「思い出すことなど」カテゴリーアーカイブ

思い出すことなど [1]

00.

 長く耐え難かった夏もようやく、ようやくのこと、終わった。

 今敏が最後に記したウェブログ「さようなら」は、掲載から1か月で閲覧数が20万を超えている。
 あれを遺してくれたおかげで残された者たちがなにがしかをステイトメントする必要もなく、その意味ではたいへん楽をさせてもらった。
 事実を伝えるにおいて過不足なく、よく練られ、構成され、エンタテインメントとしても成立する笑いのある文章。彼の作る映画と同じ才気が感じられる。ああいうものを自称素人に書かれては自称玄人としてはたまったもんじゃないが、これも才能の違いだ、しょうがない。

「さようなら」の文章に限らず、彼の3か月はなにかにつけ「迷惑をかけまい」とする配慮と行為の集積だった。周囲の人間、そして自分自身への感謝と思い遣り。それを実現するための周到な計算と強靱な意志による実践。
 3か月という「生活」さえもまた彼の作品だった。

 それに対してなにかを付け加えたり、解説したりするのは蛇足の観を免れないが、近年の映像作品のソフトウェア化には必ずといっていいほど併録されているオーディオ・コメンタリのようなものだと思っていただければ幸いである。

01.

 呼鈴を鳴らし、鉄製の門扉をきしませながら開ける。
「いらっしゃい、きょうも暑いね」
 妻の京子さんが玄関まで出迎えてくれる。三和土に立つ彼女はたいてい裸足だ。
 居間に入ると、傾斜させた寝台で半身を起こした主(あるじ)が片手を挙げる。
「よっ、いつも悪いな」
 気分がよい時には笑って快活に、そうでなければ俯き加減で。
 この夏、幾度も繰り返された光景だ。
 陽射しを避けて薄暗くしたその空間は、高密度だが現実感は希薄だった。ふたりを残してその特別な空間から出ると自分はいつもの日常へと戻り、我に返ったようになる。
 再び繰り返すことはない現実という意味では夢と同じくはかない過去ではあるが、そこには間違いなく別の日常があった。

  観測史上最も暑かった夏は、彼の命を奪った。

02.

 前年から探していた自宅の引っ越し先がようやく決まり、準備に追われていた5月の20日。彼から電話があった。
 電話で話すような内容じゃないので自宅に来て欲しいという。仕事の話なら制作会社のマッドハウスでするだろうし、話の主題くらいは語るだろう。しかもできるだけ早いほうがいいと言う。おかしいなと思いながらも翌日15時に会う約束をした。
 新作『夢みる機械』に関する本の編集だろうか。あるいは作品制作が暗礁に乗り上げてしまってなんらかの相談事だろうか。まあ、久しぶりに一緒に食事をするのもいいかもしれんな。呑気にそんなことを考えていた。
 翌21日。昼に引っ越し先の契約を終えたあと、今家へ向かった。
 入るとふたりとも大きな円い座卓にかしこまった雰囲気で座っている。近ごろの忙しさ具合はどうだとか、調子はどうだとかいつもの挨拶に続いて、いつになく切り出しにくそうに言った。
「いや、暑いなかわざわざ来てもらって悪いな。実は最近、杖なしじゃ歩行が困難になっちゃって」
 義父が脳卒中で倒れる前に跛をひいていたことを思い出し、まさか…と思う。だが、答えはさらに最悪だった。
「おれ、膵臓癌でさ、もって半年、悪くて3か月って言われたんだ。もう骨まで転移してて、年越せそうにないんだよ」
 待ちかまえていたかのように京子さんがわっと泣き崩れる。
 なんのコントだ。一気に現実感が遠のく。

 3日前に検査結果を知らされたばかりで、まだ側近のプロデューサーである原さんにしか話していないという。2月末にライヴに会った際にも足腰が痛むとかそういう話はきいていたが、お互い40代も半ば、身体にガタが来ても不思議ではないと思っていた。
 健康診断のひとつも受けていればなどといまさらながらのつまらぬ問いを発すると、膵臓癌はたとえ健康診断を受けていても見つかりづらい癌であり、見つかった時には手遅れというケースが多いと言う。彼の場合も痛みに耐えかね、3月から5月にかけてさまざまな検査を重ね、ようやくのこと膵臓癌であると判明したそうだ。その時々で胸膜炎だの加齢による関節痛などとも言われたが、4月末には膵臓癌の疑いが指摘されて精密検査をしたらしい。

 手の施しようがないと言いながら化学療法や放射線療法を勧める医師。効果のほどを説明することもなく、それが定番のコースであり、そうするのが世の習いであるかのように話す。対して彼は「煙草が吸えない」「食事が不味い」という2点だけで入院は拒み、通院を決めたという。わたしも正しい選択だと思った。
 実はこれより先の5月6日、わたしの父が肺癌の手術を受けたばかりであった。その際に担当した外科医は予防的な放射線療法や化学療法はお薦めしないと言葉を濁しながらも言った。効果がないとは言わないが、80歳近い年齢を考えれば放射線療法や化学療法はリスクのほうが遙かに大きいということだった。
 膵臓癌と肺癌では事情が違うだろうし、年代も異なるので同列には語れまいが、治癒や延命という効果の保証はまったくなく、確実に副作用の保証だけはされている治療を受けても仕方がないだろう。

 ついては、人生の後片付けのためのサポートをしてはくれまいか、というのが彼の頼みだった。手始めに作品の著作権管理をする会社を作りたいという。
 そのくらいの手伝いは簡単にできるし、幸いといおうか、本来であれば幸いではないのだが、仕事は詰まっていない。そもそも癌にならずとも、彼くらい著作を抱える立場であれば会社を作るのは当然であり、以前からそういう話はしていたのである。
 そのほかにも、彼はあれやこれやと懸案事項や依頼事項を語り、もろもろの相談相手、コンサルタント役になってくれと言い、先々においては改めてインタヴューをし、過去の文章をまとめ、彼の人生の総決算をコンテンツ化してほしいという。わたしはもちろんすべて引き受けた。

 制作中の新作『夢みる機械』は脚本はあがっているもののコンテはまだ途中。自分が死んでしまえばどうせ制作中止になるだろうが、いまは対外的な問題もあるし、制作スタッフにも病気のことは伏せている。公表できる段階になれば、自分のサイトで闘病記を発表するのもいいかもしれない。などなど。
 ひととおり彼が話したところで、死ぬ準備も必要だけれど、生きる準備も必要ではないか、とわたしは言った。父の癌について相談した折りにさる人物からいただいたアドヴァイスの請け売りではあるが、末期癌から生還した例はよくきくし、ただ死を受け入れるのではなく、免疫力を高めるとか、毒出しするとか、やれることはやってみようではないかと。
 徒に確証もない希望を語るのはどうかとは思うが、そんな話をせずにはいられなかった。
 彼も本来は前向きな人間である。わたしの話に興味をもってくれたようだ。

 今家をあとにして駅までの道、歩きながら泣いた。
 こんなことに巻き込んでしまってすまんな、と彼は言ったし、重たいものしょわしちゃってごめんね、と京子さんは涙声だった。
 しかし、いち早く打ち明けられ、相談され、頼みごとをされたことはむしろ嬉しかったし、誇らしくもあった。彼とは30年のつきあいだが、初めてほんとうの友人になれた気がした。
 あとになって京子さんも「初めて夫婦になった気がした」ということを言っていたけれども、同じ思いがあったのだろう。

「おれ、おまえしか友達いないからさ」
 3か月の間に、そんな言葉をなん度か口にしたことがある。もちろん彼には仕事仲間はたくさんいるし、仕事を通じた友人やともに闘った盟友・戦友のような存在もいる。また、遠く離れて会う機会が減ってしまった友人もいる。しかし、身近にいる仕事外の友人、という意味では適当な人材がなかったのだろう。だからこう答えることにしていた。
「お互いさまだよ」

03.

 5月30日。晴れわたった午後。
 新宿のホテルのこぢんまりとしたミーティング・ルームで「元気と自信を注入する会」が開かれた。
 彼の病気のことを平沢さんに話したところ、ぜひ力になりたいというありがたい反応があり場を設けることにしたのだが、実はこのころには彼すでに「元気」であった。
 もちろん肉体的には元気ではないが、精神的には「ハイ」であった。
 たとえ悲観してもけっして自暴自棄になる人間ではなかったが、やれることはやる、という力が湧出してきたようだった。わたしも2冊ばかり免疫に関する本を送ったりしたが、彼、そして京子さんは文字通り必死になって癌と闘う方法を模索していた。
 標準的な西洋医学がお手上げというのなら、非標準的な西洋医学がある。東洋医学もあれば、代替医療もある。眉に唾せねばならないものも多かろうが、まさにダメモトである。標準的な西洋医学だけを信じ、伏して死を待つことはない。

 そうした彼にとってもっとも「良薬」であったのは、平沢進の音楽である。これほど生きる力を与えたものはなかったろう。そして、平沢さん自身もまた不思議とひとを元気にさせる力があった。
「癌? そんなのは風邪みたいなもんですよ。絶対に治ります」そう言って笑う平沢さんの言葉には、彼だけでなく京子さんも原さんも力づけられたはずだ。
 ああ、彼の癌は治るんじゃないかな。不思議な安堵があった。
 いや、実のところ彼の死に至る病を受け止めるには重たすぎて、助けを求めたのはわたし自身でもあったのだ。自分自身が少しでも楽になりたくて平沢さんを呼んだのだ。以来、どれだけ平沢さんが力になってくれたことか。力になる、というより、一緒に闘ってくれたと言ったほうがよいかもしれない。

 今は言った。標準ではない生き方をしてきた自分には平沢さんの逸脱した音楽が合っていたように、標準ではない医療が合っているのかもしれない。死の恐怖の前につい標準に合わせようとしたが、これからは自分に合ったやり方を見つけていきたいと。

 この場は終始明るく、笑いに満ちていた。