「思い出すことなど」カテゴリーアーカイブ

8年

明日で8年が経つ。

近々公開になる新作アニメーション映画に冠せられた「今 敏賞受賞」の文字。
これが「箔」になるのは嬉しいけれども、重ねられた月日を感じてしまう。

あのころ思い出して、ふと浮かぶのは、彼とふたりきりになった時に漏らした
「人間なんて糞袋だ」
というつぶやき。
目新しい言葉ではないし、なにかの引用のつもりだったのかもしれない。
しかし、なにか真に迫っていて、わたしは無言になった。
いや、実際は「そうだな」くらい言ったかもしれないが、もう記憶が定かではない。

『OPUS』がアニメーション作品になるのは嬉しいけれども、やっぱり『夢みる機械』はどうなってしまうのだろうと思ってしまう。
プロデューサが、ほかの監督を立てて作品を完成させることはないと明言しているわけだけれども、どういう形であれ、世に出てほしい。
できあがったカットだけの断片的なものでもかまわない。それでも全体1/3くらいはあったと記憶している。

オープニング・クレジットだけでも短篇映画として成立する。
大津波のバックで流れるのはひねくれハワイアン。
イメージしていた「D-SIDE」というリクエストに平沢進が応えた。

企画書を書いていた時に出たアルバムが『BLUE LIMBO』だったため、今 敏がBGMとして想定していたナンバーにはその収録曲が多い。
「帆船108」のプロモーション・ヴィデオかのような台詞がない音楽だけのシーンもある。
そして、エンディング・ロールに流れるのはアルバムのタイトル・チューンだ。

もうそれでいいじゃないか。

http://moderoom.fascination.co.jp/modules/mydownloads/viewcat.php?cid=15

思い出すことなど [9]

17.

 昨夜は24時前に寝たとはいえ、4時に目が覚めてしまった。きょうも朝から暑い。
 葬儀は9時からだが、彼の両親が斎場に泊まっているので早めに行って一緒に朝食をとることになっている。
 斎場に着くともう京子さん、原さんが来ていた。京子さんから昨夜2時くらいにメイルが入っていたところをみると、彼女もあまり寝ていないのだろう。
 彼の母は畳敷きの仮眠室ではなく、棺の横に座布団を並べて寝たそうである。
 丸山さんは「気を紛らすため」といって料理を数品作ってきてくれた。ちりめんじゃこと青物の和え物が美味しい。

 昨夜の僧侶が入ってくる。葬儀の経に続き、都市部の慣習に則り初七日の経もあげてもらう。
 読経のあとはいわゆる「お別れの儀」の時間となり、持参した『千年女優オリジナルサウンドトラック』をかける。

 有る程の菊抛げ入れよ棺の中

 いつもこの場面で浮かぶ手向けの句がまた浮かぶ。
 棺を閉める前、彼の頬に掌を当てた。2日前の温もりは消え、ドライアイスですっかり冷たくなっていた。
 さようなら。

「KUN MAE #1」「千代子のテーマ MODE-3」が流れ、出棺に合わせて「ロタティオン」が鳴り響く。がらりと斎場の扉を開けると眩しい蒼穹。いよいよ棺が金細工の霊柩車へと納められる時、曲も最高潮を迎え、仕込んだ本人さえも感極まる。
 京子さんも霊柩車に乗り込み、さあ出発という段。曲が終わらない。まだもう一番あった。酷暑のなか、みな直立不動で平沢進の叫び声をうなだれて聴く。
「やっぱりおまえは詰めが甘いな」今敏の笑い声が聞こえた。

 火葬場は存外に遠かった。道路は渋滞気味で10時半という定刻に間に合うかと気を揉んだ。
 マイクロバスから降りると、大きな棺と遺影はすでに炉の前に据えられていた。最後の読経。
 
 体験上、釜へ入れられ扉が閉まるこの瞬間にもっとも情動の留め金が外れるものなのだが、意外にも京子さんは冷静だった。むしろ虚脱に近かったかもしれない。
「もうコンはここにはいないから」
 彼女はそう言っていた。

 わたしは少し気にかかっていたことがあった。癌に蝕まれた彼の骨は火葬後に姿を留めているだろうか。ほとんど残っていなかったらどうしようか。そういえば葬儀屋に骨壺のサイズを確認していなかった。
「大丈夫です、大柄な方でしたからね、特大のをご用意しています」
 得意そうに答える。ま、いい。
 待合室で菓子やビール、茶などをいただき1時間ほど過ごす。子供のころから不思議に思っていたことだが、冠婚葬祭のなかでも特に葬儀というのは食べ物や飲み物が振る舞われる機会が多い。飲食によって当座の悲しみや苦しみは忘れようという智慧なのだろうか。

 骨となった彼を案ずることはなかった。古来聖職であるところの御坊が壺の蓋が閉まらないのではないかと案ずるほど太く立派な骨が大量に残った。患部の骨は黒くなるというのは俗説なそうで、白く美しい骨だ。俗に喉仏と呼ばれる第二頸椎は、彼とよく似た面長な仏の座像に見えた。

 場を移しての会食。本来の精進落としは四十九日のあとだが、いまは荼毘に付した後の食事もそう呼ぶらしい。そもそも肉食を断っていたわけでもないのだから精進落としでもなんでもないのだが、細かいことはいい。遺影を上座に置き、彼にもビールと料理。
 両親を社用車でホテルへ送ってもらい、われわれはタクシーを拾える通りまで炎天下の吉祥寺を歩いた。京子さんは遺影を、原さんは骨壺を胸に抱え、3人だけのパレードだ。

「ようやく帰ってきたね」
「我が家がいちばん、だね」
 そんなことを言いながら、夕刻からの来客を待つ。
 ウェブログ「さようなら」のアクセス数は1万を超えていた。
 彼のもとには世界中からメッセージが集まってきていた。
 この文章へ向けて彼がウェブログやTwitterで張りめぐらせた「伏線」に気づいた者も多かったようだ。

 夜には再び彼の仕事仲間が集まり「葬式の2次会」もしくは「後夜祭」のようなものが開かれた。
 彼の前には、大好きなシャンパンをグラスに注ぎ、煙草に火を点けて供える。そして平沢進の音楽。

 8月半ば、彼は「好ましい物たち」と題して「少なくとも現在身の回りにどうしてもあって欲しい物」について書いた。その筆頭に挙げたのが平沢進の音楽だった。「これはないと絶対に困る」と。 

 われわれが彼を送ってる間も平沢進は働き続けていた。
 死の翌日から彼の「フィナーレを飾る」曲にとりかかり、通夜のうちにその一部を公開。曲のイメージをこう語っている。

「突然街にサイレンが鳴り響き、ビルの角を曲がるとあの『パプリカ』のパレード・シーンの有象無象、魑魅魍魎たちが今監督の棺を担いで行進して来る。もちろん棺の蓋は開けっ放しだ。あの崇高な死に顔で街を清めるために。さて、35,608人の修羅どもよ、我々もあの列に加わろうではないか」

 平沢進には今敏の死が、10年前に選択していたかもしれない自分自身の「分岐」のひとつに思えて、とても客観的に対象化はできなかったという。今敏の死は、ありえたかもしれないもうひとりの自己の死にほかならなかったのだ。

Kon's collection 06 - Yin Yang Doll
Kon's collection 06 - Yin Yang Doll

18.

 10月10日、雨。
 われわれは遺骨を抱えて彼の故郷にいた。
 彼はもう一度この地を踏みたがっていた。
 明日は四十九日の法要が行われ、納骨される。
 その前にひとつしなければならないことがあった。

 8月のあの暑さがすべて虚構に思える冷たい雨に打たれ、河面を眺める。
 シャーレに入った白い粉を海へ還るようにと撒く。
 彼から託された願いの最後の遂行だった。

 10月11日、快晴。
「善悦院清山敏明居士」は寺に納められた。
 今敏はいまどこにいるのだろうか。
 まだ隣にいるような気もするし、もうすでに生まれかわってきている気もする。

 じゃ、またどこかで。

Kon's collection 07 - Pyrite
Kon's collection 07 - Pyrite
Pic by Susumu Hirasawa
今敏が自身をなぞらえもっとも気に入っていた黄鉄鉱は平沢進に形見分けされた。

思い出すことなど [8]

16.

「こんさん、しんじゃったの?」
 朝食時に4歳児が問う。
「うん、死んだ」
「もうあえないの?」
「うん、会えない」
「きょうこさんひとりになっちゃったの?」
「うん」
「さびしいね」
「そうだね」
 彼女も「予習」した成果があったようだ。

 2時間ほど仮眠をとり、喪服に着替えて今家へと向かう。昼前には着くので、いつものようにメイルで御用聞きすると、おなかが空いたのでパンを買ってきてほしいとのこと。メイルのやりとりだけ抜き出せば、これまでの日々と変わりない。
 誰も口には出さなかったけど、たぶんみなひとりになったあとの京子さんを心配したはずだ。原さんも早々に駆けつけていた。

 葬儀社の搬送車が16時くらいに迎えに来るが、それまでは取り立ててすることはない。ホテルに泊まった彼の両親は兄が面倒を見ている。
 彼の死の公式発表をいつにするかについて再び3人で話した。
 すでに情報はネットを駆けめぐり、世界の果てまで行きわたっているかに思えた。マッドハウスにも知人やマスコミから問い合わせが入り始めているらしい。ここにも新聞やTVから問い合わせが入ってくるので、公式発表があるまで待ってほしいと答えておく。もう伏せているのは不可能だ。
 それでも、明日の葬儀が終わるまでは公式発表はせずにおくということもできなくはなかったが、今家に問い合わせが殺到しても困るし、憶測で誤った情報が流布されるのも不愉快だった。今敏公式サイトではマッドハウス公式サイトと歩調を合わせて14時に発表することに決めた。

 文案を考え、3人で回し読みする。すでに朝から公式サイトにはつながりづらい状況だったが、昼過ぎてからはアップロードしようにもアクセスが困難になっていた。なん度もなん度もリロードを繰り返し、ようやくニュースを投稿。原稿を預かっていた彼の最後のウェブログ「さようなら」を掲載する。8月6日付の第1稿だったのに結局、改稿されることはなかった。
 ああこれでひと安心と思いきや、マッドハウスから電話。8月24日が6月24日になっているという。わたしが頭で「6時20分」を繰り返していためにミスタイプしてしまったのだろうが、顔を見合わせて3人で笑った。さらにサイトにアクセスしにくくなっているので、焦りながら修正する。
 
 彼の死をめぐるネットの情報はひどいものだった。べつだん箝口令を敷いていたわけではないし、そういう立場になはい。一次情報を知る者がどこでどう発言しようとそれは自由である。抑えきれない気持ちもあるだろう。ファンが心配して情報を欲しがるのもよくわかる。理解不能だったのは、二次情報を訳知り顔で広めるひとびとである。
 マスコミが先を争って書き立てるならまだしも、そういうわけでもないのに、なぜに自慢気に伝聞情報を披露したがるのか。公式発表されていない以上はなんらかの意図があると考えて自重するのがごく普通の社会人としての常識的態度ではないか。自分の立場を主張したいだけなのかもしれないし、単に幼稚なだけかもしれない。なにも考えない条件反射的な言動なのかもしれなかった。
 さらにひどいのがニュース・サイトというやつだ。もともとSNSの限定公開情報のリークとして広まったTweetを拾い、それをニュース・ソースと称した記事がニュース・サイトに掲載される。さらにその記事がさまざまなサイトに転載され、海外アニメーション専門サイトの報も加わっての伝言ゲーム。
 大笑いなのはいずれのニュースも享年が間違っていたこと。ジャーナリスト気取りいでいながら、故人の生年月日を調べるという最低限の手間すら惜しみ、ただC&Pするのみ。かくして同じ間違いを含んだ同じ文面によって情報が拡大再生産されていく。
 新聞にしろTVにしろ、旧メディアからはコンタクトがあったし、礼を尽くした電話取材を受けた。しかるにニュース・サイトとやらは日ごろ旧メディアを批判していながら、旧メディアに劣る体たらく。取材の努力もしなければ、なにくわぬ顔で後日修正する始末。まあ、こちらも死亡日の記載を間違えたくらいだから大きなことは言えないが。

 迎えのクルマが来て、居間の窓から棺を運び出す。棺の彼と一緒に斎場へ。1泊入院のあと搬送車に同乗したことを思い出す。
 あれは外出というよりただの移動だったが、ほんとうの意味での最後の外出は、梅雨の晴れ間に京子さんが押す車椅子に乗ってふたりで夜道を散歩したときだったという。玄関にはスロープも設置したのだけど、その後は使われることがなかった。

 寺の境内ではいちばん小さな斎場だったが、それでもたった8人の参列者には広かった。
 菊や百合など白い花に囲まれた大きな棺はやけに存在感がある。

 僧侶に挨拶へ行く。ひょろひょろとしていかにも頼りなさげで声が小さく気の小さそうな初老の僧侶である。
 中学や高校時代の同級生から電話が入る。わざわざ実家に携帯電話の番号をきいて連絡してきたらしい。さらには、カメラマンから電話。お悔やみかと思ったら、打ち合わせの約束をしていたのをすっかり忘れていたのだった。平謝り。

 18時より読経が始まる。
 意外と経を読む声は大きかったが、リズム感が悪い。彼の兄が手で「正しい」リズムを刻む。
 悲しみは波のように周期的に押し寄せてくる。波に呑まれると収拾がつかなくなりそうなので、なるべく彼のことをリアルに思い浮かべないようにする。最前列の京子さんもそんなふうだったが、時折耐えかねたように泣く。
 読経後には僧侶から読み上げた経典についての法話。「ずいぶんと自由に生きた方のようですね」の言葉につい笑いがこぼれる。

 焼香を済ませ斎場で食事。彼の母が中心となって昔話に花が咲く。彼の学生時代、幼少時代、さらには両親の結婚前の話にまで遡る。ギタリストとアニメーション監督を育てた偉大な両親が繰り広げる超絶ハイ・ブロウな夫婦漫才にツッコミを入れたそうな遺影であった。彼の得意としたブラック・ジョークのルーツがここにある。
「敏の歳が46でも47でも、いーんじゃないの。私の歳を間違われたらそりゃ怒るけどね」

 梅雨明け以来ほぼ毎晩が熱帯夜で、この夜も27度を下回りそうにない。
 表へ出てみると、寺の門の上に浮かぶ満月が美しい。
 しばらく佇んで眺めていた。

2010.08.25 21:48

思い出すことなど [7]

15.

 8月24日、火曜。朝6時半。電話が唸ってる。携帯電話だ。ディスプレイには京子さんの名前。異変があったと瞬時に理解した。
「コンが息してないの」
 涙声だった。すぐに行くから、と切る。5時には起きていたのでとっくに覚醒はしている。長い一日になりそうだと思い、5分でシャワーを浴びて飛び出す。電車かタクシーか迷うがタクシーへ。
 車内から原さんや平沢さんへ連絡を入れる。原さんは免疫療法の病院から派遣される看護師を迎えに朝から東京駅へ行く予定だったので、今宅へ向かうべきか東京駅へ向かうべきか動きを決めかねていた。
 鞄をまさぐって財布を忘れてことに気づいたが、幸い経費の仮払いが入った封筒があった。

 7時半、鍵の開いたままの今宅へ入る。
 ベッドの傍らには京子さんとペイン・クリニックの看護師Kさんが立っていた。
 泣き崩れそうな京子さんを受け止める。既視感なのか予想した光景だったのか。

 運悪く主治医のHさんは帰省中のため、別な医師を呼んでいる。看護師は正式な死亡診断はできないが、Kさんが脈拍の停止、瞳孔反射のないことは確認したそうだ。
 Kさんは自宅での介護を始めた京子さんに「あなたは主治医であり看護師であり介護士であることを忘れないでね」「欲しいもの、して欲しいことははっきりと要求しなさい」と助言し、京子さんの言葉を借りるなら「背筋を伸ばしてくれた」ひと。主治医のHさんとともにふたりを支えてくれた感謝する存在である。彼女もまた泣き顔だった。

 昨夜の彼は21時40分までTweetしていたが、DMを送っても返信はなかった。妙な興奮状態にあり、3時半近くまで起きていたらしい。
 煙草をふた口吸ったあとで「ぼく、もう煙草もいらなくなっちゃった」と言った。京子さんが焼酎を嘗めているとウィスキィのロックをリクエスト。「美味しい」とひと息に飲み干した。
 早く寝るように京子さんにたしなめられ、ほんとにすまなそうに「ごめんね」と謝り眠ったという。

 6時過ぎ、京子さんが酸素吸入の鼻腔カニューレが外れているのに気づいた。
「起きた時にはまだかすかに脈はあったんだ」
 慌てて酸素を送ったりしてみたが、やがて脈がなくなり、そのまま静かに息を引き取った。
 死因は酸素濃度が下がったためかもれないが、京子さんが気づかなかったくらいで苦しんだ形跡はない。目も自然とつむったらしい。ほんとうに安らかな顔。
「触って、まだあったかいんだよ」と彼の腕をさする。
 手を当てると、ほのかに体温を感じた。

 昨夜まで彼が吸っていたキャビン・スーパーマイルドの箱から1本取り出し、火を点ける。10年ぶりだ。
 1週間前の自分の行為をなぞるように、PCで葬儀屋を検索する。
 彼の両親に訃報を入れ、宗派などを確認する。

 8時半、原さんが来る。ようやく免疫療法の病院に連絡がついたらしい。
「監督ぅぅぅぅぅぅぅ!!」
 介護ベッドに横たわる彼に覆い被さり、しがみついて咆哮する。
 自分はこういうことをできない人間だ。だから駄目なのだ、などと思う。

 9時、医師が来る。小綺麗な若い女性だった。H医師が不在の際に幾度か受診したことがあるらしい。形式的な確認作業をして書類を作成する。家庭で長期間療養していた場合は、家族が申告した時刻がそのまま死亡時刻となるらしい。京子さんが少し考え、6時20分ということにする。直截の死因を調べることもない。詳細は解剖でもしないとわからないのだろう。

 9時半、介護スタッフが来る。彼を布団に移し、介護用ベッドやクレイン、車椅子などを撤収する。身体ケアののち、ヴェネチア映画祭で着た一張羅の背広に着替えさせる。その間、原さんとわたしは2階へ上がり、とりとめのない会話。階下へ戻ると介護スタッフが死に化粧までまでしてくれていた。原さんが手こずりながらネクタイを結び彼の胸許に添える。

 10時、続いて葬儀屋が来る。いかにも二代目の若社長といった風情の長身の色男である。介護用品の搬出と入れ替わりで特大の棺を運び入れてもらう。布団よりも棺のほうがドライアイスによる保冷効果が格段に高まるのでと、早めの納棺を勧められたのだ。
「これより大きなお棺もないことはないんですが、お釜に入らないんですよ。火葬場へ行く前にお棺を入れ替えなくちゃならなくなるんです」
 みなで力を合わせて彼を棺に収める。痩せたとはいえ長身で重たい。なんとか膝を曲げずに納棺することができた。スーツの上から経帷子を着せ、脚絆や手甲を結び、編み笠や頭陀袋、草履を添える。眼鏡など燃えないものは入れない。
 棺は高い位置に据え、その前に仕事机を置き、焼香台とする。遺影がわりにiPadを立てかけて彼の写真を全画面表示する。

 葬儀の打ち合わせが終わり、会場や日程も決まった。京子さんが選んだ遺影用の写真データをCD-ROMで葬儀屋に渡す。ここまで、すべてが予行演習をしたかのようにスムーズに事が運んだ。いや、予行演習はあったのだ。2週続けての葬儀委員長。

 彼自身はいわゆる無宗教だったし、日ごろから葬儀も戒名も不要と言っていた。ただ、彼から渡された葬儀に関するメモでは「近親者による密葬」を希望するとあったものの、具体的なことはKON’STONEのメンバーに任せるとあった。京子さんの意志が今敏の意志であると思ってほしいと。
 両親への彼の感謝の気持ちは深かったので、両親を安心させるという意味では一般的な仏式のやり方に則るのが最良だろうと思われ、その提案は京子さんも諒承してくれた。
 また、われわれの心の整理のためには、たとえ信仰心はなくとも、形式的であっても、段階を経たなんらかの儀式が必要だと思われた。その意味では、通夜、葬式、初七日、四十九日と多くのプロセスを経て納骨へと向かう仏式の葬儀というのは適している。それはつい1週間前にも経験し、感じたことである。
 親族、仕事における親である丸山さん、KON’STONEのメンバー。参列者は8人に絞り、寺の境内の小さな斎場と僧侶をひとり手配した。

 慌ただしくひとが出入りしたが、11時過ぎには静かになった。午後からはまた人であふれるだろう。
 彼の希望で葬儀は近親者のみとしたが、彼を送りたいひとは世に大勢いるだろう。少なくとも彼の病気を知っていたひと、彼が知らせたくても知らせられなかったひと、会いたくても会えなかったひとには、見送っていただきたい。彼もそう思っているのではないか。

 ぽっかり空いた時間、彼の死をいつ発表しようか、3人で話した。わたしは、どうせ情報はどこからか伝わり、知れわたってしまうだろうから、間違った情報が流れたりするよりは、いますぐにでも公式発表したほうがよいのではないかと考えた。しかし、京子さんによると彼はできるだけ死の生々しさが薄れたころ、できれば四十九日が終わったころにでも発表してもらいたいと言っていたそうである。そんな先というのは難しくても、せめて葬儀が終わるまでは彼の死を伏せて、静かに見送ってあげたいと京子さんは言う。原さんもわたしも同意する。彼のヴォイス・メモをまだ聞いていないことを思い出した。
 それにしてもなんとすべてを見通したかのようにタイミングのいい男なのだろうか。昨夜あんなメモを渡されたこともそうだし、個人的には抱えていた仕事が昨夜終わり、近々の締切がちょうどなくなったところだった。

 来客まではまだ時間がありそうだ。食料や飲み物の買い出しに外へ出た。
 灼けるようにきょうも暑い。今月いっぱいは34度くらいの日が続くらしい。
 この暑ささえ乗り切れば、秋がきたら、彼も元気になる、そんなふうに思っていた。
 彼の机が殺風景だったことを思い出し、花屋へ寄った。これからたくさん届くだろうが、一籠ないと淋しい。

 夕刻となり、彼の戦友のような仕事仲間たちが三々五々集まってくる。
 彼の顔を見て手を合わせる。
 すでに目を泣き腫らしている女性スタッフもいた。
 映画会社のプロデューサTさんが、棺にすがって号泣する。
 思いつきでスケッチブックを回して来客に寄せ書きをしてもらう。

 17時、彼の両親も兄に送られて到着。対面から1か月半。こんなに早くとは思わなかったろうが、静かに死を受け止めていた。彼の死に顔が安らかであることに癒されたかのようでもある。今夜のリハーサルでギターを弾けなくなりそうだから、と対面せずに帰ろうとしていた兄も思い直して顔を拝んだ。

 そう、彼の顔には、癌に骨まで侵され激痛と闘った辛さ苦しさは微塵もなかった。神々しいというのは言い過ぎかもしれないが、残された者を安堵させる幸福感さえ浮かべていた。
 平沢さんにいたっては「こんなに美しい死に顔は見たことがない」と棺の小窓をなんどもなんども開いて眺めていた。こんなに崇高で見る者を安らかにさせる死に顔はないと。
 
 18時、Fさんにメイルを入れる。勤務時間中に彼の死を知って職場で困った状態になってはいけないと配慮したのだ。
 近所の寿司屋へ行って注文を入れてくる。関東では通夜に寿司を出すことが多いと知って驚いたのは先週の話だ。精進料理とまでいかないものの、煮物だとかそういったものが出るのが普通だと思っていた。

 20時、食べ物も飲み物も尽きかけたころ、丸山さんが来て補充してくれる。だんだんしめやかな宴会の様相を呈してきたが、それは彼も望んだことだと思う。家族や仲間たちに囲まれ、食べて飲んで語らって欲しい。そう思っていたはずだ。
 ただし、下手なことを言うと、むかしのコントのように棺桶の蓋を開けて「おまえらなに言ってんだ」と起き上がってきそうではある。

 24時、満月がきれいだというTweetがあったので外へ出てみるが、すでに雲がかかっていて見えなかった。あとできいた話では、この夜は満月ではなく「十四夜の月」だったそうだ。映画『千年女優』でも「14日目の月にはまだ明日がある、明日という希望が」と象徴的に出てきた月だ。彼は朔望のタイミングまで読んで逝ったのか。

 2時、8人ほどが残り、ゆるんだ空気のなか言葉も少なくなり、スマートフォンでネットを見たりしていた。
「あ、情報が出てますよ」
 誰かが言う。確認すると不確かな話としながらも彼の死に関する噂が広まっているようだった。

 4時半、七夕を思い出しながら眩しい朝陽を浴びて初電で帰った。

Kon's collection 05 - Doll
Kon's collection 05 - Nico chan Doll

思い出すことなど [6]

12.

8月10日、火曜日。
1泊入院から退院する手伝いのため、病院へと向かって歩いていた。先週はずっと強烈な陽射しで33度前後の暑さが続いていたが、昨日は雨が降って少し気温が下がり、この日の朝もまだ雨が残っていた。

8月に入ってから彼の体調は芳しくなかった。肺に痰がたまり、吸引器を使ってもなかなか出ない。酸素吸入器のお世話になることも多くなった。前はひとと会うと活力がわくと言っていたが、会話するのが辛く、あまり人と会う気がしないという。週末などは誰とも会わずに安静にしたがっていた。
それでもしゃべり始めると声の通りがよくなり元気が出てくるとかで、入院前夜には『夢みる機械』トーク・セッションをゲストなしで4時間かけ語りきって終了。8回目にして最終回を迎えた。自らの「脳内スクリーン」に投映されたラスト・シーンに感激し、ほんとうのところ彼は泣いていた。
興奮が冷めなかったのか、始めたばかりのTwitterでも報告し、深夜までTweetを続けている。この夜は37.8度の熱が出ていたが、ビールを飲んで饒舌になっていたらしい。
さらに明け方には彼から「さようなら最新版」と題したメイルが届く。不測の事態に備えて書いた文章であり、本人としては「これから改訂を重ねていくつもりなので校正や内容チェックを頼む」という文章を添えたつもりだったのだが、誤ってそのまま送ってしまったのだ。死に臨んだ際に公開するという意図は飲み込めたが、最初は深夜になにか異変があったのかと驚いた。

5日ぶりに会う彼はひどく痩せていた。
入院の主たる目的は、血中酸素を補うための輸血と痛みを抑えるため「神経の枝を熱で焼く」治療である。この「高周波熱凝固法による神経根ブロック」施術はこれまでも在宅のまま受けていたのだが、病院の検査機器で綿密なモニタリングをしながら、より本格的に行うということだ。神経が再生するまで1年くらいは痛みが抑えられるらしい。
検査ではX線撮影やCTスキャンも行われたが、肺の機能には問題はなく、胸水や腹水もたまっていない。酸素濃度が低くなるのは、栄養不足という根本原因があるそうだ。いくら努力して食事をとるようにしていても、いまの彼に充分な栄養を摂るのは無理だった。

車載用ストレッチャに寝かされたまま介護用搬送車で「我が家」へ。介護士も同乗するから任せて安心ということで頼んだにも関わらず、どうにも不慣れで、京子さんが細かく指示を出さねばならない。致し方ないとはいえ走行中は振動で身体が痛まないか気になる。時々、顔を歪めるのが心配だ。
病院を出る時には看護師らも手伝ってくれたのでよかったものの、家へ入る時には人手が足りない。力のないわたしも手伝い、前庭に面した窓から居間へとショート・カットしてやっとのことで彼を運び入れる。

消耗しつつも帰宅して落ち着いた様子で煙草を吸う彼と少し話す。
「いまP-MODEL30周年の特集記事を作っててさ、これから田中さんの取材なんだよね。9月には発売になるから」
へぇー、という感じでうなずくがあまり大きな反応はない。われわれも30周年だなと思いながら今宅を出る。

京子さんは、重要なレントゲン写真に映った骨のことだけは、彼にも、わたしたちにも黙っていた。

Fish
Kon's collection 04 - Fossil Fish

13.

8月16日、月曜。朝4時半。電話が鳴ってる。携帯電話ではない。仕事用の電話でもない。家庭用の電話だ。
もともと携帯電話というものが嫌いで、鞄のなかに入れっぱなしで着信の2日後に気づくなんてこともよくあった。いわゆるスマートフォンにしてからは通話目的以外で使用することが増えたので机の上に出すようになったが、寝る時に枕許に置くようになったのはつい最近だ。

半覚醒ながらも異変を察知しつつ電話に出ると義母だった。義父が逝ったという。起きだしてきた妻が慌てて身支度をしてばたばたと出て行く。
ぼんやりした頭で近場の葬儀屋を検索する。数件ヒットしたうち、自前サイトでコンテンツが充実しているところに決めて電話する。24時間対応の電話はスタッフの携帯電話に転送されたようだった。まだ5時なので当たり前だが寝ていたようだ。それでも「時期が時期ですからね」と言って7時にはドライアイスと焼香セットを持ってきてくれるという。連日35度を超える狂った暑さが続いているのでありがたい。
施主である義弟は遠隔地にいるし、いざとなったら自分が葬儀の手配などせねばなるまいとは思っていたが、葬儀に関する知識は乏しく菩提寺の宗派がどうとかいった細かな情報も知らなかった。まあ、葬儀屋が首尾よく用意してくれるだろう。
数日は仕事にならない旨のメイルをいくつか書く。といっても葬儀屋さえ手配すればそんなにやることはなさそうだし、午後は今家に行く約束をしていたが、これは大丈夫だと思われた。

起きだしてきた4歳児に祖父の死を告げると、死の意味を訊かれる。彼女が知っているのは亀の死くらいだ。もう動かなくなって会えなくなることだと哲学の欠片も科学の欠片もない説明をする。
妻の実家へ行くと、義父は着替えも終わってスーツ姿で布団に寝かされていた。部屋の半分近くを占める大きな介護用ベッドは納棺の前には撤収される段取りになっている。看護師や葬儀屋が身体の処置をしてくれ、頭部には口を閉じさせるための包帯が巻かれていた。義母たちは遺影のための写真を選んでいる。
脳卒中で倒れてから2年も寝たきりで痴呆も進んでいたので、すでに自分のなかではこの世のひとではなかった。むしろ写真のなかの健在な姿のほうにリアリティを感じる。直截の死因は痰が喉に詰まっての呼吸困難だったらしいが、苦しんだ形跡はない。苦しんでいればすぐに義母が気づいていたはずだ。痰に苦しむ彼のことが思い起こされてしまう。
もう特にすることはないだろうと勝手に思っていたが、寺に挨拶に行ったり、納棺に立ち会ったり、精進落としの会食の手配をしたりと、まだまだ「葬儀委員長」はやることがあるらしい。今宅へ行くのは難しそうだ。

翌火曜。通夜まで時間が空いたので、午前中から今宅を訪ねる。この日を外せば週末まで身が空きそうになく、彼の顔を見ないと安心できなかった。
前週金曜に会った時に比べ、さらに痩せた。いや、やつれている。原さんは帰省しているし、この週末はふたりで静かに過ごしたことだろうが、なかなか体調は上向かない。
体勢を変えたりマッサージしたりすることでだいぶ痰は出るようになったそうだが、微熱が続いている。しかも、この暑さだ。いくら冷房を入れていても不快だし、じわりじわりと身体に入り込むような熱は健康な人間だって耐え難い。

37度の陽射しに灼けつくアスファルトを踏みしめながら通夜の準備へと向かった。

14.

義父の葬儀が終わってのち、2日はかかりそうだった原稿も調子よく1日で片付き、金曜午後には再び今宅往訪。
京子さんの留守中に彼が咳き込んだので痰の吸引をしようとするが、吸引器がうまく動かない。電話で指示を受けるがうまくいかない。こんなこともできない自分が腹立たしい。
おそるおそる汗ばんだ背中をさする。下手に触って骨や褥瘡が痛まないかという危惧もあったし、元来スキンシップが苦手ということもある。情けない。
あとはぼんやりとPCを眺めたり、メイルの返信をしたり。彼もあまり話そうとはしないし、話しかけるのもためらわれた。ここで無為に過ごしていると思われるよりも仕事をしているふうのほうが彼も安心するだろう。

夕方になり原さん到着。今敏個人で交わしている著作権契約を設立した会社に譲渡するための書類を携えてきた。次々と流れ作業で捺印し、ほぼ全作品に関して契約が成立。
この日、彼は捺印だけでなく署名も必要になったらと案じていた。あとで知ったことだが、このころの彼は手に力が入らず、しっかりとした筆跡を結べなくなってきていたため、署名の練習までしていたらしい。一時的なことか漸進的なことかはわからないが、絵を描くことが命の彼にとって、計り知れない衝撃と恐怖だったろう。
彼の身体ケアに時間がかかりそうとのことで早々に退散したが、しきりに原さんは自分が仕事をさせたから体調が悪化したのではないかと気にしていた。

土曜はラッシュが数本仕上がったという喜びからか、Tweetもいくつかしていたが、日曜は無言。Tweetを健康のバロメータにしているひとは世界中に少なからずいるはずである。夜には京子さんから「熱は下がり、食事もとったが、元気がない」と不安を隠せない報告があった。

月曜の昼にはウェブログ用の文章をサーバにアップロードしておいてくれと彼からメイルが入っていた。アップする気力がないのかiPadの操作に不具合があったのか、元気があるのかないのかわからない。
15時ころ今家着。衰弱が激しく、会話は少ない。
もうちょっと元気になったら、ラッシュが仕上がったらと平沢さんに会うのも繰り延べてきたが、せっかくラッシュも完成したことだし来てもらおうよ、などと言うが反応は薄い。自分が制作中だったDVDのちょっと狙ったパッケージ案を見せると、力なく笑った。

彼からは「ちょっと気が早いけどさ」という前置きで、自分の葬儀に関するメモをiPadごと渡された。
「気が早すぎるよ」と言いながらも、そうしたものを準備していたこと、iPadで書いていながらメイルで送信する気力すら出なかったこと、その両方の事実に心が痛む。そういえば、7月末にも「あとで聞いておいて欲しい」とヴォイス・メモを渡されていたのだが、まだ聞いていなかった。

用件が終わると彼はほんとうに辛そうに、すまなそうに言った。
「悪いけど、きょうはもう帰ってくれないか」
「うん、じゃあまた来るから」

ammonoidea
Kon's collection 05 - Ammonoidea

思い出すことなど [5]

10.

 7月17日、梅雨明け。
 爾後の彼は頗る調子がいい。数日前に行政書士事務所とちょっとしたバトルをしてから、さらに調子がいい。怒りは元気にしてくれるそうだ。腸閉塞の危機も脱し、無感覚だった爪先の感覚が戻ってきつつあった。

 新しい介護ベッドや車椅子、電動クレインも導入された。ベッドは以前のものよりフレイムの横幅が狭く、彼が両腕でサイドの手すりをつかみ自力で上体を起こすことができる。空気圧式のマットはプログラマブルで寝返りを促したりと複雑な動きを可能にした。
 新しい車椅子も細身で室内での動きに適しており、シルエットはリカンベントのように美しい。色は黒にも見えるメタリック・ダーク・ブルー。電動クレインは介護人がひとりでも病人を吊してベッドから車椅子へとラクに移動させることができるツールである。
 室内の移動で無理のない導線が描けるよう机の配置なども変更され、どのマシンからでも容易にデータにアクセスできるようNAS(ネットワーク接続ストレージ)サーバをセッティング。仕事場としての室内環境は、積極的に「活動」できる仕様へとヴァージョン・アップされた。
 さらには iPad も入手。これまではラップトップPCをベッドにわたすテーブルや膝の上に置いて使っていたのだが、大きく重たく感じたのだろう。ベッドで使うにはこのアップル製のスレイトPCがちょうどよかろうと彼が所望したのである。

 環境整備ということでモノよりさらに大きかったのは、京子さんを中心とする看護・介護の体制の変化だった。
 これまでの体制においてもっとも反省すべきは、病人自身をリーダーにしてしまったことだ。病人のために尽くす周囲の人間は、病人の意志を尊重し、病人の望むことをしてあげるのが最善のように思っていた。特に「今 敏」という人間はその仕事柄もあって常に指示を出す立場として振る舞ってきたし、闘病においても周囲は彼が主役であると同時にリーダーであることを求めてきた。
 しかし、病状というのは日々変化するものであり、病人の心持ちというのは体調によって大きく左右される。身体が辛いと悲観するし、調子がよいと気分も高揚する。死にたくもなれば生きたくもなる。そうした揺れ動く波は波として受け止め、生きるために確固たる意志で最善を尽くす牽引役が周囲に必要なのである。

「七夕の大患」から数日が経ち、問題点に気づき始めたころ、それをはっきりと言葉にしてわれわれを強く促してくれたのは、平沢進だった。
 ミュージシャンである平沢さんは「今敏闘病支援チーム」を「バンマス(バンド・マスター)不在のバンド」に譬えて語った。
「苦痛が続けば魔境に陥ることもある」
「揺らがず導くバンマスが必要」
「バンマスができるのは京子さんです」
 自分にできることはなんでもしたいけれども、それには京子さんが自分の前にいてくれなければならない、と。
「ただし、方向性は“全快”ですよ」

 今敏はフロント・マン兼リーダーだった。しかし、いま彼はフロント・マンではあるけれども、リーダーではない。
 彼女は覚悟を決めた。
 このまま消えゆきたいという彼の望みに応えようとホスピスを訪れた時、彼女は自分が彼にしてあげたいこと、彼がほんとうに望んでいるはずのものはここにはないと感じた。
 ホスピスの中庭から CALL HIRASAWA!!
「あたし、バンマスになります」

 以前から彼女は「今敏闘病支援チーム」の中心ではあったが、彼との関係においては当然のことパートナーという意識のほうが強かっただろう。パートナーから、フロントマンである彼を導くバンマスへ。
 自分自身で介護技術を習得しながら日々のケアにあたり、家事をするだけでも重労働なのに、医療・看護・介護スタッフのマネジメント、医療・介護機器の手配、わたしや原さんのスケジューリング、さらには新会社の仕事もこなす。日々忙殺されながらもいつも笑顔。
 体力には自信があるからと言っていたけれども、新生児の母親並みの細切れ短時間睡眠で、ほんとうに信じられないほどに働く。周囲は彼女が倒れないか心配していた。

「さすがに京子も車椅子のこととパソコンのことはいっぺんには考えられないからさ、サポートよろしく頼むな」
 もちろん彼は常に京子さんを気遣っていたが、驚いたことに、病に倒れてからも彼女に八つ当たりしたり、我儘を言って困らせたりしたことはなかったという。
 病人、特に身体の自由がきかなくなった病人というのは、家族などいちばん身近で世話をする人間に向かってやるかたない思いをた叩きつけたり、理不尽な要求をしたりするものだ。それは仕方がないことだも言える。いかに彼であっても、ふたりきりの時にはそうした態度に出ることもあろうとわたしは思っていた。しかし、一度たりともなかったのである。

 彼と彼女のことを知る者は、今敏のマンガや映画の女性キャラクタが、どれも京子さんによく似ていることを知っている。

11.

 連日の真夏日、連日の熱帯夜。
 わたしはというと、引っ越して住環境が変わり、連日の寝苦しさも手伝って5時台の起床が習慣づいてしまった。

 酷い暑さではあるが、復活後の彼は仕事に邁進している。
 新作『夢みる機械』について語るトーク・セッションを週2回のペースで開始。脚本やコンテだけでは伝わらない演出プランや表現のディテイルなどをスタッフ相手に解説するというものだ。さらには、プロットのみの未発表作品に肉付けをするトーク。いっときは「せっかく用意してもらったけど、使うこともないなあ。おまえにやるよ」と御役御免となるかに思われた上等なヴォイス・レコーダも役目を果たすことができた。
 ウェブログも5か月ぶりに再開して毎日のように更新。スレイトPCで画像を繰りながら「こういうコンテンツはどうだろうか」などと新会社の商品に関するアイディアを披露したりもする。数日前、平沢さんの置いていったメッセージ付の写真が「応援」しているおかげか。

「七夕の大患」後、わたしは毎日のように今宅を訪れていたが、海の記念日を過ぎてからは容態も落ち着き、週に3回程度の訪問になった。家に着く前に電車内から要り用なものはあるかとメイルで御用聞きするのが習慣になっていて、駅前で彼がつまみやすい小さなサンドウィッチだのゼリー様の栄養補助食品だのを買っていくのだった。
 自分自身が彼の介護をできるわけではないので、京子さんが外出中の安心材料として滞在し、新会社の仕事や自分の仕事を片付けながら彼の話し相手になるくらいである。
 毎日通っていたころは、こういう日々がいつまで続くのだろうとさすがに不安を感じないではなかったが、週に2日〜3日程度ならなんとなるし、リズムもできてきていた。

 そういう心持ちを察してか、病床にあっても彼は気を配る。
「ほんとすまんな。これじゃあ仕事にならないよな。LAN構築とかサイト制作とか、仕事として扱えるようなことはちゃんとギャラは出すようにするからさ」
「なに言ってんだよ、お互いさまじゃないか」
 自分でも驚くほど凡庸な返事をする。
「早く元気になって倍返ししてよ」
「来年の平沢さんのコンサート、こんな大きなベッドは客席に入れられないからさ、車椅子ででも観られるようにならないとな。ま、舞台の袖で寝ながら観てるってのもいいかもしれないけど」
 励ましなのかなんのか笑えないことしか言えない。

 祭りはいつかは終わる。闘病生活は非日常という意味においては祭りに通じる。きっとこうした日々も終わり、懐かしく思い返す日が来るだろう。そう思っていた。しかし、どうしても不幸な結末を想像することはできなかった。
 また正月を迎えて楽しく食事を囲んでいる光景しか浮かばなかった。これまでの正月と違って彼はベッドのなかかもしれないし、原さんも加わっているかもしれない。ただ、彼がいないシーンだけは描けなかった。
 それは逃げだったかもしれないが、われわれだけでもそう信じなければ病魔は退散してくれそうにない。

 7月の終わりには『夢みる機械』のコンテを撮影して動画にした「コンテ撮」があがってきた。
 仕上がりはたいへん素晴らしく、このまま予告篇にしてもよいくらい見事に映画全体の世界観を2分21秒で表現していた。動画には彼のお気に入りの平沢ナンバーが乗せてあり、彼自身が弁士さながらに台詞を読み上げる。
 さまざまなスタッフの手が入った完成品と違って、すべて彼の絵で構成された世界は、純粋に彼そのものだった。
 彼自身も満足できる出来だったらしく、非常に上機嫌。数日前から痰がたまったりとまた体調を崩していたが、この日併せて上がってきた短いラッシュの修正が済んだら平沢さんにも見てもらおうと意気込んでいた。どこでどういう勘が働くのか、知らせたわけでもないのに平沢さんも彼の体調悪化を懸念し来宅を希望していたのだ。
 この日、第2回『夢みる機械』トーク・セッションは3時間にわたって繰り広げられた。

 なんとかこの夏を乗り切れそうな予感。
 しかし、まだまだ涼しくなるまで先は長い。きっと9月になっても「残酷暑」は続くだろう。
 京子さんはヘア・カットでリフレッシュしてきた。
 わたしは7月最後の週末、早めの夏休みをとって海へ行った。

Kon's collection 03 - Butterfly Paprika

思い出すことなど [4]

08.

 朝一番で京子さんは薬局まで鎮痛剤など取りに行かねばならいとのことで、わたしは8時半に今宅を訪れた。
 峠は越え、呼吸も落ち着いたとはいえ、少しの間でもひとりになることを彼が恐れたからである。死を恐れながらも彼は「早く楽になりたい、早く死にたい」と漏らした。
「きのうは平沢さんに、頑張る、と約束したじゃないか」と質す。
「病人らしく振る舞っただけだよ。たとえ峠を越えたって先は長くないさ」「自分にできるのは周囲に迷惑をかけないよう早く終焉を迎えること」と返す。
 自暴自棄とも違う虚脱状態。まるで死にそこなったことが信じられないかのようで、生気がない。しかし、顔から死相は完全に消えていた。本人も「ウソだろ、生き延びちゃったよ」という気持ちだったようだ。
 昨夜もあまり眠れず、寝たり起きたりが続いたためか、午前中は話していても半覚醒状態のこともあったが、少し長く眠り、昼過ぎになると顔色も戻ってきた。わたしはひと安心して、できたばかりの会社の書類を持って税務署だの銀行だの法務局だのへと向かった。

 外から戻ると彼は坊主頭になっていた。五分刈りというやつだ。毎日入浴できるわけではないので、長髪では汗をかいて鬱陶しいことこの上ないため、本人たっての希望で器用な京子さんが買ってきたばかりの電気バリカンで刈ったのである。痩せて眼光が鋭くなったせいもあり、不思議なくらい似合っている。男前だ。顔色はいっそうよくなり、非常に多弁になった。話していると元気が出てくるといったふうだ。
 19時には彼が「仕事における親」と呼ぶ、アニメーション制作会社マッドハウスの丸山社長が来訪。本来であれば、真っ先に病気を知らせなければならないのは実の両親と丸山さんだが、親という存在だからこそ、どうしても言えないで来たのである。しかし、搬送先の病院で死に直面し、もう残された時間はないと、ようやく病を告げたのだ。

「もう少しよくなってから言おうなんてカッコつけているうちに、こんな姿になってしまいました」
 丸山さんが入ってくるなり、嗚咽しながら彼は詫びた。手を握り返す丸山さん。そして半生を振り返る長い長い述懐。手塚治虫に憧れた少年時代、マンガ家となって大友克洋と一緒に仕事をした蜜月時代、丸山さんと出会いアニメーション監督としてデビューしてからのこと。
「丸山さんがいたから“今 敏”になれたんです。丸山さんが“今 敏”にしてくれたんです」
 3時間以上は話しただろうか。疲れるどころか、話し終えるころ彼は気力を取り戻していた。もっとも大きかったのはやはり、制作中止を覚悟していた新作『夢みる機械』について「なんとでもするから」と丸山さんが請け合ってくれたことだろう。

 翌10日。彼は酸素吸入器なしでも酸素濃度が標準値を保てるようになり、煙草が美味いとまで言うようになった。前日の丸山さんとの長い語らいがカタルシスとなったのか、憑きものが落ちたかのように再生し、また病と向き合う気力が出てきたようだ。

 話を聞きつけた平沢さんは喜びの余り夕方には再び「応援」に来訪。首から折れたハイビスカスの蕾が花を咲かせた話をしては「幸先いい」と繰り返していた。
 実はこの日、彼は時折悲鳴を上げたくなるほどの痛みに襲われいたため、いつもより口数は少なかったのだけど、上機嫌だった。
「我が家にヒラサワのいる超現実」
 日常の象徴の空間たる我が家のダイニングで非日常の象徴のような平沢進がお茶を飲んでいるのだ。なんというあり得ぬ光景。

09.

 病室兼仕事部屋兼応接室となった居間で場所塞ぎとなっていた巨大なマッサージ・チェアは引っ越し屋によって運び出されていった。丸山さんが貰い受けてくれたため、早々に搬送の手配をしたのである。これで室内を車椅子で動き回るにもよい環境となった。
 搬送したのはわたしが自宅の引っ越しを頼んだ業者で、格安で引き受けてくれた。このころなぜだか「ちょっと前の経験があとで役に立つ」という幸いなシンクロニシティ(と言うのは大袈裟か)に見舞われることが多かった気がする。

 広くなった室内に札幌から彼の両親が着いたのは、7月12日の16時近く。羽田からの道は混んでいて、迎えに行ったマッドハウスのOさんと車中ずっと話しながら来たそうだ。
 げっそりと痩せ細った病床の我が子を想像していたにもかかわらず、意外にも元気そうで驚いたと彼の母は繰り返し言う。なるほど上半身だけ見る分には病人らしくなく、痩せたとはいえむしろ精悍に見えてよい顔になったくらいだ。10代からの彼を知っている身としては、近年のふっくら顔よりもこうした鋭い顔つきのほうが馴染みがあるし、両親ならなおさらそうだろう。

 これまで両親のことは大きな懸案事項だった。病気のことを電話で伝えるわけにはいかない。札幌へ行って自分の口から直接に言う。9月に札幌でクラス会があるからそれがよい機会ではないか。5月や6月には彼はそんなふうに考えていた。しかし、病の進行は加速し、ついには下肢が痲痺したため札幌行きもかなわなくなった。結局、危篤となった際に「先に行ってるから」と電話することになってしまい、悩んだ末ようやく80歳を超えた両親に来てもらう決心がついたのだった。

「丈夫な身体に生んでやれなくてごめんね」
「いや、丈夫な身体を粗末に扱った自分が悪いんだ」

 努めて明るく振る舞おうとしていた母だったが、抑えきれない気持ちがこみあげてきたようだった。それでも愁嘆場は5分ほどであり、あとは励ますように語る。入院せずに自宅で過ごすと決めたこと、西洋医学だけに頼らないこと。世間では「一般的」とは思われない彼の闘病スタイルも「敏の考えだから」と受け入れている。さすがは自らの意志と才能で生きようとするふたりの息子のため、鋳型に入れたがる学校や教師とわたりあってきた母である。

 看護スタッフが来て身体ケアの時間となったため、いったん両親をホテルまで送っていく。彼の母には高校時代に数回会ったことがあるが、30年ぶりであり、向こうは覚えていないようだった。それでも、話し好きで社交的な人柄なので、2時間ほどを楽しく過ごした。父はふだん無口で威厳があるのだが、酒を飲むと気の利いた洒落が出る。さすが、今敏のルーツである。外見も両親ともにすらりとした長身だ。

 今宅へ戻り、手土産の鮭や鰻をいただき舌鼓。時知らずの鮭は言わずと知れた北海道名産品であり、なぜか浜松名産の鰻もまた彼の好物なのである。彼も少量を食べ、飲み、美味しそうに煙草をふかす。
 これまでの彼には死ぬことと生きること、両面へのアプローチが必要だった。生きる準備だけでは死ぬ時に困るし、死ぬ準備だけでは生きられない。
 だが、両親に会ったことで彼の死ぬ準備は完了した。きょうからはもう生きることだけ考えていい。そんな祝杯のようだった。

Pyramid
Kon's collection 02 - Pyramid stone (Egypt)

思い出すことなど [3]

06.

 7月3日の土曜未明に発生したサーバの不具合によって、今敏の公式サイト「KON’S TONE」がダウン。Web, FTP, メイル、データベースといった全機能がストップしていたが、日曜の朝にはようやく復旧したかに見えた。しかし、Webサーバ上のファイルも、データベース上のデータも、すべて消えている。どうやらバックアップも吹っ飛んでしまったらしく、ホスティング・サーヴィス会社では復旧後も書き戻すことができなかったと見える。ひどい話だ。
 別のサーバにローカルのバックアップからレストアしてサイトを再構築しつつ、頼まれていたサウンド・レコーダやらブルートゥース・マウスやらを注文し、新会社の名刺や挨拶状の文面を考える。日曜から月曜にかけてはそんなこんなで慌ただしく過ごしていたが、彼の身体の異変のほうはずっと慌ただしかったらしい。

 土曜に排尿があって安心したものの日曜にはまったく排泄がなく腹部が膨張し、月曜の朝には救急車で病院へ搬送。尿道カテーテルの施術を受けて帰ってきたという。
 メイルの返事がないのでおかしいとは思っていたのだが、夜になってようやくことの次第を知った。それでも、本人から挨拶状の文案修正のメイルが届き、術後の身体を「おお、サイバー」などと表する文章に安心することができた。

 七夕の水曜。降りそうで降らない蒸し暑い梅雨空が続いていたが、少し涼しい雨が降る。サーバの移設ついでにコンテンツの文字コードも変更し、文字化けとの闘い。夜にはようやく解決。サイトの主にもサーバ復旧の旨を知らせるが返事はなし。そのかわり、22:08に架電。
「いよいよダメみたいだ。おれもうすぐ死ぬから」
 息が荒い。一瞬、自殺でもしようとしているのかと思ったが、どうやら病院にいるようだ。
 どうしたというのだ、すぐに行くから、と返すのが精一杯。
「おまえと友達でよかった。あとのことは頼む。京子のことよろしく。あまり電池がないんだ。ほかにも電話しなくちゃならないから、切るよ。じゃあな」

 携帯電話を見ると1分おきに3度電話があったようだった。別室にいたため気づかなかったが、さぞいらいらしたことだろう。
 京子さんに連絡して状況をきこうとするが、どうもそれどころではないようで、23時半には家に戻ってるからそのころに来て欲しいとだけ言われる。なにがあったというのだ。仔細はわからないが、危篤であることだけは確かだった。
 自分自身もそうとうにうろが来ていたらしく、激しい動悸と手の震えを覚えながら、とにかく向かおうとぼんやり電車の乗り継ぎ時刻を検索する。
 誰かほかに彼の危篤を知らせ、死の前に会わせるべき人物はいないか。新会社のロゴから挨拶状、名刺などデザイン全般もお願いしているデザイナーのIさんが彼の家と同じ沿線上にいることを思いだし、電話する。ほんとうは危篤の彼にひとりで対面するのがいやだったからだと思う。情けない。慌てていたため、2回も自分宛に電話をする。
 平沢さんへ連絡し、状況が分かったら再び連絡することにする。
 原さんも詳しい状況は知らないようで、どう動きましょうかと言う。危篤という認識ではなかったのかもしれない。とにかく向かいましょうと言って電話を切る。
 シャンパンで会社設立を祝ってからたった4日じゃないか。この急変はなんなのだ。確かに癌は病状が安定しているようでも急激に悪化することがあるとは聞いてはいたが。

 最寄り駅でIさんと待ち合わせし、傘をさしながら今宅へと向かう。
 催涙雨。
 Iさんには病気のことを知らせてなかったので、道々話す。
 23時半過ぎに着くともう灯りがともっていた。いつものように京子さんが迎え入れてくれるが、もちろん笑顔はない。
 ベッドに横たわった彼は荒い息で鼻腔カニューレから酸素吸入を受けていたが、意識はある。危篤とはいえ一刻を争うような状況には見えない。
 肺炎を起こし、胸水が溜まり、酸素濃度が低下、意識が混濁して再び救急車で病院へ搬送。今日明日がヤマで、医師には病室から出るなんて論外と言われたが、家で死ぬために無理に無理を重ねて押し通しようやく帰ってきたのだという。京子さんは、不測の事態が起こっても病院に責任を問わないという承諾書を書き、酸素吸入装置や搬送車の手配をしてと彼のために動いた。思うことは「我が家が一番」。
「もうダメだよ」という彼に「病状なんて一進一退するもの。これは最初の峠だし、これからなんども峠を越えなくちゃならないかもしれない。そう簡単には死なないよ」などと通り一遍の励ましをするしかない。
 しかし、こうした時でも「こんなものをぶら下げるようになっちゃったよ」と蓄尿袋(閉鎖式導尿バッグ)を指したりする。こちらはこちらでコンヤガヤマダというギャグを思い出したりする。そういえば、あとになってからは「腹水、盆に還らず」なんて言いあったりもした。

 この夜、平沢さんは「行かない」と心に決めた。今さんは絶対にいま死んだりしないし、みんなが集まって来たりしたら、ああ自分は死ぬんだなって思っちゃうでしょ。だから高橋さんも落ち着いて、と。
 ずっと起きてるからという平沢さんには2時過ぎまで何度も連絡を入れた。わたしの話し方が落ち着いてきたので、彼の容態も落ち着いてきたのだなと思ったそうだ。最初は相当に動揺していたらしい。

 峠を越す間、彼がベッドでぐったりしていたかというと実は違う。疼痛感で身の置きどころがないのか、横になる向きを変えたがり、さらには立ちたがったり、座りたがったり。安静にせずやたらに動きたがる彼に周りは困惑した。すでにひとりでは立てなくなっていたが、両側から支えてあげればなんとか数歩は歩くことが可能だったのだ。京子さん、原さん、Iさん、わたしは彼の希望を叶えるべく立ち回る。
 明け方に4時ころになってようやく彼は眠り、われわれは初電で帰った。後日わかったことだが、この夜のことを彼はほとんど覚えていない。処方が始まったばかりでまだ適量がわからない痲薬系の鎮痛剤を服用しすぎたようだった。
  Iさんは「なんだかデザインやりにくくなっちゃったなあ」といつもの調子で屈託なく言う。いや、屈託はあったのだろうが、早く仕上げなくちゃいけない、いいものを作らなくちゃいけないというプレッシャーだろう。

07.

 翌日。当初は12日に予定していた公証人のもとでの遺言状への捺印が前倒しで行われることになった。自分はきょうあすにも死ぬはずだが、これを終わらせねば死んでも死にきれないという彼の意志によるものである。
 運悪く朝から2本も打ち合わせが入っていたため15時半くらいに今家へ行くと、もう平沢さんが来ていた。昨日は「今さんが元気になるまでは行きませんよ」と言っていたのが、朝になってやはり会うことにしたとのこと。
 彼が死ぬかもしれないという不安に駆られて来たわけではない。周囲までもが死を受け入れた「よくない雰囲気」が形成されているのではないか、そうならばその空気を変えなくてはならぬ、という強い思いで来たのだ。

 昼ころにはもう着いていて、ずっと手足をさすっては、元気づけていたという。昨日に比べれば息が安定してきたが、まだまだ相当にしんどそうである。
 平沢進は以後もなんどか今家を訪れたが、いつも見舞いといった表現は使わず決まって「応援」という表現をしていた。平沢進というひとは、今敏が尊敬してやまない存在であるというだけではなく、彼の音楽同様に、その場の位相をずらしてしまうような不思議な力を持っている。簡単に言えばへんなひとなのである。

 彼が平沢進の音楽を聴き始めたのは2ndソロ・アルバムからで、90年代に入ってのことだ。高校時代や大学時代にはわたしが平沢進の音楽(P-MODEL)を聴いていても興味を示さなかったというのに、バンドからソロになって音楽性が広がったこともあろうが、つくづく出会いというのはタイミングが大切なものだと思う。気がつけば、わたしなんかよりずっと深いところで平沢音楽を理解し、彼に音楽の依頼をする関係になってしまった。
 そういえば、わたしが平沢進に今敏を紹介したことが縁でサウンド・トラックを担当するようになったと思われている節があるけれども、そうではない。確かに初めて2人が会ったのは、わたしの取材に彼が同行した場ではあるが、その縁がのちにつながることはなかった。平沢好きのアニメーション監督がいるらしいと嗅ぎつけた平沢スタッフが映像編集の依頼をしたのがきかっけで、彼のほうから平沢進に映画音楽を依頼することになっていったのである。

 16時過ぎ。公証人一行が到着。相手が病人であることなど頓着なく長々しい説明をし、事務的に遺言状を隅から隅まで読み上げ、流れ作業で捺印。本人はもういいからさっさと判を押させてくれと悲鳴を上げそうだった。公証人はわざわざ家まで来てやったと言わんばかりの居丈高な態度であったが、なぜか原さんの名前だけを常に読み間違えるので、終いに原さんは自分から名乗っていた。
 彼は責を果たしたかのように安堵の表情さえ浮かべていたが、平沢さんはなぜこんな状態でこんなことをするのかと納得がいかない。

 続いて医師と看護師が来宅。搬送先の総合病院の医師ではなく、彼が通院しているペイン・クリニックの緩和ケア専門医である。在宅医療を続けるにあたり、最大の課題は「主治医がいない」ということだったのだが、ケア・マネージャの尽力の甲斐あって、この日、主治医になることを承諾してくれたのだった。
 ひととおりの診察を受けたあと、彼は医師と折り入って話がしたいのでと、京子さんだけ残し人払いをした。
 あとで聞いた話では、主治医となった医師に、自分がどのくらい生きられるのか正直なところを聞かせて欲しい、といったことを問うていたらしい。この状態が数か月で終わるなら自宅療養でも経済的にも看護する周囲の体力的にももつだろうが、長引くのであれば別な方法を考えねばならぬ、と。

 2階へ上がって話が終わるのを待っている間、平沢さんは「この空気はよくないですよ、なんでみんな死ぬ準備ばかりしてるの」と苛立ちを隠せなかった。もっとしなければならないこと、してあげたいことがあるんだという切実な顔だった。
 医師の帰ったあと、彼の手を取った平沢さんは「今さん、頑張りましょう」と言い、弱った声で彼は「頑張ります」と力なくも握り返した。
 彼が危篤状態を乗り越えられたのは、一日付き添って彼の痲痺した脚をマッサージし、つきっきりで「応援」した平沢さんのおかげだと、いまでもわたしは思っている。医者は抗生物質が効いたと言うだろう。しかし、寝たきりの義父がなんども肺炎で入院してシリアスな治療を受けたのを知っている身としては、抗生物質を投与しただけで肺炎が簡単に治るとは思えないのだ。

 この夜、twitterのタイムラインを見ていたわたしは、昼間に会うはずだった編集者が2日前に死んでいたことを知った。この日の夕方、遺体で発見されたのだ。なにも知らない学生時代からいろんなことを教えてくれた大切な存在で、四半世紀のつきあいだった。
 病床の彼に死の匂いは伝わってしまっただろうか。

Persona
Kon's collection 01 - Persona (Korean)

思い出すことなど [2]

04.

 6月は自宅の引っ越しがあり、なにかと慌ただしく過ごしていた。学生時代からお世話になっている編集者の母上の葬式に出たり、大学時代の友人がアメリカから子連れで帰国したというので数人で集まったり。さらには短期集中の仕事が入っていたりもした。
 もちろん彼の病状は心配ではあったが、クルマの送迎ながらもスタジオへ通って仕事をしているというし、どうも平沢さんと会って以来、妙に安心してしまったところがあった。むしろ考えまいとしていたのかもしれないが。

 彼のほうでは6月2日から4日まで東北に滞在して免疫療法の病院で採血を行い、三鷹のペイン・クリニックに緩和ケアを受けに通い始めたりもしている。

 入梅後の6月16日。マッドハウスが引っ越して以来、初めて「今組」のスタジオへ。2週間ぶりに彼と会う。
 用向きとしては、ハードディスクがクラッシュして起動しなくなったラップトップPCの引き取り修理。故障したハードディスクからデータのサルヴェージをし、新しいハードディスクと換装、OSを再インストールするわけだ。まあ、よくやっていることではあるし、自分のラップトップとほぼ同型なので扱いやすい。
 新会社でショッピング・サイトを開くプランなども打ち合わせる。彼はこういう話をしていると顔が明るくなる。つくづくなにかを作ったり、プランを練ったりするのが好きな男なのだ。前向きに新しいことを考える時はもちろんのこと、それがたとえ「店仕舞い」のための準備であろうとも、その作業自体を楽しもうと計画する人間なのである。根っからのクリエータであり、プロデューサ気質なのである。

「今 敏」という人間と初めて会ったのは高校1年の時だったはずだ。クラスは違ったが長身に長髪という目立つ容姿をしており、他を寄せつけない独特の雰囲気を持っていたので、なんとなく覚えていた。高校2年ではクラスが同じになり選択科目の美術も一緒だったが、最初はとっつきにくい感じがして敬遠していたように思う。
 ある日、教室で隣のクラスのやつから借りた PANTA & HAL の1stアルバム『マラッカ』のジャケットを眺めていた。3月に出た2ndアルバム『1980X』を聴いて気に入ったので、遡って1stを借りたように思う。もしかすると放送部だったので、昼休みの校内放送でかけたのかもしれない。すると背後から声がした。
「おまえこんなの聴くの? これ、オレの兄貴なんだよね」
 振り返ると、歌詞カードに掲載された鋤田正義が撮影したメンバー写真のギタリストと同じ顔があった。そりゃあ驚く。北海道の東部でそんな偶然があるはずがないではないか。

 この反則のような端緒から、初めて会話を交わしたように思う。それからつきあいが始まったのではあるが、彼は美術部やマンガ/アニメ同好会の仲間と、自分は放送部の仲間と一緒にいることのほうが多かった。互いの家に遊びに行って生意気に酒を飲んだりもしたが、あまり深い話をするわけでもなく、レコードを聴き、馬鹿話に花を咲かせていただけだ。
 彼もわたしも人間関係には距離を取るほうであり、クラスのなかでどのグループにも所属しないという点においては同じだった。修学旅行ではそのような「身の置き所のない4人」で班を作った。東京での「自由行動」は班単位で行動するのが原則だったのだが、班員それぞれ趣味も行きたい場所も違うため、出発前の計画書だけ取り繕って実のところは個人行動だったのだからひどい話だ。

 高校卒業後はふたりとも上京したので、年に2〜3回は会っていたと思う。予備校に通っていたわたしは、共通一次試験の再受験の際には会場である武蔵小金井の学芸大学に近い彼のアパートに泊めてもらったのだが、緊張のあまり朝までマンガを読んでまた失敗したとずいぶんあとまで笑われたものだ。仕事をするようになってからも、だいたいはそんなペースで会っていて、お互い結婚してからはいわゆる家族ぐるみのつきあいになった。
 いつからか正月にはどちらかの家に集まって新年会をするのが慣わしになっていて、今年の正月には我が家で3歳児とかくれんぼはするわ、お姫さまのスケッチは描くわの大サーヴィス。子供好きのキャラクタからはまったくかけ離れている彼だったが、この3歳児が生まれた折にはたくさんの祝いの品をもらい、ずいぶんと気にかけてくれていたし、ふだんは人見知りの激しい子供も「コンサン」「キョウコサン」と懐いていた。

 活動するジャンルが違うとはいえ、この10年間で彼が「世界の 今 敏」になったことに、正直に言って羨む気持ちがなかったわけではない。マンガやアニメーションを作る才能だけならまだしも、文章を書かせても才能を発揮する彼に嫉妬心がわかなかったと言えば嘘になる。
 しかし、比較するほどの才能が自分自身にあるわけでもなし、学生時代から彼のマンガが入選したり、大友克洋のアシスタントになったりという活動遍歴をずっと見てきた身としては嬉しさのほうが大きかったというのもまた正直なところである。編集者として見て彼の文章はあまりに面白いので、自分から単行本化の企画を持ち込んだくらいだ。
 ただ、彼が仕事に対して非常に厳しいのはよく知っていたので、友達関係を維持していくには彼とは仕事では関わらないほうがよいかもしれないという危惧すらあった。幸い、単行本『KON’S TONE』の編集をはじめ、雑誌やムックのインタヴュー原稿などの仕事もいくつかしたが、どれも気に入ってくれていたようで、絶交するような事態には至らずに済んだ。
 そういえば、彼が周囲に「監督」と呼ばれるようになってからは、こちらもアニメーション関係者の前では立場に気を遣って「監督」と呼ぶようにしていたのだが、彼のほうも人前ではわたしのことを筆名である「かしこ」で呼ぶようになった。高校時代は同じクラスに3人も「高橋」がいたため同級生からはだいたい下の名前で呼ばれいて、彼からも長年「まさる」と呼ばれていたのだが、彼なりの気遣いや公私を分ける気持ちがあったのだろう。

05.

 北海道にはない、梅雨といういやないやな季節。ただでさえ体調を崩しがちだというのに、2010年の梅雨は彼にとって声も出ないほど激しい痛みとの闘いの季節となった。

 4月末から肺癌の手術で上京していた父は、退院後もしばらく留まって姉の家から手術した病院へ通院していたのが、ようやく1か月半ぶりに梅雨のない北海道へと帰っていった。術後の検査結果では切除した部位のリンパ節からも懸念された癌細胞が見つかったのではあるが、放射線療法や薬物療法は行わないことに決めた。そのころには、切れる癌は癌じゃないというほどの心持ちになっていたので、父の病状についてはむしろ楽観していた。ひどいといえばひどい息子である。

 わたしは株式会社KON’STONE設立準備を進め、京子さんは遺言状作成を手配していたころ。彼は大がかりな神経ブロックによる治療を受けるため、6月23日から26日まで短期入院した。たいへん不愉快極まりない入院生活だったようで「アニメ業界も医療業界も同じ、木っ端役人が跋扈する世界」と語っていたが、それはさておき。
 精密検査の結果、予想以上に癌による肉体の浸蝕の度合いが激しく、予定していた「腹腔神経叢ブロック」を施すにはリスクが高すぎるため治療は断念せざるを得なかった。この施術が受けられていれば、半年間は痛みから解放されるはずだったのだが。

 退院後の6月28日、平面的に寝そべると激痛が走る彼のために医療用ベッドと車椅子が用意された。そこまで悪化しているとはまだ知らなかったわたしは、少々の異議を唱えた。
 というのも、2年前に脳卒中で倒れた義父が杖による歩行から車椅子へ、車椅子から医療用ベッドへと移り、あっという間に寝たきりになってしまっうのを見ていたからである。動けるうちはなるべく動いたほうがいいのではと素人ながらに思っていたのだが、転倒による脊髄の損傷で半身痲痺、最悪の場合には死亡する危険性すら医師に指摘されていたという。わたしが気を抜いていた1か月の間に癌は凄まじい速度で進行していたのだ。
 医療用ベッドは1階の居間に置き、2階にあった仕事道具も1階に移す。1階にはLAN回線が来ていないので、無線LAN環境を構築。ベッドのテーブルでもラップトップ機を使えるようにする。CATVによるインターネット回線用のよくわからない接続機器だったのでルーティングするのにえらい時間がかかってしまった。

 株式会社KON’STONEは6月25日に登記を完了し、7月1日には補正確認も終わって正式スタート。名刺だの挨拶状だのをデザイナーに依頼する。京子さんの本業はデザイナーなのだが、彼女が自分でやっている時間はとれそうにない。彼の病状が悪化するに従い、介護など日常的な作業量は増大、加えて在宅医療・看護の体制作り、医療用品・介護用品の手配、自分自身が行うべき看護や介護の勉強といったことに忙殺されている。

 その週末、7月3日にはマッドハウスのプロデューサで株式会社KON’STONEのスタッフとしても動く原さんと一緒に1階のさらなる環境整備。本棚など当面不要なものは2階に上げてスペースを作り、仕事机などを1階に下ろす。巨大なマッサージ・チェア(通称・ガンダムのコクピット)が広い面積を塞いでいるが、これは専門業者にでも頼まない限り移動は無理であるし、貰い手も決まっていない。
 不具合のあったLAN環境も再調整し、なかなか快適。手持ちのスマートフォンも心地よくネットに繋がる。さらには修理の終わったPCにソフトウェアのインストール。ヴォイス・メモを取るためのサウンド・レコーダだのブルートゥース・マウスだのMP3プレーヤをオーディオ・アンプに飛ばすブルートゥース機器だの、要り用なものをリクエストされ、手配の段取りをする。
 病のなかにあってもこの日の彼は体調がよく、薬の効果で痛みもやわらいでいたようだ。実はこの日の朝、転倒して冗談抜きで「死ぬかと思った」ことをあとで知ったのだが、われわれが作業している間に異状はなく、利尿剤が効いたのか懸念されていた尿も出た。

 夜には、彼はベッドで、われわれは居間続きの食堂で、ささやかな会社設立パーティ。ここぞという時に開けようととっておいたという、いただきもののかなり上等なシャンパンで乾杯。熟成年月が長く、深みのある味。これまで飲んだシャンパンでも飛び抜けて最高に美味しい。わたしなんかよりよっぽどいいものをたくさん飲んで来た彼も「これは美味いね」といいながら、少量を飲み干す。

 この夜は、ほんとうに楽しく、愉快だった。

思い出すことなど [1]

00.

 長く耐え難かった夏もようやく、ようやくのこと、終わった。

 今敏が最後に記したウェブログ「さようなら」は、掲載から1か月で閲覧数が20万を超えている。
 あれを遺してくれたおかげで残された者たちがなにがしかをステイトメントする必要もなく、その意味ではたいへん楽をさせてもらった。
 事実を伝えるにおいて過不足なく、よく練られ、構成され、エンタテインメントとしても成立する笑いのある文章。彼の作る映画と同じ才気が感じられる。ああいうものを自称素人に書かれては自称玄人としてはたまったもんじゃないが、これも才能の違いだ、しょうがない。

「さようなら」の文章に限らず、彼の3か月はなにかにつけ「迷惑をかけまい」とする配慮と行為の集積だった。周囲の人間、そして自分自身への感謝と思い遣り。それを実現するための周到な計算と強靱な意志による実践。
 3か月という「生活」さえもまた彼の作品だった。

 それに対してなにかを付け加えたり、解説したりするのは蛇足の観を免れないが、近年の映像作品のソフトウェア化には必ずといっていいほど併録されているオーディオ・コメンタリのようなものだと思っていただければ幸いである。

01.

 呼鈴を鳴らし、鉄製の門扉をきしませながら開ける。
「いらっしゃい、きょうも暑いね」
 妻の京子さんが玄関まで出迎えてくれる。三和土に立つ彼女はたいてい裸足だ。
 居間に入ると、傾斜させた寝台で半身を起こした主(あるじ)が片手を挙げる。
「よっ、いつも悪いな」
 気分がよい時には笑って快活に、そうでなければ俯き加減で。
 この夏、幾度も繰り返された光景だ。
 陽射しを避けて薄暗くしたその空間は、高密度だが現実感は希薄だった。ふたりを残してその特別な空間から出ると自分はいつもの日常へと戻り、我に返ったようになる。
 再び繰り返すことはない現実という意味では夢と同じくはかない過去ではあるが、そこには間違いなく別の日常があった。

  観測史上最も暑かった夏は、彼の命を奪った。

02.

 前年から探していた自宅の引っ越し先がようやく決まり、準備に追われていた5月の20日。彼から電話があった。
 電話で話すような内容じゃないので自宅に来て欲しいという。仕事の話なら制作会社のマッドハウスでするだろうし、話の主題くらいは語るだろう。しかもできるだけ早いほうがいいと言う。おかしいなと思いながらも翌日15時に会う約束をした。
 新作『夢みる機械』に関する本の編集だろうか。あるいは作品制作が暗礁に乗り上げてしまってなんらかの相談事だろうか。まあ、久しぶりに一緒に食事をするのもいいかもしれんな。呑気にそんなことを考えていた。
 翌21日。昼に引っ越し先の契約を終えたあと、今家へ向かった。
 入るとふたりとも大きな円い座卓にかしこまった雰囲気で座っている。近ごろの忙しさ具合はどうだとか、調子はどうだとかいつもの挨拶に続いて、いつになく切り出しにくそうに言った。
「いや、暑いなかわざわざ来てもらって悪いな。実は最近、杖なしじゃ歩行が困難になっちゃって」
 義父が脳卒中で倒れる前に跛をひいていたことを思い出し、まさか…と思う。だが、答えはさらに最悪だった。
「おれ、膵臓癌でさ、もって半年、悪くて3か月って言われたんだ。もう骨まで転移してて、年越せそうにないんだよ」
 待ちかまえていたかのように京子さんがわっと泣き崩れる。
 なんのコントだ。一気に現実感が遠のく。

 3日前に検査結果を知らされたばかりで、まだ側近のプロデューサーである原さんにしか話していないという。2月末にライヴに会った際にも足腰が痛むとかそういう話はきいていたが、お互い40代も半ば、身体にガタが来ても不思議ではないと思っていた。
 健康診断のひとつも受けていればなどといまさらながらのつまらぬ問いを発すると、膵臓癌はたとえ健康診断を受けていても見つかりづらい癌であり、見つかった時には手遅れというケースが多いと言う。彼の場合も痛みに耐えかね、3月から5月にかけてさまざまな検査を重ね、ようやくのこと膵臓癌であると判明したそうだ。その時々で胸膜炎だの加齢による関節痛などとも言われたが、4月末には膵臓癌の疑いが指摘されて精密検査をしたらしい。

 手の施しようがないと言いながら化学療法や放射線療法を勧める医師。効果のほどを説明することもなく、それが定番のコースであり、そうするのが世の習いであるかのように話す。対して彼は「煙草が吸えない」「食事が不味い」という2点だけで入院は拒み、通院を決めたという。わたしも正しい選択だと思った。
 実はこれより先の5月6日、わたしの父が肺癌の手術を受けたばかりであった。その際に担当した外科医は予防的な放射線療法や化学療法はお薦めしないと言葉を濁しながらも言った。効果がないとは言わないが、80歳近い年齢を考えれば放射線療法や化学療法はリスクのほうが遙かに大きいということだった。
 膵臓癌と肺癌では事情が違うだろうし、年代も異なるので同列には語れまいが、治癒や延命という効果の保証はまったくなく、確実に副作用の保証だけはされている治療を受けても仕方がないだろう。

 ついては、人生の後片付けのためのサポートをしてはくれまいか、というのが彼の頼みだった。手始めに作品の著作権管理をする会社を作りたいという。
 そのくらいの手伝いは簡単にできるし、幸いといおうか、本来であれば幸いではないのだが、仕事は詰まっていない。そもそも癌にならずとも、彼くらい著作を抱える立場であれば会社を作るのは当然であり、以前からそういう話はしていたのである。
 そのほかにも、彼はあれやこれやと懸案事項や依頼事項を語り、もろもろの相談相手、コンサルタント役になってくれと言い、先々においては改めてインタヴューをし、過去の文章をまとめ、彼の人生の総決算をコンテンツ化してほしいという。わたしはもちろんすべて引き受けた。

 制作中の新作『夢みる機械』は脚本はあがっているもののコンテはまだ途中。自分が死んでしまえばどうせ制作中止になるだろうが、いまは対外的な問題もあるし、制作スタッフにも病気のことは伏せている。公表できる段階になれば、自分のサイトで闘病記を発表するのもいいかもしれない。などなど。
 ひととおり彼が話したところで、死ぬ準備も必要だけれど、生きる準備も必要ではないか、とわたしは言った。父の癌について相談した折りにさる人物からいただいたアドヴァイスの請け売りではあるが、末期癌から生還した例はよくきくし、ただ死を受け入れるのではなく、免疫力を高めるとか、毒出しするとか、やれることはやってみようではないかと。
 徒に確証もない希望を語るのはどうかとは思うが、そんな話をせずにはいられなかった。
 彼も本来は前向きな人間である。わたしの話に興味をもってくれたようだ。

 今家をあとにして駅までの道、歩きながら泣いた。
 こんなことに巻き込んでしまってすまんな、と彼は言ったし、重たいものしょわしちゃってごめんね、と京子さんは涙声だった。
 しかし、いち早く打ち明けられ、相談され、頼みごとをされたことはむしろ嬉しかったし、誇らしくもあった。彼とは30年のつきあいだが、初めてほんとうの友人になれた気がした。
 あとになって京子さんも「初めて夫婦になった気がした」ということを言っていたけれども、同じ思いがあったのだろう。

「おれ、おまえしか友達いないからさ」
 3か月の間に、そんな言葉をなん度か口にしたことがある。もちろん彼には仕事仲間はたくさんいるし、仕事を通じた友人やともに闘った盟友・戦友のような存在もいる。また、遠く離れて会う機会が減ってしまった友人もいる。しかし、身近にいる仕事外の友人、という意味では適当な人材がなかったのだろう。だからこう答えることにしていた。
「お互いさまだよ」

03.

 5月30日。晴れわたった午後。
 新宿のホテルのこぢんまりとしたミーティング・ルームで「元気と自信を注入する会」が開かれた。
 彼の病気のことを平沢さんに話したところ、ぜひ力になりたいというありがたい反応があり場を設けることにしたのだが、実はこのころには彼すでに「元気」であった。
 もちろん肉体的には元気ではないが、精神的には「ハイ」であった。
 たとえ悲観してもけっして自暴自棄になる人間ではなかったが、やれることはやる、という力が湧出してきたようだった。わたしも2冊ばかり免疫に関する本を送ったりしたが、彼、そして京子さんは文字通り必死になって癌と闘う方法を模索していた。
 標準的な西洋医学がお手上げというのなら、非標準的な西洋医学がある。東洋医学もあれば、代替医療もある。眉に唾せねばならないものも多かろうが、まさにダメモトである。標準的な西洋医学だけを信じ、伏して死を待つことはない。

 そうした彼にとってもっとも「良薬」であったのは、平沢進の音楽である。これほど生きる力を与えたものはなかったろう。そして、平沢さん自身もまた不思議とひとを元気にさせる力があった。
「癌? そんなのは風邪みたいなもんですよ。絶対に治ります」そう言って笑う平沢さんの言葉には、彼だけでなく京子さんも原さんも力づけられたはずだ。
 ああ、彼の癌は治るんじゃないかな。不思議な安堵があった。
 いや、実のところ彼の死に至る病を受け止めるには重たすぎて、助けを求めたのはわたし自身でもあったのだ。自分自身が少しでも楽になりたくて平沢さんを呼んだのだ。以来、どれだけ平沢さんが力になってくれたことか。力になる、というより、一緒に闘ってくれたと言ったほうがよいかもしれない。

 今は言った。標準ではない生き方をしてきた自分には平沢さんの逸脱した音楽が合っていたように、標準ではない医療が合っているのかもしれない。死の恐怖の前につい標準に合わせようとしたが、これからは自分に合ったやり方を見つけていきたいと。

 この場は終始明るく、笑いに満ちていた。