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清原版『家族八景』

アマゾンにアクセスしたらば、この本を買えと言われたので買った。

家族八景
漫画: 清原なつの 原作: 筒井康隆

家族八景

2008年3月5日発売
角川書店
上・下巻 各651円
(帯の推薦文は、上巻=今 敏、下巻=筒井康隆)
http://www.kadokawa.co.jp/comic/bk_detail.php?pcd=200712000040
http://www.kadokawa.co.jp/comic/bk_detail.php?pcd=200712000041

清原なつのは五指に入る好きな少女マンガ家だし、筒井康隆は五指に入る好きな小説家であるからして、わたしにアマゾンが買えというのは当然である。
むしろ、清原なつのがこのようなマンガを連載していたことを知らなかったのが自分でも不思議なくらいだが、そもそも『コミックチャージ』なる雑誌は存在すら知らなかった…と言えばウソになるが、手にとって見る気がまったくせず、吊り広告も見たことがなかったので致し方ない。
http://www.comiccharge.jp/pc/top.php

まさに幸運な出会いとはこのこと。
清原なつのにはSF作品も多く、筒井康隆の作品をマンガ化すること自体はなんら不思議ではないし、読者としては期待してしまう。
清原マンガの知的な文体、潔癖さとエロスが同居した作風は七瀬をヴィジュアル化するにはぴったりである。

しかし、待てよ。
『家族八景』というのは情景描写や心理描写よりも登場人物それぞれから溢れ出す怒濤の思念が重点的に綴られた特殊な作品である。
とりとめのない思考の断片が羅列されたかのような小説をいかにマンガ化するというのか。
いかな天才・清原なつのであろうと、ちょっと企画自体に無理がないか。

そうした期待と不安はほぼ当たってしまった。
なんだかんだ言って期待が大きかったせいなのか、最初はどうにもアラのほうが目について仕方がなかった。
が、再読してみるとそう悪くない。
下巻の解説で、筒井康隆自身が直木賞落選時の選評として「暗い、いやな話ばかりだ」と言われた(書かれた)作品としているが、確かに『家族八景』は暗い。
これまで目を逸らしてきた自分自身の恥ずかしい側面を無理矢理見させられたような、そういう気分にさせれれる小説である。
むしろ厭な気分にさせる力があるからこそ、小説は成功しているとも言える。
その点は、マンガという表現の必然もあって、やや図式的になっている(よく言えば話が整理されている)とはいえ、清原版も成功している。
筒井自身が解説で「原作以上の文学的効果をもたらした」としているのもうなずける。
清原流のキャラクタ造形は期待以上で、特に七瀬を筆頭とした登場人物の女性たちは、みなそれぞれ原作とはまた違った魅力があふれている。

ところで『家族八景』と一緒に、これまで買いそびれていた『千利休』も今さらながら買ったのであった。

千利休
清原なつの

千利休

2004年11月25日発行
本の雑誌社
1700円
http://www.webdokusho.com/kanko/zassi-kankou11.html#rikyu

清原なつのが描く千利休の伝記マンガ。
後書きによれば他社で刊行間近までいきながらぽしゃった企画を、近年、清原なつのと縁が深い本の雑誌社が単行本化したものらしい。
全体はエピソードの積み重ねで、直線的なストーリテリングではないのだが、読後には利休の人物像が浮かび上がってくる。
古田織部を主人公にした山田芳裕の『へうげもの』(モーニング連載中)のような作品を想像してはいけないが、影響を与えた可能性はある。

ここでもやはり女性の登場人物は魅力的だ。
いや、男性キャラクタに魅力がないわけでなく、清原なつのの描く女性に弱いのだな、自分が。
しかし、作品内容とは別のところで、どうにも困った。
読むのに時間がかかるのである。

これは作者の責任ではない、自分の教養のなさのせいである。
逆に言えば、教養を要求するマンガなのだ。
ここで言う教養とは、文字から得る教養だけに限らない。
一般常識的一般教養的日本史知識があってもだめなのだ。
日本各地の美術館で、茶道においては基本とされる陶磁器、書画、茶道具など、名物の数々を自分の目で見ていなければ、本当の意味で物語が頭に入ってこないのだ。
テキスト主体の知識があったとしても、だめ。
『日曜美術館』を毎週見ていても、だめ。
「本物」が目に焼き付いていないと、だめである。
期せずして、そういう読者の教養度を問う作品になっていると思う。

わたしなんかは、武器商人・政商の顔と芸術家・宗教家の顔が同居している当時の茶人たちが、どうにも「理解」できなかったりする。
これはきっと近代的価値観から離れられないからなのだろうが、もしかすると「煩悩」が足りないのかと思ったりもする。
諸星大二郎『孔子暗黒伝』の終わりのほうで、孔子は「あなたは知識に饕餮(とうてつ/あくなき貪欲)な方なのです!」と顔回を慕う女性からなじられるが、それでいくと、利休は「美に饕餮な人」という気がするのだ。

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書き終わったあとでこんなものを見つけた。
これは珍しい清原なつのインタヴュー(本人写真はなし)
http://books.yahoo.co.jp/interview/detail/31457484/01.html

万祝 完結

望月峯太郎の『万祝』が完結した。
『ヤングマガジン』2002年39号から2008年16号の連載なので5年以上だ。
偉大なる失敗作(と勝手に呼んでいる)『ドラゴンヘッド』の次作に当たり、連載開始当初は、主人公・大和鮒子の明るくくったくないキャラクタに「作者も楽しんで描いてるなあ」とほっとしたものだ。

こちらのほうが望月峯太郎本来の持ち味だとも言えるし、やっぱり『ドラゴンヘッド』はあまりに長いトンネルだった。
闇の中で必死に光を見出そうとしながら、どうしてもネガティヴにならざるを得なかった『ドラゴンヘッド』に比べ、こちらは光り輝く海から物語は始まる。
言ってしまえば、少年少女が主人公の、夏休みの冒険譚である。
暗くなりようがない。
連載期間は長くても、物語上の実時間は短いのだ。

もちろん、明るく楽しいだけの話なわけではないし、カトーという闇を抱えた青年も対峙している。
生きることの意味を必死になって探し求める姿を描くという点は、前作『ドラゴンヘッド』を含め、ほかの望月作品と共通している。
主人公が17歳の少年と16歳の少女という違いはあれど、望月峯太郎が少年期に影響を受けたと思われる『漂流教室』や『十五少年漂流記』そして『宝島』といった素晴らしい少年少女の冒険世界を、自分のマンガ世界で描き直すという点でも前作『ドラゴンヘッド』は共通している。
(そういえば、少女が主人公の長篇は初めてか)
陳腐な言い方になるが、やはり『ドラゴンヘッド』の闇を通過したからこそ、このきらきらと眩しい世界を描けたのだろう。

万祝

Amazonのレヴューを見たら、内容ではなく、11巻の薄さを批判して、10巻と合本にすべきだと怒っていたひとがいたけれど、わたしは、そういえば『日出処の天子』の11巻もそうだったなあ、と思い出して懐かしくなりました。