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電子書籍と呼ばれて

5年前に改訂版を出した『音楽産業廃棄物』を再改訂してデータ版で復刊することにした。
世間的に言えば「電子書籍」というやつになるのだろうが恥ずかしいのでそうは呼ばない。

本題に入る前に「電子書籍」のおさらいをしておこう。
世間様の言うところの電子書籍をめぐる昨今の論議というのは、3つのレイヤがごちゃまぜになっていることが多い。

(1)コンテンツ
(2)デヴァイス
(3)流通販売

(1)は本の中身であるが、ヴューア(ソフトウェア)とそれに対応したファイルフォーマットと密接な関係にあり、標準化規格から独自規格までいろいろ。
(2)はKindleやNookなどの読書に最適化された専用デヴァイス、iPadなどスレイトPCと呼ばれる読書もできる汎用デヴァイス。
(3)はAmazon(Kindle), Barns & Noble(Nook), iBookstore(iPad)といったデヴァイスと紐付きのオンライン・ストアや実店舗のサーヴィスが中心だが、Googleのように世界中の書籍のデータベース化という特殊な野望もある。

この3つのレイヤはそれぞれ複雑に関連しあっているし、Kindleにいたっては読書専用デヴァイスを指すこともあれば、さまざまなプラットフォームに対応したソフトウェアを指す場合もあり、話がごっちゃになりやすいのは確かだ。
しかし、実はこれ、ほんとはどれをとっても新しい話ではない。
単に「役者が揃った」というだけである。
もちろん、携帯音楽プレーヤも音楽用ファイルフォーマットも90年代からあったにもかかわらず、一般に普及したのはAppleがiPodとiTunesをセットで送り出したから、という歴史的事実はあるし、書籍ヴューアや書籍ファイルフォーマットにも起爆剤は必要だろう。
それがいまなのかもしれない。
ただ、電子書籍が斜陽の日本の出版産業をさらに窮地に追い込むとか、逆になんとかしてくれる救世主だとか、そういう筋合いのものではない。

電子書籍とかいっても、トドのつまりはWebコンテンツをオフラインでの閲覧に最適化したうえでどう課金するか、という話になってくる。
いや、トドのつまり、というより、そもそもの出発、オボコことはじめがそうだったはずなのである。
にもかかわらず「電子書籍って動画や音楽も入れ込めるし、ほら、こーんなこともできちゃう。すごいでしょ」などという紹介がされたりする。
アホか。
あなたWebページを見たことないんですか。
情報誌の電子雑誌化に至っては意味不明だ。
いまある旅行・食・音楽・演劇などの情報サイト、チケット販売サイトの類はいったいなんだというのだ。

PCのWebブラウザでも、小説を読むことはできる。
しかし、PCのモニタは長時間見ていると目が疲れるし、ポータブルではないので「読書」には向かないうえに、紙と違ってWeb上の「情報」はなかなか金を取りにくい、さてどうするか。
そういう話だったはずだ。

実際、電子書籍のオープンな標準フォーマットである ePub も中身はXHTMLである。
個人的には将来 ePub は HTML5 と統合されていく可能性が高く、過渡期のフォーマットだと思っている。
逆にWebページも雑誌のレイアウト並みに縦書き・横書き混在の複雑なレイアウトが組めるように進化していくだろう。

紙媒体がデジタル化することで、音楽のようにメジャーとマイナー(インディーズ)の境界が希薄になって面白い動きが出てくる可能性は高いし、商売の方法も変わっていくだろうが、メジャー音楽産業がダメなままダメになっていったように、中身がダメなものはダメである。
有能な編集者はますます希少価値化し、会社に守られていたようなダメ編集者は消えていく。
などということを言うと我が身に翻って唇寒し。

あまりに前置きが長かった。
本題の書籍『音楽産業廃棄物』のデジタル化についてである。

電子書籍といっても既存の書籍のデジタル化と新しい書籍を企画する場合とでは、発想も方法も異なってくる。
テキスト主体であるのか、画像主体であるのか、テキストと画像の組み合わせが複雑か単純か、といった本の中身によっても作り方は異なってくる。
また、部数が多ければ各プラットフォーム版を作ることもできるだろうし、特殊な層に向けた内容であればiPad専用アプリケーションなどもあり得るだろう。

書籍『音楽産業廃棄物』の場合は読者の数が限られる本であるからして、PCからスレイト、スマートフォンなど多岐にわたるデヴァイスに向けた汎用の標準フォーマットにするしかない。
特定のプラットフォームに向けた独自フォーマットなど論外である。
内容的にはレイアウトが複雑で、写真と文章が入り組んでいるページが多く、縦書き・横書きも混在している。
こうした本をデジタル化に際して完全に組み直して可変レイアウトにすることも可能は可能だが、それには新しい本を作るのと同じくらい時間と労力、言い換えれば金がかかる。
部数が少ないということは予算が少ないということで、デジタル化にかけられる費用も限られてくるのため、それもあり得ない。
既存の印刷データがそのままデジタル化されることが望ましい。
そういうことで条件を絞っていくと、PDFしかないのが現状である。
英語であればePubでもできないこともないだろうが、日本語は縦書きすら標準化されていない。

というわけで『音楽産業廃棄物』は古式ゆかしきPDFフォーマットでデジタル化されることとなった。
というか、印刷データはもともとデジタルなのであり、デジアナ変換されているのが紙の本なのだ。
デジタル・データそのままデジタル出力しているに過ぎない。
初版が99年の本のためフォントやファイル形式が古く、印刷会社泣かせではあるが。

また初版本から『音楽産業廃棄物』には附録CD-ROMがついていて、そこに書籍本体を組み込むことも可能だというのもPDFにした理由のひとつである。
附録に本体を収録するとは本末転倒だが、それもまた時代的である。
考えてみれば、前回の改訂版も本来は紙ではなくこういう形でデジタル版で出す予定であったのだ。

ほんとは販売形式もダウンロードだけにして思い切り安くすればいいじゃないかと思っていたのだが、周囲にリサーチしたところ反対意見が多く、パッケージ版も作ることにした。
さらにパッケージ版には印刷用PDFデータも収録する。
印刷用PDFデータというのはトンボが入ったアレで、印刷会社へ持ち込めば私家版書籍を1冊作ることができるというものだ。
印刷費はオンデマンドでも1冊数万円はするだろうから、実際に印刷するひとはそういないとは思うが、個人使用の範囲を超えて複製されても困るし、印刷用データを売った例はあまりないのではないか。
こういうことを許可してくれるところが平沢進らしいところだ。
なんと画期的。

ただし、予約が集まらなければパッケージ版は出ませんので、みなさんよろしくお願いします。

moderoom.fascination.co.jp/modules/release/miwd.html

shop.fascination.co.jp/

pbook_1st
初版 音楽産業廃棄物
P-BOOK2
改訂復刻版 音楽産業廃棄物

横川理彦 x 中野テルヲ 邂逅

横川理彦x中野テルヲ
one-s-one II 〜唯一無二のソロアーティストによる競演〜
2010年3月24日(水)渋谷SONGLINES

昨年の「DRIVE TO 2010」出演以来、活性化してきている中野テルヲ。
4-Dやソロのほか、さまざまなコラボレイションで多彩な活躍を見せる横川理彦。
ふたりがジョイントするというので行ってきた。

P-MODEL3代目ベーシストと4代目ベーシストの共演でもあり、個人的にはP-MODEL30周年記念イヴェントの一環である。
中野テルヲのライヴを観るのは2002年1月の表参道FAB以来10年ぶり、横川理彦ソロは学芸大学trayで観たのが5年ほど前であったろうか。
会場のソングラインズはカフェの一角にミニ・ステージがあるといった風情で弾き語りが似合いそうでもあるが、客入れはポップ・グループ(笑)。

まずは横川理彦がいつものようににこやかに登場。
今回はカヴァー4曲をインプロヴィゼイションで展開。
シーケンサーのリズム・トラック上に、ヴォーカル、サイレント・ギター、生ヴァイオリン、シンセサイザーなどをリアルタイムに重ねてループし、その上にさらに音を重ねてループ、さらに音を重ねて…というPCのメモリの限界に挑戦という手法。
というと非常に実験的なようだが、どれもすべて「心地いい」サウンド。
ただし、エレクトリックなノイズが嫌いでなければだが。
特に「口(くち)ドラム」で音を増やしていく「BABY’S ON FIRE」なんて、エンタテインメント性が高く楽しいし、楽曲のテーマ解説MCでも笑わす。
さすが映画のサウンドトラックからノイズまで音楽的バックボーンが幅広いマルチ・プレイヤーである。
「円熟したニュー・ウェイヴ」とでも表現したくなるヴェテランならではの場数を踏んだパフォーマンスだ。

横川理彦
01.WEIRD FISHES (Radio Head)
02.LOVE LOCKDOWN (Kanye West)
03.BABY’S ON FIRE (Brian Eno)
04.REQUIEM POUR UN CON (Serge Gainsbourg)

10年ぶりの中野テルヲであるが、機材の中心は変わらずUTS(Under Techno System)だ。
UTSはP-MODELだった高橋芳一による自作楽器で、センサーによって鳴ったり光ったりするシロモノ。
音がなければ手刀で居合いをやってるかのようである。
世界でただひとりの「ミスター・センサー・マン」によるセンサー・パフォーマンスだ。
「レッツ・ゴー・スカイセンサー」はやらなかったけど、おなじみ「ウーランストラッセ節」「RAM Running」「Uhlandstr On-Line」は披露。
めくるめく発振音と奇妙にねじれたメロディの上を這う「端正な」ヴォーカル。
指でフレームを作ってポージングする「フレーム・バッファ I」もそんな中野ポップ節が楽しめる新曲だが、収録の限定盤「PILOT RUN vol.1」は残念ながら完売。

トリビュート・アルバム収録のクラフトワーク「コンピュータ・ラブ」や、FLOPPYのアルバム『PROTOSCIENCE』でリミックスした「meta色吐息」といったカヴァーも。
全体にダブ的手法のアレンジが多く、びしょびしょのエコーと楽曲の解体具合が気持ちよかった。
そういえば中野テルヲのアルバム『Dump Request 99-05』には「コンピュータ・ダブ」なんてのも収録されてるのだった。
終演後に話をうかがったところ、やはり元ニュー・ウェイヴ少年としてはダブが大好きだったそうである。

中野テルヲ
01.ウーランストラッセ節
02.RAM Running
03.フレーム・バッファ I
04.Run Radio IV
05.Uhlandstr On-Line
06.meta色吐息
07.コンピュータ・ラブ

中野ソロのあとは、アンコールのような形で、といっても間はおかずにセッション・タイム。
同じP-MODELに在籍していたとはいえ、時期が重なっていないので共演は初めてのはず。
もっとも、横川理彦の在籍時に中野照夫(当時)はP-MODELのスタッフをやっていたので、気心は知れている。
1曲目は横川理彦のギターで、えーと、なんだこれ、ロンバケ?
と思ってあとで調べたらロング・バケーションの「LEGS (SWEETIE MIX)」のリアレンジだったもよう。
よく覚えてたもんだ、ファンなのか。
ラストにはなんとP-MODEL『カルカドル』収録の「PIPER」という平沢進・作詞/横川理彦・作曲のナンバー。
横川理彦はヴァイオリンとヴォーカル、想像だけどたぶんトラックも加えている。
記憶ではP-MODEL時代のライヴでも横川理彦のヴォーカル・パートもあったはずと思ったが、どうやら錯誤であったらしく、アルバムを聴き直したら平沢進しかヴォーカルをとっていなかった。
あてにならないもんだ、ファンじゃないのか。

追記: あとで中井さんにきいところ、P-MODELのライヴでは横川さんがヴォーカルをとって、平沢さんはソデに引っ込んでいたような記憶があるとのこと。
録音物がないので確証はもてないが、わたしの記憶が捏造されたわけではなかったのかもしれない。

追記2: 還弦主義サイトに1985/12/26ロフト音源の「PIPER」が投稿された。
やはり横川ヴォーカルであったようだ。
8760.susumuhirasawa.com/modules/ooparts/index.php/photo/144/

横川理彦 x 中野テルヲ
01.Legs More Sweetie
02.Piper

というわけで2時間のステージは終了。
終演後には、三浦俊一高橋芳一といった元P-MODELのメンバー、シャンプー折茂昌美FLOPPY戸田宏武(P-MODELの『ANOTHER GAME』で道を踏み外したらしい)らが集まった。

以上、敬称略。
曲目はライヴを企画した中井敏文(モノグラム)のサイトより。

いつまで残っているかはわからないが、Ustreamのアーカイヴはこちら。

中野テルヲx横川理彦

www.ustream.tv/channel/teruo

横川理彦
www.manuera.com/altoki/j-yokogawa.html

中野テルヲ
www.din.or.jp/~teru-o/

次回ライヴはC・J・ラモーンのベースが盗まれたことでも有名な高円寺HIGHで。

Teruo Nakano Solo-Live 2010
6月20日(日)東京・高円寺HIGH
開場 17:30/開演 18:00
blog.seal-s.com/2010/02/post-8.html

アルバム『Dump Request 99-05』に再プレスは在庫あり。
seal-s.com/dr99-05/

ザ・ビートルズの MONO BOX を聴いた「言い訳」

ザ・ビートルズの『MONO BOX(The Beatles In Mono)』をようやく聴き終わった。
ちゃんとしたヘッドフォンを持っていないので、オーディオ装置の前に座って1枚1枚ちゃんと聴いていたら、やたら時間がかかってしまったが、結論から言えば「買ってよかった」である。
そして、困ったことに通常のステレオ・リマスタのボックスも欲しくなってしまった。
というのには、いささか事情がある。
いや、事情がなくてもみんな買ってるわけだけれども、ちょっと言い訳してみたい。

言い訳その1


今回のリマスタリング音源を聴き比べるといっても、さまざまなパターンがある。
ざっと考えられるだけでも次のような組み合わせがあるだろう。

1. アナログ盤/モノラル vs 新CD/モノラル(*)
2. アナログ盤/モノラル vs 新CD/ステレオ(**)
3. アナログ盤/ステレオ vs 新CD/ステレオ
4. アナログ盤/ステレオ vs 新CD/モノラル(*)
5. 旧CD/モノラル vs 新CD/モノラル(**)
6. 旧CD/モノラル vs 新CD/ステレオ(**)
7. 旧CD/ステレオ vs 新CD/モノラル(*)
8. 旧CD/ステレオ vs 新CD/ステレオ
9. 新CD/ステレオ vs 新CD/モノラル(*)

上記「旧CD」とは1987年版のCDを指し「新CD」とは2009年版のCDを指す
*『プリーズ・プリーズ・ミー』〜『イエロー・サブマリン』のみ可
**『プリーズ・プリーズ・ミー』〜『フォー・セール』のみ可

ザ・ビートルズの全作品にステレオ/モノラルの両方があるわけではないので、上記の組み合わせが全作品において可能なわけではない。
さらに細かいことを言えば、アナログ盤にもオリジナル盤とデジタル・リマスタ盤があるし、もっとたくさんのパターンがあるだろうが、マニアではないのでよく知らない。
そういえば、宣伝文句では「初のデジタル・リマスター」とかって言ってるけど、旧CDにも再発アナログ盤にも「Digitally Remastered」って書いてあるんだよな。
ぜんぜん初じゃない。

ところで、ミニチュア紙ジャケットは、世界中で日本の印刷技術はすごいとか褒められてるらしいし、確かによくできてるけど、赤かぶりしてないか?
ロットのせいかもしれないし、字がつぶれないのはすごいけど。

さて、今回のリマスタリングでのサウンドの変化を比較・検証するのであれば、上に掲げたパターンのうち(1)(3)(5)(8)あたりが中心になるだろうし、モノラルとステレオの比較とうことなら(9)になるだろう。
しかしながら、前回の「言い訳」にも書いた通り、ザ・ビートルズのオリジナル・アルバムはアナログ盤では揃っているが、旧版CDでも新版CDでも1枚も持っていない。

赤・青のベストと『パスト・マスターズ』は旧CDで持っているので、一部の旧ステレオCDミックスと、旧モノラルCDミックスは聞くことができるが、アルバム単位ので聞き比べが可能なのは(1)くらい。
あとは上に揚げたパターン外だが、アナログ盤/ステレオと新CD/モノラルという、あまり意味があるんだかないんだかわからない組み合わせである。
『MONO BOX』を語るには『STEREO BOX (The Beatles Box)』も買わなくちゃいけないのではないか。
ステレオCDを聴いてないのにモノラルCDの話をするのは片手落ちも甚だしいと言わざるを得ない。

言い訳その2


かように極めて不完全な状態ではあるけれども、旧音源と比較した『MONO BOX』の感想を備忘録がわりとして書いておこう。
ちゃんとしたザ・ビートルズのサウンド研究書はたくさん出版されているし、Web上にも情報はあふれているので、あくまで個人的なノートである。

まずは、すでにアナログ盤でモノラル・ミックスを持っていた『プルーズ・プリーズ・ミー』から『フォー・セール』だが、これを(アナログ盤の)ステレオ・ミックスと比較した場合はどうか。

これはもうモノラルがいいに決まっている。
トラック数など当時のレコーディング機材や技術、エンド・ユーザの再生環境への配慮があったのはわかるが、いま聞くとヴォーカルが片チャンネルからしか聞 こえないサウンドはやっぱりは奇妙だし、ヴォーカルがセンターで音像を結ぶ曲でも、ドラムが左だけとか、楽器が左右にきっぱり分かれているのはどうもなじ めない。
もちろん初期ナンバーでも「抱きしめたい」のようにステレオのほうがいいかも、と思うナンバーもあるし、再生環境にもよるだろう。
ほかのサイトでも散見したが、携帯プレーヤのヘッドフォンやPCスピーカなどではステレオのほうがよく聞こえるかもしれない。
だが、それなりのオーディオ装置で大きな音で聞くと、概ね初期ナンバーは生々しいモノラル・サウンドのほうがよい。
モノラル・ミックスは、ヴォーカルも前面に出てくるし、ベースびんびん、ドラムどかどか、際立って響くようミックスされている傾向があるので、特にハードな初期ナンバーは荒々しく野太いモノラルのほうがよい。
では、そのモノラル・ミックスが新しいリマスタリングでどうなったかというと「自分の再生環境では」という断り書きのうえで、次のような順。

アナログ盤 > 新CD > 旧CD

今回のリマスタリングはアナログ盤の音に近い自然な音を目指したそうで、モノラルしか聴いていないものの、その点は非常に納得できる音になっている。
旧CDのリマスタリングが悪いとは思わないし、極端な差があるわけではないけれども、新CDのほうがCD独特の「シャリシャリ感」が減って、より自然で迫力のある好ましい音にはなっている。
しかし、では、アナログ盤と比べて新CDはどうかというと、う〜ん、やっぱりアナログ盤のほうがいいんだな。
これも微妙な差であり、再生装置の差かもしれないが、やはりアナログ盤のほうがモノラルならではの迫力をより強く感じるし、アナログ盤特有のスクラッチ・ノイズが入るにしても、やっぱり「いい音」に聞こえる。
ここは公平にステレオ・ミックスのアナログ盤とCDも聞き比べて判断したいところである。

言い訳その3


それでは、これまでモノラルで聴いたことのなかった『ヘルプ!』から『イエロー・サブマリン』まではどうか。

『ヘルプ!』は初期作品だし、やっぱりモノラルがいいだろうなあ、と思っていたら、やっぱしそうだった。
ただ、タイトル曲の「ヘルプ!」なんかは分離のいいステレオのほうがサウンドにキレがあっていいかなとも思うし、再生環境や好みの問題もあるかもしれない。

『ラバー・ソウル』『リヴォルヴァー』といったザ・ビートルズが大きく変化した中期の作品はどうだろう、さすがにステレオがいいんじゃないだろうか。
と思っていたが、実際に聴いてみるとこれもやっぱりモノラルのほうがいいんだな、自分としては。
『MONO BOX』には『ヘルプ!』『ラバー・ソウル』のこれまで未CD化だったオリジナル・ステレオ音源も収録されているが、アナログ盤のステレオ・ミックスに馴染んだ身としては、あまりレアではない。
逆に、CDのステレオ・ミックスのほうを聞いたことないのだ。
それじゃあ、ミックスの違うCDヴァージョンのステレオはどうなんだと思うのが人情である。
妙な違和感のないミックスだったら、モノラルよりいいかもしんないではないか。

スタジオ・ワークに懲りまくった『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』『マジカル・ミステリー・ツアー』はどうか。
さすがにもう60年代後半の作品でもあるし、ちゃんとしたステレオ・ミックスもされていそうだし、モノラルよりステレオのほうがいいに決まってる…そう思っていたのだが、あに図らんや。
やっぱりモノラルのほうがいいのである。
『サージェント・ペパーズ』に関しては、違う作品に聞こえるほど印象が異なっていて、これまでの「ちまちまと細工を施したサウンド」という作品観を吹き飛ばしてくれた。
これはほんとに聴いておいてよかった。
「モノラルで聴いてこそ、あなたは本当に『サージェント・ペパー』を聴いたことになる」(ジョージ・マーティン)という宣伝文句は本当だった。
「ア・デイ・イン・ザ・ライフ 」の後半部分の盛り上がりなんてステレオならではだろうと思っていたのだが、モノラルのほうが迫力を感じた。
いや、音が太ければいいのかと突っ込まれそうだが、そういう好みなんだからしょうがない。
単に音の印象が違うだけでなく、モノラルとステレオでは曲によってピッチが違ったり、曲のつなぎが違ったりするわけで、ミックスが違うというより「ヴァージョン違い」なわけだが、そのへんは研究本などに詳しい。
モノラル盤に限った話ではないが、CDで聴いたのは初めてなので、最後のおふざけ(サージェント・ペパー・インナー・グルーヴ)が繰り返し入ってるので驚いた。
『マジカル・ミステリー・ツアー』に関しても同様だが、たとえば「フール・オン・ザ・ヒル」のように管楽器が多用されていている曲は、ステレオのほうがよかったかな。

実質的に最後のモノラル・ミックスのオリジナル作品『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』はどうか。
う〜ん、曲にもよる、かな。
けど、全体的にはステレオのほうがいいかな。
このアルバムの途中から8トラックでレコーディングされ、ステレオ主眼でミックスされた(異説あり)そうなので、そのせいもあるだろう。
たとえば「バック・イン・ザ U.S.S.R.」から「ディア・プルーデンス」への流れはステレオのほうが美しい。
「レヴォリューション9」なんて、やっぱりモノラルでは魅力半減である。
でも「グラス・オニオン」「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン 」「ヤー・ブルース」なんかはモノラルのほうが力強くていい。
また『サージェント・ペパーズ』同様このアルバムも 曲によってはステレオとモノラルでヴァージョン違いと呼べるほど細部が異なっている。
ステレオ・ミックスはアナログ盤でしか持っていないので、ステレオ・ミックスのCDで聴いてみたい。

『イエロー・サブマリン』のモノラル盤は「ステレオ・マスターをそのままモノラル化しただけのもの」らしいし、ももともと制作時期の違うナンバーを寄せ集めたアルバムである。
今回の『MONO BOX』にもアルバム単位では収録されておらず、コンピレイションの『モノ・マスターズ』に4曲収録されただけである。
「ヘイ・ブルドッグ」なんかはステレオがいいかな、
なお『モノ・マスターズ』収録のシングル曲は、もともとモノラルを想定してミックスされているだけに、やはり総じてモノラルがいい。

というわけでほんとに買ってよかった『MONO BOX』だが、こうなると聴いたことのないステレオ・ミックスを聴きたくなるし、アナログ盤のステレオと同じミックスでもCDで欲しくなるってもんである。

ところで『MONO BOX』で初期〜中期のザ・ビートルズを聴き直して思ったこと。
「こんなにタンバリンがシャカシャカ鳴ってるバンドだったったか!?」

付記:
マニアが「ビートルズを聴く」ってこういうことです。
www.bounce.com/article/article.php/5472/ALL/
鈴木慶一も全アルバムを揃えていなかったんですね。

フリー・ソフトウェアとしての平沢進

「ASCII.jp」に、四本淑三による平沢進インタヴューが掲載された。

ソロデビュー20周年記念・平沢進ロングインタビュー【前編】
「私は平沢進だぞ。平沢唯じゃない」 本人に聞いてみた
ascii.jp/elem/000/000/482/482115/

ソロデビュー20周年記念・平沢進ロングインタビュー【後編】
平沢進が語る、音楽の新しいスタンダード
ascii.jp/elem/000/000/484/484998/

近年の平沢進の立ち位置や態度というものを知るうえで格好のインタヴューであり、類がないほど優れた平沢分析になっているだけも素晴らしいのだが、既存の音楽産業の問題点やネットを中心とした新しい音楽シーンを知るという意味では、平沢進に興味のないひとも読むべきテキストになっている。

そこでちょっと便乗する形で、インタヴューでもキイ・ワードとなっている「フリー・ソフトウェアとしての平沢進」について少し書いてみたい。
「フリー・ソフトウェアとしての」といっても、平沢進は音楽そのソースコードにあたる出力前の音楽データを公開しているわけでもないし、GPLやCCに則って音楽配信しているわけでもない。
再配布や改変については(建前上は)制限が加えられている。
だから、ここで言うのはもちろん厳密な言葉の意味での「フリー・ソフトウェア」ということではない。
ここでフリーでオープンというのは、態度や心意気の話である。
だからこそ、書籍『音楽産業廃棄物』のP-MODEL篇を「Open Source」と名付けた。

さらに、ここに「ハッカー・スピリット」という言葉を加えてもいいだろう。
「必要なら、ないものは作っちゃう」「とりあえず用が足りればよい」という感じでガシガシやっちゃう「hack」という言葉のイメージはここらへんをご覧いただきたい。

山形浩生 Hackについて
cruel.org/freeware/hack.html

平沢進のハック精神を知るために、ちょいと82年にまで遡る。
このころ平沢は、自作サンプリング・マシンの「ヘヴナイザー」をP-MODELのライヴで使っていた。
ヘヴナイザーは83年リリースのP-MODEL『不許可曲集』や84年リリースの旬「(I)-Location」などの作品でも使われ、業界関係者から「平沢は宝くじに当たったに違いない」とウワサされたそうである。
当時、サンプリングマシンはジ・アート・オブ・ノイズなどのサウンドで知られるようになったが、数100万円〜1000万円もする高価なシロモノで、平沢進にそんなものを買う金があるはずもなく、徳間ジャパンにもそんな機材を買う資金はないだろうから、いったいどうやってあのサウンドを作ったのだろうといぶかしく思ったというわけだ。

ご参考
www.asahi-net.or.jp/~AH9Y-NKJM/NAIYO/comment/text_e.html

つまり、そのサウンドを聴いた者は、イミュレータだのシンクラビアだのを使ったのかと思ったわけだが、もちろん実際にはヘヴナイザーに同等の機能があったわけではない。
エヴァンスのテープ・リヴァーヴの消去ヘッドにオン/オフのスウィッチをつけ、シンセサイザーのゲートブロックを通したというシロモノで、デジタルなサンプリング・マシンよりはむしろメロトロンに近いアナログ機材だったわけだ。
しかし、ここで重要なのは、貧乏を努力と創意工夫で乗り越えたということではない(笑)。
自分の望む効果さえ得られれば、あり合わせの素材でかまわない、という態度である。
そのうえ世間を騙せたら愉快というひとの悪さ。
これは今まで続く平沢進の一環した態度である。

──ライヴではデジタルのシーケンサーは使ってなかったんですか。
中野 持ってなかったんじゃないかな。シンセサイザーに内蔵の簡単なものはありましたけど、それをドラムと同期したりするっていうことはなかったです。「カルカドル」のイントロとかはテープでしたよ。
高橋 「OH MAMA!」とか。
中野 「OH MAMA!」はすごかっただろう。間奏の女性コーラスの部分って、カセット・テープのポン出しなんですよ。同期もなにもしてないんですよ。高橋くんが演奏しながらやってるんですよ。頭出しも勘なんですよ。シーケンス的なものも手弾きでやったりとか。私なんか「おやすみDOG」の16ビートの単調なフレーズを、ずーっと生でやってましたから。
高橋 今だったら、シーケンサー使ってなんとなくやってるところを、全部肉体労働でこなしてたんですよね。
中野 でも、あれは必然です。P-MODELは、今ある機材や素材の中でやりくりするっていう。原始的だし、乱暴だし、それを疑いもしないし。そこがよかったのかもしれないんですけれども。
──あ、基本的な発想がね。なければ作るとかね。
中野 自作派ですね。なきゃ作るっていうのは、いい考えですよね。
高橋 長ーい30mのMIDIコードとかも必要で、でも売ってなかったりするじゃないですか。そういう時って3人で半田付けしてたりとか。
(書籍『音楽作業廃棄物』中野テルヲ/高橋芳一対談より)

インタラクティヴ・ライヴにしろ、ソーラー・ライヴにしろ、広告代理店が入り、巨大スポンサーがついて、金に糸目を付けずに、機材やスタッフを使いまくってやったとしても、それは意味がないことだと平沢はよく言う。
リスナーに「自分にもできる」と思わせないと意味がないのだと。
初期のインタラクティヴ・ライヴなんて、コンピュータの素人である平沢が自分でスクリプトを組んでAmigaにやらせたわけだが、スポンサーの名乗りを上げた某有名国産コンピュータ・メーカに対して平沢が「同じことできますか?」ときいたところ、うなだれて帰っていったそうである。
しかしながら、平沢リスナーは、自分たちなりに「似たこと」ができるようなシステムを考えて、インタラクティヴ・ライヴの「コピー」までやってしまったのだ。

すべてそうだなのだ。
なるべくなら民生機を使って、なるべくならプロ用機材を使わない。
なるべくならフリー・ソフトウェアやフリーウェア、無料のサーヴィスなどを活用したい。
こういう姿勢はほんと変わらない。

だからこそ、以前のインタラクティヴ・ライヴはPeerCastでP2P中継したし、今年はUstreamやStickamでライヴ中継し、Skypeを使ってユーザをつないだ。
オフィシャル・サイトの構築に XOOPS Cube や WordPress, ZenCart といったフリー・ソフトウェアを使っているのもそのためだ。
やろうと思えば、誰だって投稿サイトやSNSを利用するなり、自分でポータル・サイトを作るなりして、音楽配信なんてできるのである。

ハードディスク・オーディオ・レコーダが民生機となった時点で、ローランドのVSシリーズ(Digital Studio Workstation) を導入し、プライヴェート・スタジオでの制作に完全にシフトした。
音が悪いと言うリスナーもいたけれども、MP3にしてもなんにしても、平沢はツールとしてそれらを使うことに意義を見出していた。

Amigaのシーケンス・ソフトの Bars&Pipes は現在オープンソースのフリー・ソフトウェア BarsnPipes として配布されているが、自ら「フリー・ソフトウェアで作曲するプロ・ミュージシャン」と平沢は誇らしげに語る。
さすがに音源ソフトやDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)はプロ用を使っているが、素人で手が出ないというほどではない。
そして、プロ用機材や高いソフトウェアを使用する時、平沢は恥ずかしそうにする。

冒頭で掲げたインタヴュー記事で平沢進は自己分析して次のように語っている。

  • 音楽の「資本主義と相容れない性質」をある程度、体現できているということです。
  • 平沢は「管理された商品」に見える一方で「フリーウエア」にも見えるという矛盾。ここにそういう現象の芽があると思えますね。
  • そういう質感を持たなけりゃいけないんだよね、ミュージシャンは。

そうした「平沢進像」を作り上げているひとつの要因が、ここまで書き連ねてきた平沢進の態度である。
フリー・ソフトウェアやオープンソースといった概念は、90年代までは、空想的社会主義のような理想主義と見られていたはずだ。
しかしながら、現在では従来の資本主義的ビジネスモデルを根底からひっくり返すような革命を起こしてしまった。
もはや、パッケージ・ソフトを売るだけの商業形態は半ば崩れてしまっている。
これは音楽についても同じである。

MP3配信を始めた当初、平沢進は「昔ならたくさんの血が流れたような劇的な変化が、ネットのなかでは無血で静かに進行している」と語っていた。
そうした変化を音楽シーンに波及させてしまった一端を、平沢進は確実に担っている。

なお、文中ではわざと「フリー・ソフトウェア」と「フリーウェア」をごっちゃにして書いたが、本来は違うものです。

ザ・ビートルズの MONO BOX を買った「言い訳」

とうとうザ・ビートルズのリマスタを買ってしまった。
ここでその言い訳をしたいと思う。
なぜ言い訳が必要になるのかという疑問を感じる向きはあまり読んでも意味はない、と最初に断っておく。
また、サウンドそのものの話は出てこないので、そっちを期待された向きも読んでも意味はない、とこれも断っておく。

ご存じのようにザ・ビートルズのデジタル再リマスタに関しては賛否両論ある。
わたしはどちらの立場でもないが「やや反対派寄り」で筒井順慶を決め込んでいた。
音も含めて判断するには結局、自分で買って聴くしかないわけだから、作品を聴く前の段階での買うべきか買わざるべきかという議論というのは、作品自体の善し悪しではなく、いわば「態度」の問題である。
この「態度」というのは、ザ・ビートルズに対する態度でもあるし、こうしたリイシューもの全体に対する態度でもある。

いちばんシンプルな問題としては「ビートルズをいい音で聴きたいか?」ということだ。
そりゃあいい音で聴きたい、というシンプルな答えもあるだろうが、ザ・ビートルズが作品をリリースした時点の音楽再生環境を基準に考えるなら意味がない、という答えがリアルタイム世代を中心に返ってくる。
それに対しては、ザ・ビートルズはほんとうの意味での新作が出るわけはないのだから、リマスタも別な作品として楽しめばいいではないかという意見。
今回のリマスタはアナログ盤のサウンドに忠実にリマスタしたわけだからいいではないかという意見。
いろいろある。
自分自身はリアルタイム世代ではないが、やっぱり「ビートルズの音」はAMラジオが似合うと思うし、アナログ盤から出る音だと思う。
といっても、べつに強固なアナログ音源主義者というわけでもないし、手軽にCDで聴ければいいじゃん、という適当な立ち位置ではある。
しかし、こういう再リリースは、なんかこう、騙された気がしていやなんである。

そもそも、貧乏性であるわたしは、アナログ盤からCDへの買い換えだってほとんどしていないのだ。
CDが発売された当初、おぼこい学生であったわたしは、レコード・メーカはアナログ盤を引き取ってCDと交換してくれると思っていたくらいである。
無料は難しいかもしれないが、ある程度の手数料を支払えば交換してくれるようになるに違いないと本気で考えていた。
大笑いな話ではあるが、この考え自体は間違ってはいないと今でも思う。
だってそうではないか。
ハードウェアの仕様を勝手に変更し、これまのでのソフトウェアを実質的に使えなくしておいて、そのコスト負担をすべてユーザに押しつけ、メーカ側は責任をまったく取らなくてもいいというのは、ほかの業界では考えられないことだ。
特に日本の音楽産業ではハードウェア・メーカとソフトウェア・メーカは系列企業として一体化しているから、こういうゴリ押しがユーザ無視でまかり通りやすい。

そういうわけで、ビートルズのオリジナル・アルバムはアナログ盤では持っているけれども、CDでは持っていない。
赤盤青盤のようなベスト、パスト・マスターズやアンソロジー・シリーズのようなCD時代になってからリリースされた作品しか、CDは持っていない。
アンソロジー・シリーズやBBCセッションも、嬉しい音源ではあったけれども、メーカ側の態度に、ビートルズ作品に対する愛情よりもユーザを食い物にしようという魂胆のほうが透けて見えていやな気分はした。
それでも未発表音源であるから致し方ない。

しかし、今回は既発表もいいところのみんな知ってるオリジナル・アルバムの再リマスタである。
いろいろ理由付けはあるけれども、商売の臭い、ビートルズやリスナを食い物にしようとする態度が濃厚に漂っている。
もちろん実際にリマスタリングしたエンジニアの仕事を否定しているわけではない。
それを売っている側である。
それが端的に表れているのは、やはり「値付け」である。

日本版のボックス・セットは、通常のステレオが35,800円、限定版のモノラルが39,800円である。
ステレオのボックスはCD1枚あたり2,237円、オマケのDVDを計算に入れても2,105円、単品CDだと1枚2600円だ。
amazon.co.jpの割引価格だとステレオのボックスは29,369円だが、それでも1枚あたり1,835円、DVD加算で1,727円である。
モノラルは単品CD未発売で、特典CDを加算してもモノ・ボックスのCDは1枚あたり3,061円である。

ザ・ビートルズの作品そのものの「価値」を値付けするならば、1枚が1万円でも10万円でも100万円でもいいだろう。
だが、ザ・ビートルズの音源は1点物のファイン・アートではない。
複製を前提としたポップ・アートだ。
しかも、手刷りのシルク・スクリーンでもリトグラフでもないし、オリジナル・プリントの写真でもない。
工場でプレスする大量生産品である。
そして、ザ・ビートルズは世界で最も大きなマーケットをもっているバンドだ。
単純に商売として考えたって、薄利多売したほうが総利益は高いはずである。
実際、アメリカのアマゾンではリマスタ盤が1枚12.99ドルで売られている。
しかしながら、少なくとも日本でザ・ビートルズのアルバムが1枚1000円とか1500円とかで売られた記憶はない。
日本のレコード/CDの価格設定に関しては今さらここで書いてもしょうがない根が深い問題なので、これ以上書かないけれど、売上減に対してCCCDなどというバカなもんを作って対抗しようとした連中の罪深さは忘れないでおきたい。

さて、そういうわけでザ・ビートルズのリマスタを買うか買わないかであるが、結局、限定版の『MONO BOX(The Beatles In Mono)』だけ海外版で買うことにした。
その理由というか言い訳。

1) ビートルズのオリジナル・アルバムをCDで持っていない
2) アナログ盤はいい加減すり切れて音質劣化も甚だしい
3) 携帯プレーヤで聴きたい
4) モノラル版CDは今後入手できるかどうかわからない(というメーカ側の脅し)
5) ステレオ版リマスタはどうせ次世代規格で再リリースされるし、いつでも買える
6) モノラル版は『フォー・セール』までアナログ盤で持っているけど『ヘルプ!』以降は持っていない

最大の理由は(2)で、実はモノラルのアナログ盤は10年くらい前にデジタル・リマスタリングされたパーロフォン版の再リリースを輸入盤で持っていたりするのだが、今回のリマスタのニュースを知って久しぶりにターン・テーブルに乗せてみて愕然としてしまったのだ。
買った当時はCD不要と思うほどの高音質かつモノラルで聴く初期ビートルズの迫力に圧倒されたが、無惨に劣化してしまっていた。

限定版と言いながら生産し続けられる可能性や再リリースされる可能性もあるが、これまでザ・ビートルズの限定企画ものは実際にあとで入手するのが難しかったりするので、今後どうなるかはわからない。
日本版では対訳やら解説やらもつくし、ビートルズ・クラブの仕事ならいいのかもしんないけど、上記理由と価格でパス。
Amazonでアメリカ版を買うことにする。

『MONO BOX』は、amazon.comで199.9ドル、送料込みでも207.97ドルだ。
昨今の円高のおかげで、カードの請求によると18,577円(1ドル=89.33円換算)であった。

日本時間で12/10の朝に購入し、翌12/11朝に発送された。
注文時には「Standard便だと1/26着予定で、ぜーったいにクリスマスまでには届かないからな」と、なん度も英語で警告されたが、いくらクリスマス前の繁忙期とはいえ、船便じゃないんだから10日もあれば普通は届くよな、と思ったら案の定、12/19の朝に届いた。
ラベルには「International Surface Airlift」と書いてある。
USPSはよく使ったけど、これは初めて見る。
国内は陸便で国外は航空便という、日本で言うところのSAL便のようだ。
関税500円、通関200円也。
USPSで発送された場合、値段に関わらず関税は取られないことも多いが、今回はハズレというかアタリ。
トータルで19,277円也。
クラフトワークのボックスは「デカい」と評判だが、郵便屋から手渡された第1印象は「ちっちぇなあ」だった。
すこし段ボール箱がへしゃげていたのが気になったが、中身は問題ない。

この文章を書いて気分がすっきりしたので、ようやくパッケージを開けてみることとしよう。
音の話は…気が向いたら書くかもしんない。


2010/03/15追記

Amazon.com で MONO BOX は159.57 ドルまで下がってた。
限定版とか言いながら在庫がだぶついてるのか、STEREO BOX より安い。
悔しいので記しておく。

ここにも20周年あり

昨10月4日、Theピーズの「ONE MAN LIVE 2009 at 赤坂BLITZ」を観てきた。
大きめの会場でのワンマン・ライヴは年に1度くらいなので、なんだかTheピーズのライヴを観に行くのも年中行事化してきた。
そのくせまったく「予習」をしていなかったので、物販コーナーを覗こうとするが、長蛇の列。
ブリッツの物販コーナーは、ロビーなんかの仮設のものとは違って、常設の売店みたいになっており、会場外にある。
間口が狭く、列の後ろからはぜんぜん商品が見えないし、入場後に開演までの時間つぶしに眺めることもできない。

Theピーズのライヴで初めて椅子席を選んだ。
数少ない2階席は根性なしのロートル・ファンが占めるのだろう。
会場では、ずっとヴェルヴェッツが静かに流れている。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとTheピーズの取り合わせは妙だなぁ、とか、ジョン・ケイルのライヴを九段会館で観たのはいつだっけ、とか思いながら、しみじみ20分。
「オール・トゥモロウズ・パーティーズ」がフェイド・アウト、爆音でザ・ビートルズの「ミスター・ムーンライト」が鳴り響き、3人が登場。
リマスタ記念か十五夜記念か、Theピーズらしからぬカッコよい登場、と思ったら、はるはいきなりだらだらしゃべり始めたりたして、ぜんぜんキマらない。
さすがTheピーズ。
いつもの競馬ネタから「耳鳴り -殉職バージョン-」でスタート。
やっぱり、ここは音がいいなあ。

自分がほぼホール中央といういいリスニング・ポジションにいたことと、サウンド・エンジニアの腕もあるだろうが、低音から高音までバランスがよく大音量で耳に痛くない。

と、同じ赤坂ブリッツでのTheピーズ・ライヴについて去年書いたけれど、2階の上手寄りで聴いても、いい音だった。
ドラムの音は迫力があるのに、ヌケがよくクリアで、フロア・タムの音は和太鼓のように響く。

Theピーズは今年デビュー20周年だが、2年前に結成20周年を大々的に祝ったので、この日はいつもの普通のライヴ。
ゲストでテンガロン・ハットのウルフルケイスケが登場したが、単に遊びに来たノリっぽかった。

EP「’09初夏盤」が発売になっているのを知らなかったが、初聴ながら曲紹介のあった「ロンパリンラビン」「絵描き」「初夏レゲ」はすぐに耳になじんだ。
「初夏レゲ」はトモフスキーも参加しているのか。
さらにCD未収録の新曲なんかもあったりして、やっぱりTheピーズはライヴだよなぁ、などと思う。
この日はお祭りではなかったので、最近の曲が中心だったが、アンコールでは「Yeah」なんかもやったりして、2階から見たフロアは大揺れ。

Theピーズはチャートの上位に入るようなバンドじゃないし、活動休止期間もあった。
それでも20年間にわたりこのクラスの会場を常時満員にするようなパワーは持続しているし、CDの売上では計り知れない影響力がある。
近年はメジャーとインディーズをうまく使い分け、彼らに合ったマネジメント・スタイル、ビジネス・スタイルがうまく機能しているように見える。
(実際にバンドだけで食べているかどうかはわからないが)
Theピーズのサウンド自体はデジタルと無縁でも、音楽制作/製作の低コスト化にデジタルは寄与しているはずだし、そうした彼らの活動を支えるひとつのツールがインターネットであったりする。
今だからかこそ、こうしたスタイルでバンドを維持できるんじゃないかと想像する。
インターネットって、中小零細企業とか、老人とか、地方とか、マイナー・ミュージシャンの味方なんだよ、ほんとは。

たまぶくロカビリー倶楽部

言葉の力 (ii)

オウム真理教が社会問題化していたころだから、もう10年以上前になるだろう。
当時、オウム関連の報道で頭角を現していた新聞記者上がりの自称フリー・ジャーナリストが、TVで「私は自分の目で見たことしか信じない」と言っているのを観て「正気か!?」と思ったことがある。
メディアを通じて表現している者とは思えない自己矛盾も甚だしい思い上がりだ。

確かに、メディアを通した表現というのは、フィクションもノンフィクションもドラマもドキュメンタリも、等しく虚構性を帯びる。
メディアを介した情報というのは、すべて虚構だと思ったほうが健全である。
しかし、自分で直截見聞きした情報に虚構性がないかと言えば、肉体というメディアを通じている以上同じであるし、人間は自分自身を認識するのでさえ、言葉というメディアを介さなければならない。
情報というのは、すべて虚構であると思ったほうがより健全である。
結局、そうした情報=虚構をどう処理し、判断し、コミュニケートするか、ということでしかない。

twitterというメディアが面白いのは、なぜわかりきった自己の行為をわざわざ書くか、ということである。「日記」と言うには短すぎる日々の断片や行為の断片の記述。もちろん「フォロー」による他者とのコミュニケーションもあるだろうし、使いようによっては、ジャーナリズムとして機能させることも可能だ。
しかし、そうしたシステムに先んじてあるのは、自己とのコミュニケーションである。自己の相対化、意識化という点でtwitterには意味がある (このあたり、橘川幸夫vs田口ランディのトーク・ライヴでも話題に上ったらしい)。

メディアとはなんなのか、コミュニケーションとはなんのか、ということを少しでも考えたことがあるならば、自分の見たことしか信じないなどという妄言を吐くことはできないだろう。人は虚構を信じ、虚構を通じてコミュニケーションすることでしか、生きることはできない。もし虚構を否定するならば、そこには果てしない孤独が広がっている。

自分の目だけを信じる、と言ったところで、実はそこに根拠なんてないのだ。
『マトリックス』でも観るといい。
他人の目を信じ、耳を信じ、皮膚感覚を信じ、言葉を信じる、という代理体験のための一種の「契約」みたいなものがなければ、メディアは存在し得ない。
自分自身で世界中をくまなく旅することは不可能に近いし、歴史的な体験となっては完全に不可能である。
しかし、それを可能にしてくれるのがメディアだ。
他者=メディアを信じるからこそ、図書館だって、インターネットだって成り立つ。

恥ずかしながらネタばらしすると、自分のこうしたメディア認識に最も影響を与えたのは、30年前に読んだ渋谷陽一の初単行本『メディアとしてのロックン・ロール』(ロッキングオン増刊/79年)であったりする。恥ずかしついでに引用してみよう。

 人間は常に自分自身を特殊化したがる。限られた生のなかで所有する事のできる肉体はひとつだけであり、精神もひとつだけである。それを特殊化するなと言う方が無理かもしれない。
(中略)
 しかし人は特殊化と絶対化の中でのみ孤独なのだ。
 特殊な40億の個は、孤独な40億の個であり、相対化された普遍的な個は、何十億あろうとも個である限界を超えている。すべての表現者の努力は、その普遍的な個を獲得する為の闘いでもあるのだ。そしてメディアとはその最も有効なる最終兵器である。

さらに引用を続けよう。

 我々は1冊の書物によって、その書き手と何十年も共に暮らした人より深いコミュニケーションを得ることが可能である。自分自身の経験からも、優れた表現者との本当の出会いは、その人と具体的に知り合うことではなく、その人の表現と出会う事でだと断言できる。それは身近な他者においても同じである。
(中略)
 僕はロッキング・オンのスタッフである岩谷、橘川、松村と長い間共に仕事をしてきたし、友人としてもつきあってきた。しかし、3人の精神の核に触れたと実感できるのは彼らの文章を読んだ時である。まさにその事によってのみ僕は読者と対等なのである。メディアにおいて受け手と送り手とが対等であるとはそうした事であり、これは表現の基本構造であり、コミュニケーションの基本構造でもある。
(渋谷陽一/メディアとしてのロックン・ロール 4 より)

先の投稿で弟のことを書いたのは、なにもいい話にまとめようとしたわけではなく(笑)。実はそういうことを言いたかったわけだ。
さらに言えば書籍『音楽産業廃棄物』も編集方針も、実はそういうところにあったりする。

P-MODELデビュー20周年の一大イヴェント“音楽産業廃棄物”から10年。
この9月から1年間にわたる平沢進SOLO20周年/P-MODEL30周年記念イヴェント“凝集する過去 還弦主義8760時間” スタートした。
自分のこのイヴェントに対するスタンスも、やはり10年前と同じようなものである。
ある1曲、ある1枚のアルバムを前にした時、そこには聴き手のキャリアもバックボーンも関係のない、普遍的なコミュニケーションがあるはずなのだ。

言い忘れたこと

だからさ、いつも言ってるでしょ。
「日食」じゃあ、日本食堂の略だって。
まあ、今は日本レストランエンタプライズとかってわけのわかんない会社名に変わったから、国鉄民営化後世代には馴染みはないだろうが、昔は世界一不味くて高い親方の日の丸レストラン・チェーンとして名を馳せていたんだから。
と思って検索したら、その不味さは博物館級だったらしく、鉄道博物館に陳列されておる。
www.nre.co.jp/tenpo/16981/16981menu.html

ということはどうでもよろしい。
戦後の造語であるところの「日食」はキモチワルイという話だ。
この代用漢字というやつほど気持ちが悪く、罪深いものはない。
これならまだ「日しょく」とか開いたほうがまだマシだ。
いや、これも相当に気持ち悪いな。
潔く「にっしょく」としていただきたい。
だいたい「むしばむ」と「くう」じゃ、ぜんぜん意味が違うでしょ。
なのに音が同じというだけで用字を変えるなんて乱暴過ぎる。

そういえば昔の衛星放送はTV欄に「食のため放送休止」とかって書いてあって、まじめに「職員の食事休憩」かと思ったものだが、あれは「蝕のため」なんだよな、天文用語の。
間違った用字が誤解を生む好例だ…違うか。

そもそも国家が言葉の成り立ちを無視し、国民に誤った知識を押しつけようとしているのだから犯罪的だ。
そのお先棒を担ぐ大手マスコミはマスゴミと言われてとも仕方あるまい。
長年の歴史のなかで言語の使用者が誤用を重ねて、意味や表記が転じていくのは言葉の必然であるが、かようにして国家規模の策謀で言語を破壊した例はない…というのは大嘘で、おとなり中華人民共和国の漢字事情はもっとひどいが、他所の国だからほうっておく。
というわけで2132年になったらまた怒りたいと思う。

そういえばNEWSのほうには書いておいたけど、平沢進のアルバム『SIREN』と『救済の技法』がボーナストラック入りのHQCDとして再リリースされた。
HQCDと似たようなものにSHM-CDというのもあるらしいが、どちらも聴いたことがないので、音質についての言及はできない。

UHQCDプロモーションWEB


columbia.jp/hqcd/
shm-cd.co-site.jp/

記録方式の違いではなく、記録メディアの品質の差ということだが、それで果たしてどれだけ音質の差が出るのか。
眉唾とまでは言わないが、それなりの再生装置がなくては差がわからないであろうというのは想像に難くない。
次世代CDの規格がDVDオーディオとSACDに分かれてぜんぜん普及しないってのがこういうよくわからんメディアの出てくる原因なのだろうが、DVDオーディオとSACD、どちらにしろくだらないコピープロテクトはかかってるわけで、DVDビデオ同様に「再生の自由」すら保証されていない。
私的複製権なんてもってのほか、勝手に再生しただけで泥棒呼ばわりのメディアなんて、なんだかなあ、もういいよ、という気がしてくる。
いずれにしても聴いたことがないものの話題は広げようがないので次。

P-MODELのアルバム『舟』が「オンデマンドCD」で出た。
条件付ではあるが、これはけっこういいことなんじゃないかと思う。
そもそもCDというメディアはオンデマンドに向いているにも関わらず、なんで昨年になってようやく商品化されたのだろう。
ぜんぜんオンデマンドに向いていない出版(書籍)の分野のほうが昔からオンデマンドに熱心だったのだから不思議だ。
いや、不思議ってことはないんだけど、出版界以上に音楽界がダメってこったろうなあ。
そもそも今は各社がこぞって参加している音楽配信事業だって、10年前は「つぶしちゃえ」というのが業界の趨勢であったのだ。
オンデマンドCDというのも、そういうダメな業界が死蔵しているコンテンツをなんとかしようとようやく考え始めたということの表れだろう。
単にごく一部の社員の気の利いたアイディアかもしれないし、TV放送のオンデマンドに触発されたのかもしれないけどね。

書籍に限らず、映像や音楽を含めた広義の出版(プレス)界全体に言えることだが、増刷(再プレス)しないくせに権利だけは死んでも手放さないため、コンテンツが世の中に出回らずに死蔵されるというケースは多い。
権利は手放したくないけど、少数を売ってもペイしないからプレスしない、というのは企業の論理としてわかる。
しかし、ならば、ほかで製品化したいという時には出版権なり原盤権なりを貸してやりゃあいいじゃないかと思うが、法外な値段をふっかけて、話をつぶしてしまう。
これでは権利を有する側、借りる側、どちらにとっても損になるはずなのだが、コンテンツの「相場」を崩したくないのだろうか。

このような得をするわけでもない企業のよくわからない事情によって死蔵されたコンテンツは数多く、動画投稿サイトが救済の場になっていたりするから皮肉なものだ。
違法コンテンツだらけの動画投稿サイトにおいても、暗黙の諒解、暗黙のルール、一種の「仁義」として、製品化されていて入手が容易なものはアップロードしない、ということがあるようだ。
金を出せば手に入るコンテンツをアップロードするやつも、タダで欲しがるやつも軽蔑される。
ちょっと屈折したモラルのようなものがある。

というわけで、死蔵されるくらいなら、こうやってオンデマンドでプレスしてくれるほうがありがたい。
ただ、ここから一歩進んで、CDオーディオのISOイメージをダウンロード販売してくれれば、販売する側も購入する側ももっと手間がかからず簡単に済むのにな、とは思う。
LinuxなどOSの配布は今やDVDのISOイメージのダウンロードが一般的であるし、DVDビデオなんかもISOイメージによる販売が行われている。
なぜにCDだけこのような販売形態を取れないのか謎だが、10年前は「MP3はそれ自体悪」としていた業界であるからして、コピープロテクトをかけられないとか、じゃんじゃん焼かれて売られては困るとか、いらんことをいっぱい考えているのだろう。
オンデマンドCDが出てきただけでもマシである。

そうこうくだらないことを言っているうちにブラザーのプリンタ複合機が壊れてしまった。
ほんとに故障は呼応する。
困ったもんだ。

ということではなく、話は「ネットブックは100円PCじゃない」という方向へ向かうのだが、長くなりすぎたので、また改めて。

壊れた・その後

今年はずいぶんと早く梅雨明けしたらしい。
わたしは一般的な人間なので梅雨は嫌いだが、梅雨が明けて嬉しいかというと、あまり嬉しくない。
梅雨よりも嫌いな真夏がやってくるからである。
気温が30度を超えるとてきめん、体調が悪くなる。
つまり夏の間はずっと体調が悪いということになる。
いや、温度より湿度、ヒートアイランド現象特有の不自然な熱気がいけないのかもしれない。
ヒートアイランド現象を悪化させる鬱陶しい真夏のスーツ&ネクタイがクールビズとやらで多少は減少してくれたのはせめてもの救いか。
とにかく、6月中旬から9月中旬までの3か月はなくしてもらっていっこうにかまわない、とさえ思う。
いや、この3か月は自分のほうが消えて、北海道で過ごせばよいのか。

ということを毎年言っているが、3か月が消えてなくなってくれることはないし、北海道で3か月を過ごす算段もまだないので、話題は変わる。

修理に出したポータブル・カセットテープ録再機、端的に言うところのウォークマン・プロは、案の定、部品がなく、修理不能で工場からサーヴィス・センタへ戻されてきた。
引き取りに行くのも面倒なので処分してもらおうかと思う。

買ったばかりの椅子は、リクライニングのロックに不良があることがわかったが、購入店に電話をすると、翌日には新品と交換してくれた。
交換にきてくれた営業マンは、仕事熱心なのか、会社のWebページを見て営業内容のチェックをしてから来たそうだが、もしかするとこのページも読んでいたのかもしれない。
だとすると対応がよかったのも頷けるな、もっと褒めておこうか、などと嫌らしいことを考えたりして。

このエルゴヒューマンという椅子、買った当初は腰が痛くなってしまい、こりゃあ失敗だったかと思ったが、失敗だったのは椅子のチューニングだったようで、いろいろといじくっているうちに身体にフィットするようになり、腰が痛むなどということはなくなった。
今のところ快適である。
調整機能の豊富なのがウリではあるが、逆に言えばチューニングの幅が大きく、それによって身体に合う合わないも出てくる。
もしかするとチューニングに失敗して悪い椅子だと決めつているユーザもいるかもしれないので、メーカや販売店はそこらへんをもっと叮嚀に解説してはどうかと思う。

そういえば、ぜんぜん関係ないけが、twitter には「スパム・フォロー」ってのがあるのね。
自ら体験して初めて知った。
twitter は Ustream とか echo とか Dropbox とか、連携したサーヴィスのほうで知ったクチだが、どうもあの Mac臭さが鼻について馴染めなかった。
のであるが、最近、知人に勧誘されてしまい(宗教かよ)登録してしまった。
こういうショーバイをやっている以上、なんでも試してみたほうがよいとは思うだが、新しいメディアにはどうも構えてしまうのだな。
態度を決めかねているものに関してはあまり発言したくないので、このへんで終わり。

周年 その2

「周年」というタイトルで期待して読んだら椅子の話でがっかり、という方もいるかもしれないので、一応書いておこう。
そう。
2009年は「P-MODELデビュー30周年&平沢進デビュー20周年」なのである。
というよりも、個人的には「音楽産業廃棄物10周年」という感慨のほうが強い。
「P-MODELデビュー20周年&平沢進デビュー10周年」という文章をさんざん書き散らして(散らした…は語弊があるな)から、もう10年が経ったのだ。
恵比寿の事務所が思い出されることであるよ。
まあ、それだけなんだけど。

個人的な30周年記念事業としては、消えゆくメディアに記録された重要文献を保存し直す、ということをちょっとやってみた。
平たく言うと、カセットテープやMDに記録された音源をMP3化する、という作業だ。
ベータやVHSのテープをDVD化する作業は、1度チャレンジしてすぐ挫折してしまった。
めんどくさいんだもん。
だから今回のMP3化も、たぶん挫折するであろう。
それでも、15枚ほどのMDは仕事の片手間にMP3化してみた。
MP3レコーダをオーディオ専用機につなげる方法もあるが、それでは仕事しながらというわけにはいかないし、どうせMP3レコーダでダビングしても、PCにコピーして編集することになるので、最初からPCにMD録再機をつなげてリアルタイム・エンコードしている。
ちなみに使っているレコーディング・ソフトはこれ。
Audacity
audacity.sourceforge.net/

実はわたし、MDというものを日常的に使った経験はない。
書籍『音楽産業廃棄物』の編集時に、方々から収集したレア盤やライヴ・テープなどの資料用音源を整理するためにポータブルMD録再機を購入し、その後は『太陽系亞種音』の資料用音源の整理に使ったくらいである。
P-MODELのために買ったと言っても過言ではないだろう。

そういうわけでMDはめったに使用しないのですっかり忘れていたが、手持ちのポータブルMD録再機は内蔵電池だとばかり思っていたら違っていて、実はガム型の充電池なのであった。
でもって、数年ぶりに取り出してみると、案の定、液漏れしていた。
充電池の液漏れというとAmigaのマザーボードの死亡原因の第1位だが、その心配ばっかりしていちゃだめだったのだ。

MD収録音源を劣化することなくMP3化するには、光でデジタル接続すべきなのではあるが、残念ながら手持ちのポータブルMD録再機にはアナログのライン出力があるのみである。
またこの方法は劣化がないとはいえ、アナログ同様、収録時間と同じだけの時間がダビングに費やされるわけで、めんどくさいことに変わりはない。
そこで調べてみるとやはりあるんですね、USB接続でMDのデータを吸い出せる録再機が。

ソニー MZ-RH1
www.sony.jp/products/Consumer/himd-rec/
k-tai.impress.co.jp/cda/article/stapa/29128.html

スタパ齋藤氏も大絶賛であるが、わたしの場合、ダビングが必要なのはたかだか20枚程度で、しかもマスタはほかのひとが持っている。
そのために3万円も使う気がしない。
しかし、世の中にはそうしたニッチな需要に応えるひともいるようで、オークションには1週間2000円とか「レンタル」の形でMZ-RH1が出品されていたりする。
すごいな。
ま、それさえ面倒なので借りなかったけど。

今思えば、MDなんかじゃなく、最初からMP3にしておけばよかったのだが、アナログ・プレーヤとPCをつなげたり、それをMP3にエンコードしたりするのが非常に面倒だったのだ。
当時はまだポータブルMP3レコーダはなかったし、机上でカセットテープをMDにダビングするのですらめんどくさかったんだから。

今回はなんか「めんどくさい」の連発だな。
さて、こんどはカセットテープのMP3化でもしようかな、と思ったら、テープがからんでワカメになってしまった。
どうやら、かつて愛用したカセットテープのポータブル録再機も、これまた数年間使用していないうちに走行系がダメになってしまったらしい。
せっかく電池は抜いていたのに。
作業に入る前から挫折してしまったよ。