけにここ数日風邪気味か体調不良で参っています。
不眠のせいか体重も全然回復しないよ。

11/11
今日は13時半まで病院、痛め止めを注射したが全箇所効果なし。

11/20
飯鮨漬けてる。
今年は手が痛いので勘弁してと(母が)言ってるところを頼み込んで。
鰰は面倒なのでやめたが、今日、和商市場で、少々だけど、秋味(紅鮭)を一匹4800円で3本買ってきました。
上手く漬かればいいがね。所望なら又送るので楽しみに。
体調不良につきもう寝ます、全身痛くて寝れないけど。(肩、背中、腰、右膝等々)

いま思えば再発を疑るべきだったのだが、父は癌になる前から脊椎に湾曲があるとかで首から腰にかけて痛むことがよくあったし、風邪にかかりやすく治りにくい体質だったので、いつもの体調不良だろうと高を括っていた。
膝の痛みも肺癌以前からのもので、整形外科でも癌と無関係と言われていたため、父も再発ではないと思いたがっていたようだ。
しかし、12月に入ってから胸の痛みが強くなり、ただごとではないと自覚するようになったらしい。

姉は急遽帰省して父母とともにS病院の担当医の説明をきいた。
姉曰くこの担当医が非常に問題のある人物で、医師不足の地方病院ゆえにインターン上がりの新米が科を任されて勘違いしてしまっているのだとか。
消化器内科がS病院にしかないという理由で受診し、肺癌が発覚してからずっとこの病院にかかっているが、通院するにはかなり遠い。
手術後は家から近くて人材も設備も整ったR病院に転院したかったのだが、この医師は渋り続けた。
ライバル関係にあるR病院に転院されると自分の「成績」に関わるからかもしれない。
この1年でいろんな医者を見てきたが、いまは腕の立つ医者、キャリアのある医者ほど威張らないし、コミュニケイティヴで説明がうまく、セカンド・オピニオンを薦めたりもする。
この若い担当医とは逆である。

父の癌は左右の肺に広がっており、もはや積極的治療は叶わないが、痛みを取るためこのまま入院させ放射線で癌を縮小させるということだった。
姉は定期検診をしていながら癌をここまで「放置」もしくは「看過」した担当医をまったく信用していなかったし、なんらかの希望をつかみたかったので、父に上京してほかの病院で診察を受けることをすすめた。
担当医に問題があるだけでなく、そもそもS病院は規模が大きく患者数が多いわりにスタッフが少なく、看護師の申し送りすらまともに行われていないなど、病院自体のシステムがうまく機能していないのだという。

中途半端に場当たり的な放射線治療を受けるとほかの病院での治療が難しくなることもあり年末に退院したが、いま思えば、最後の年末年始を家で過ごせとことはよかったとは思う。
わたしも重粒子療法や陽子線治療、免疫療法の治験、緩和ケアについて調べたり問い合わせたりして年明けの上京を待った。
父も自分なりに調べて、がん研有明病院がいいかな、などとメイルをくれたりもした。

2011年1月3日、父は母と姉とともに上京。
足許がふらつくため車椅子を利用していた。
自力歩行が難しくなり車椅子へ、車椅子から寝たきりへと加速して病状が悪化していった義父や友の姿を見ているので、嫌な予感が過ぎる。
翌1月3日にはまず前年に手術をした神奈川県立がんセンターで検査を受けた。

1月6日の未明、再び胸の強い痛みを訴えて救急車で神奈川県立がんセンターへ搬送。
それ自体は急を要することではなかったが、検査結果を受けての医師の説明があった。
結論から言えば、末期癌で積極的治療が行える段階にはないとのこと。
余命が半年になるか、1年になるかは本人の気力次第で大きく異なる。
病気に対してできることはそう変わらないので、子供の近くで過ごすか故郷で過ごすか、いずれにするかは心の問題であり免疫力にも影響するので、本人の意志を最大限に尊重して決めるべきという。

緩和ケア病棟はどこも順番待ちらしいが、近くで入院してもらったほうがなにより安心できる。
こっちにいれば痛みのコントロールだけとっても「腹腔神経叢ブロック」「高周波熱凝固法による神経根ブロック」といった高度な神経ブロックやストロンチウム治療など、副作用の大きな放射線のほかに選択肢があるということは今敏の件で学んだ。
しかし、父はどうせ治療が叶わないのであればと故郷で過ごすことを強く希望し、ほかの病院を受診することもなく帰郷することにした。
姉はしきりに父を上京させた判断が間違っていたのではと自分を責めていたらしいが、神奈川県立がんセンターでセカンド・オピニオンを得られたことはよかったと思う。

1月10日、父と母へ帰っていった。
別れ際に空港で「こんど北海道へ行くまでには元気になって、釣りに連れていってね」ともうすぐ5歳になる孫に約束させられ、困った顔をしていた。

北海道へ戻ったところ、S病院の担当医はあからさまに「それみたことか」という顔をし、いまさら戻ってきても病床は空いていないので通いで放射線治療を受けるよう言われた。
こんな医師の世話にならずとも放射線治療なら近くのR病院でもできるし、R病院には緩和ケアの専門チームもある。
転院を望んだが担当医はなかなか認めず、もっと遠い病院を紹介しようとさえした。
放射線治療が終わった時点でさすがに両親とも「堪忍袋の緒が切れた」と強く迫り、2月からようやくR病院へ転院することとなった。
転院の書類を見ると、悪口雑言とも取れる文章が記してあり、まったく賛成できないが本人と家族の強い希望により転院するのでご迷惑でしょうがよろしくと結んであった。

3月2日から7日まで、実家に長逗留。
放射線治療によって肺癌は縮小して痛みが軽減したとはいえ、まだまだ痛みは残り、放射線治療の副作用と思われる倦怠感、食欲不振がひどい。
もともと自分としては放射線治療には反対だったのだが、積極的治療ではなく痛み取りが目的が短期照射ならば仕方ないかと思っていた。
しかし、衰弱した様子で横になっている姿を見ると、もっとほかに方法がなかったかと思う。

日常生活すべてに介護・介助が必要というわけではないが、立ち歩くと足許がふらつくので、2階に上がる際や風呂場に行く際などには肩を貸す。
メインのデスクトップPCは2階に置いてあるので、サブである1階のラップトップが快適に使えるよう無線LAN環境を整える。

父は若いころより低くなったとはいえ身長が173mくらいあり、それで47kgというから骨と皮である。
入浴を手伝った際に「痩せたなあ」と言いながら鏡を見ていた。
食べないから血も薄くなるし、免疫力も低下し、病が進行する。
そのためさらに食べたくなくなる。
食欲不振が悪循環の原因になっているので、少しでも食べられそうなものを作る。
父の好物である馬鈴薯を使ったポテト・サラダ、ポタージュ・スープは喜んで食べてくれた。

20110305

3月3日、父母とともに転院先のR病院へ行き、医師と面談する。
緩和ケア科の専門病棟はないものの、専門知識をもった医師と看護師がチームを組んで内科病棟内で体制を作っている。
肺や喉のほか、背中側の脇腹が時々ひどく痛むのでその検査、疼痛管理、食欲不振の回復などを目的に短期入院することになった。
あくまで「家で元気に過ごせる」ようになるための準備で、治療ではない。
R病院へ転院したってベッドの空きなんてありませんよ、というS病院の担当医の話はまったくのデタラメだったわけである。
なによりR病院の医師は患者や家族の不安を払拭するような真摯な話し方に好感が持てた。
父は痛みや体調不良にまったく堪え性がない性分で、周りから見ればたいしたことがなさそうなことでも、やれ痛いだのだるいだの言うほうではあるが、看護師によると我慢して我慢して重篤な状態に陥るよりはそっちのほうがいいのだとか。
早ければ翌々日からでも入院できそうだったが、父はわたしの滞在中は家にいることを望み、帰京の翌日から入院することにした。

その夜は、お気に入りのポテト・サラダとポタージュ・スープのほか、食べられるかどうかわからないものの、父の好物のオヒョウやツブの刺身、牡蠣の鍋も用意した。
父は牡蠣や豆腐、はんぺんを「美味しい」と言って食べ、オヒョウやツブも数切れつまんだ。
サロマ湖産の牡蛎は父も初めてだったそうで、こんどは殻付きのを食べたいものだなどと話した。
「美味しいなあ、これは飲みたくなるなあ」と言うので好きな酒をすすめてみるが、逡巡して「やっぱりやめとくわ」と言う。
正月に気分がいいので一杯だけ飲んだところ具合が悪くなってしまったので懲りたらしい。
この夜の父が発した「美味しい」は、これまで料理を作ったなかでもっとも嬉しかった。
滞在中は食欲の回復傾向が見られ母も喜んでいた。

3月4日、壁などに手すりを取り付けるためケアマネージャとリフォーム業者が見積もりに来る。
介護保険の「要支援1」に認定されているため10万円までは無料になるとか。
父は自分で歩いて動線を確認しながら、あれこれと取り付け箇所を指示する。

3月5日、リフォーム業者が図面と見積もりを持ってくる。
父は自分で「こんなにたくさんいるかなあ」と言っておきながら、母の「こんなにいらないんじゃない?」というひとことに不機嫌になり、図面を投げ捨てる。
病状が悪化して以来、どうも母に当たることが多くなったようだ。

高校時代の同級生とともに今敏の寺を参り、シャンパンとタバコを備えてくる。

3月5日、入院に備えて携帯プレーヤにCDを取り込む。
父はクラシックとジャズのひとだが、この時に選んだCDはジャズが多かった。
以前はMP3などの圧縮フォーマットを軽んじていたので、これまでデジタル・オーディオ・プレーヤを使ったことがなかったのだが、試しに聴かせてみると悪くないなと言うようになった。
ついでにCDの取り込み方をレクチュア。

3月7日、明日からの入院が正式に決まった。
ふつうの相部屋に空きがなかったとかで、パーティションで仕切られた半個室となった。
カーテンで仕切られた相部屋と違って落ち着けるし、父はたいへん気に入っていたそうである。
末期と診断されてから数年生きた例はいくらでもあると横浜の医師も言っていたし、放射線治療の副作用が収まり、食欲を取り戻せば元気が出るのではないかと期待して帰京した。

110307

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